小さな幸せ
アランは慌てて近隣の国へと走り込んだ。
アカネの気絶は必然だっただろう。出会った時から、彼女は意識を保つのがやっとの状況だったのだ。むしろ、アランとの会話が終わるまでよくもった方だ。
アランはアカネとの会話を思い出し、アカネを外に置いたまま国へと入った。どれだけそこに大小の差があろうとも、自分と同じ過ちを犯してしまった者なのだとしたら、危惧しなければならないことがある。
アランは己自身もフードを目深く被り、素顔を隠して国の中へと脚を踏み入れる。
どれだけ怪しまれようも、その軽薄で飄々とした口調で話しをすれば、大抵の人間は快く話しをしてくれる。
「やあ、店主。そこの果物と水を譲っちゃくれねえか?腹が減って仕方ねえんだ」
この無駄な明るさは処世術だ。軽薄な男だと感じれば、相手もそこまで深くは詮索してこない。それこそ、国や軍を相手にするならそうもいかないだろうが、自分が相手にしているのは街の商人だ。
「なんだい、その怪しいローブは?街を歩く格好じゃねえな」
もちろん怪しまれるのは予想の範囲内だ。それくらいの対策はちゃんとしてある。
「いやあ、顔が火傷だらけで人に見せられる顔じゃねえのよ。だいたい、本当に怪しい人間がこんな朝っぱらから街の中を堂々と歩くと思うか?」
アランの言葉を聞いた店主は一瞬思案顔を浮かべるが、それもすぐに崩れ、商売用の作り笑顔にすり変わる。
「それもそうだ。まあ、色々大変だとは思うけど、頑張んなよ兄ちゃん。ほら、果物と水だ」
アランは敢えて大袈裟に笑い声を漏らしながらそれを受けとる。表情が見えない相手を安心させるには、こうするのが一番早い。
「ありがとよ!」
そう言って代金を店主に渡すと、そそくさと国の外へと出る。
ありがたいことに、この国の検問はそこまで厳しいものではない。怪しさは拭いきれないので、もちろん素性を尋ねられはしたが、それも街の商人と変わらない方法で切り抜けられた。
国を出ればわざわざ顔を隠す必要もない。あとは急いでアカネの元に向かうだけだ。
アランはおもむろにフードを脱ぎ去り、食料を片手に握りしめてアカネの元へと急いだ。
気の幹に預けていたアカネの身体が地面に倒れ込んでおり、焦りで足早に近寄ったが、どうやら息はあるようだ。
アランは安堵の吐息を漏らしながら、買ってきた水袋から水をゆっくりとアカネの口の中に流し込む。
喉元が鼓動を打つように律動を刻み、彼女の命が少しずつその身に戻ってくるのを感じる。
これで彼女が死んでしまっては、数時間前のやり取りに後悔しか残らないところだった。
命の鼓動が吹き返すように、彼女の呼吸の音がアランの耳に聞こえる程度に大きくなっていく。
アランは果物を手持ちのサバイバルナイフで小さく切り刻み、アカネの口に放り込む。今は衛生面がどうとか言っている場合ではない。
「噛むだけの余力は残ってるか?」
アカネが目を覚ましていることに気づいたアランは優しく語りかける。それに応えるように、アカネの下顎がゆっくりと動き始める。
まだ目を開きはしないが、それでも彼女はどうやら無事なようだ。これで何とか峠は越えた。
誰かの世話をするなんて初めてのことで、アランは不器用な手つきでアカネの中に小さく刻んだ果物を放り込んでいく。
アカネは小動物のように、与えられる度に下顎を小さく動かしながらそれを飲み込んでいく。
本当に小動物を飼っているようで、楽しくなってきたアランは調子に乗って果物を次々とアカネの口の中に詰め込むように入れていく。
そんなちょっとした遊び気分になっているアランに気づいたアカネは少し不機嫌な視線をアランに送り、小さく首を横に振った。そんな態度がとれるくらいには、アカネも元気を取り戻した。
そんなアカネの様子を見たアランは、ようやく自分が調子に乗っていたことに気付き、照れ笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「少しだけ眠らせて下さい。もう、大丈夫ですから。アランさんも、寝てくださっていいですよ」
「ガキが大人に気い遣うんじゃねえよ。心配しなくても、眠くなったら勝手に寝る」
それを聞いたアカネは安心したように小さな笑みを浮かべながら眠りに落ちた。
安らかな表情を浮かべて眠るアカネを見ていると、無意識の内に自らの手がアカネの頭へと伸びていた。慣れない感覚に戸惑いながらも、アカネの頭を優しく撫でた。
もし自分に子供がいれば、既に味わっていた感覚だったのだろうか。といっても、まだそこまでの年齢でもないが……。
誰かの寝顔がこんなに愛おしく感じたのは初めてだった。この寝顔をずっと見ていたい、そう思えるほどに。
何時間そうしていたのだろう。気がつけば太陽は頂点を越え、少しずつ陽が傾き始めていた。
アランはその間ずっと、アカネの頭に掌を乗せていた。疲れきって深い眠りに就いているアカネは、そんなアランの行為には気づかない。
「いけねえな。俺はもう、自分の幸せを願う訳にはいかねえんだ」
アランは独りでに首を横に振りながら、アカネの頭からその手を退ける。
そんな癒しが掌から溢れ落ちると、不意に自分も疲弊していることに気付き、睡魔に身を任せて眠りに落ちていく。
その掌には、じんわりと心の鎖を解くような暖かみが残っていた。
目を覚ますと、自分が眠る前の宣言通りに、何の用人も無く眠りに就いた男が横たわっていた。
自分を助けた男がどんな人間なのか気になって、アカネは重たい身体を起こした男に近寄っていく。しっかりとこの男の顔を見るのはこれが初めてな気がする。
浮浪者のように不揃いに長く伸びた髪に髯。しかし、そこから除くそれぞれの部位は端整で彫が深く、髪髭さえ整えれば男前な顔になるのは想像に難くない。
体格も服の下からでもわかる胸板の厚さに、袖先から覗く腕の太さからも、彼がそれなりに鍛えられた人間であることがわかる。
そんな立派な男が涙していた。誰も護れなかったのだと。
一体何があったのか。それを深く問い詰めるには、まだ彼のことを何も知らなすぎる。
それに誰かの過去を覗くことは、誰かの傷を抉ることなのだ。もう、誰かを傷つけたくないと思うアカネには、その過去を自ら聞くことは叶わない。
それにしても、ここ数日は死ぬことばかり考えていたので、身体中が汚れていて傷だらけだった。よく見れば、自分だってこの男と何も変わらない浮浪者じみていた。
生きていくことを決めたのなら、流石にこのままでいるのは女の子としてどうなのだろう。
目の前の男もちょうど深い眠りに就いている。どうせ彼が起きるまで、この場を離れることはできないのだ。
どこかに水浴びができる場所があるなら一度身体を洗いたい。
アカネは水を探して辺りを見回す。ありがたいことに川はすぐに見つかり、アカネは川沿いを歩いて人目のつかない場所を探した。
川は雑木林の中へと繋がっており、そこなら人の視線から自らを隠すことができる。
そう思ったアカネは、飛び込むようにその雑木林の中に入っていく。
川の流れは穏やかで、深さも浅すぎないくらいでちょうどいい。指先を水の中にいれると、少しひんやりとしていて、昼下がりの少し暑くなった身体を指先から冷ましていく。
「早く済ませないと、心配されちゃうかな」
また誰かに心配してもらえるのかと思うと、胸の辺りがじんわりと熱を持つのとは裏腹に、真綿で首を絞められるような、穏やかな苦しさが込み上げる。
水が流れる音と鳥のさえずりだけがこだまする木々の合間に、少女の衣擦れ音が混ざりあう。
布が失われ露わになった身体には、たくさんの傷痕が残っていた。女の子とは思えないほどの、痛々しい身体。
けれどそれが自らの罪の証だと思うと、罰を受けて少しは許されたような気がして心が落ち着く。
そんなものは幻想だと理解していながら、身体中を覆い尽くす痛みに安堵する自分がいた。
「うっ……」
思わず声を漏らしてしまうほど、身体中の傷が水の冷たさを拒絶するように、疼き痛み始める。
けれど、その痛みを噛み締めるように、アカネは瞼を閉じ無の世界へと没入していく。身体中の痛みが、意識を越えて消えて無くなるまで……。
瞼に差し込む太陽の光の熱に、アランは目を覚ます。手で太陽からの陽射しを遮りながら、アランはぼやけた視界で辺りを見回す。
「あれ……?あいつ、どこ行きやがった」
ぼやけた視界は一気に晴れ、ある事実を突きつける。アカネの姿がない。
昨日まであんなことを言っていた少女だ。少し目を離した隙に、また死のうとしていてもおかしくはない。
まだ幼く感情の起伏の激しい未熟な心のはずの少女から、目を離した自分を少しだけ後悔する。
だが、今は考えている場合ではない。一刻も早く彼女の安否を確めなければならない。
「あっ……」
名前を呼ぼうとして、彼女の名前をまだ知らないことに気づく。自分は名乗ったが、彼女の名を未だ聞いていない。
「くそっ」
アランは宛てもなく辺りを駆け回る。太陽の傾きからしても、まだそんなに遠くには行っていないはずだ。
それに、彼女も自分と同じなのだとしたら、人目に付く場所は避けるはずだ。
それだけわかっていれば、この周辺で探さなければいけない場所は限られている。
名を呼べない悔しさを噛み殺しながら、アランは少女を探して駆け回る。自分も追われている身だということを考えれば、あまり目立つ行為も許されない。
やがて、アランの視界に小さな雑木林が現れる。隠れられそうな場所はとにかく探してみるしかない。
ようやく見つけた自分が生きる意味。そう簡単に手放す訳にはいかない。これ以上、誰かの未来を奪わせはしない。例えそれが、自分自身の為の行いだったとしても。
木々を掻き分け奥へと進んでいく。水の音が木々の合間を通り抜け、鳥のさえずりが調和を生み出す。
そんな穏やかな空間を、焦りで額に汗を滲ませた男が駆け抜けていく。
水のせせらぎは少しずつその音量を増し、自分が川へと近づいていることに気付く。
「溺死なんて冗談じゃねえぞ」
水の音が大きくなるほどに、歩を進める速度が増していく。名を呼ぶことができれば、この視界以上の情報を得られるというのに……。
枝葉に頬を傷つけられながらも、それを気にすることもなく突き進んだ先に、ようやく開けた場所が現れる。
そこは川が流れており、水の音はここから聞こえていた訳で……。
そしてそこには、水の澄んだ瑠璃色とは明らかに異なる、見馴れた色が混ざり込んでおり……。
「えっ……」
その声を発したのが自分だったのか、それともそこにいた彼女だったのか、それすらも判然としないほど困惑しており……。
けれど、彼女が無事だったことへの安堵が何よりも強く、アランは焦ることなく吐息を漏らしていた。
彼女がそれをどういう風に受け取ったのか、それは彼女にしかわからない。だが、彼女の頬はみるみる内に瑠璃色とコントラストを生み出すような紅緋色へと染まっていく。
「いやあ、無事でよかった。俺はてっきり……」
「出てって……」
ホッとした勢いで、自分の視界に映っているものを理解しようとしないまま、ゆっくりと歩み寄る。
「このまま、またどっかに行っちまうのかと……」
「出てって……」
彼女の声は呟くように小さく、アランの耳には届いていない。彼女の言葉を無視するように、アランは少しずつ近付いていく。
「とにかく、無事で……」
「出てってって、言ってるでしょっ!!」
アカネの我慢が限界を迎え、怒声と共に掌を前に突き出す。
アカネの掌に魔法陣が浮かび上がり、アランの元に雷が走り抜けた。
それでようやくアランも落ち着きを取り戻し、アカネの姿をはっきりと視界に入れる。
そこには一糸纏わぬ姿で胸を片腕で隠し、水の中に身体を埋める一人の少女が……。
言い訳をするのが正しいのか、いっそ開き直るのが正しいのか。
「別にお前みたいな貧相な身体を見たとこで、何も思わねえって」
全くもって嘘偽りはなかった。相手は自分よりも一回りも二回りも年下の少女だ。流石にそれに欲情するわけがない。
「そういうこと言っているんじゃないっ」
ごもっともな返答が少女の口から返ってきた。男にどう思われるかなどよりも、この状況自体が恥ずかしいのだ。
アカネは狂犬のようにグルルと唸りながら、アランを威嚇する。それを宥めるように、身振り手振りで落ち着けと促す。
「まあまあ……。確かにお前の言うとおりだ。今回は俺が悪かった」
それで出ていくのかと、アカネもようやく警戒を解こうとしたのだが、アランの言葉はどうやら終わらないようで……。
「で、お前って呼ぶのもあれだから、名前をおしえてほしいんだけど……」
「だから今じゃないでしょっ!!」
静かで穏やかな木々の合間を、稲妻と怒声が駆け抜けた。