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The Story of Ark -王無き世界の王の物語-  作者: わにたろう
第十二章 繋がれる汚れた掌
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受け入れられない現実

 叫ぶ声も枯れ、流す涙も枯れた頃、アカネは魂が抜けていくかの様な疲労感と、世界がゆっくりと形を失いながら滅びていくかのような絶望感に苛まれていた。

 自分が取り返しのつかないことをし、あまつさえその意味を失ってしまったことを改めて脳裏に焼き付ける。

 もう、アリスがどこに連れていかれてしまったか、それを知る術はない。

 『王に買われた』という情報だけでは、数多の王が存在するこの世界では情報足りえない。


「わたしは……、わたしは……」


 言葉を口にしようとするたびに、もう枯れてしまった筈の涙が、それでも溢れだそうと瞼を焼く。もう一滴も出てはこないけれど。

 もうここには、自分を抑えつける者は誰もいない。無理やりここに繋ぎとめる者も、アカネが護りたいと大切に思う者も。

 やがて、時の流れが堆積した罪悪感を少しずつ攫っていく。

 背後に拡がる赤黒く染まった血の海を、もう一度目にする勇気は正直無かったが、数週間でも同じ場所で同じ苦しみを噛みしめながら、同じ場所にいた奴隷たちを放っておけるほど、アカネも非情ではなかった。

 その光景を目にして平気でいられた訳などない。嘔吐と嗚咽を無理やりに噛みしめ、平然を装って牢獄の鍵を開けていく。

 そんなアカネの姿を見る奴隷たちの目は、ようやく助けられた安堵よりも、目の前の少女に怯える恐怖が表情を埋め尽くしていた。まるで化け物でも見るかのような眼で……。

 だが、誰がそれを責められようか。自分だって、人間を玩具のように蹂躙する人間に忌避感を覚えないはずがない。自分があちら側いれば、同じ表情を浮かべていたに違いない。

 だから、なるべく顔を上げずに俯いたまま淡々と、機械的な作業のように鍵を開けていった。

 それでも、ときどき怯えるような震える声で「ありがとう」と、感謝を告げてくれる者もいた。

 その感謝にアカネは返事をすることができなかった。

 彼ら彼女らを助けるために戦ったのではない。もうここにはいない、たった一人の少女のために戦った。

 目の前の者たちになど、一片の興味もなかった。ただの副産物でしかなかったのだから。

 牢獄から数人の奴隷を解放すると、自分よりも余程年齢を重ねた男性に鍵を押し付ける。


「後は、よろしくお願いします」


 自分が全ての牢獄を開ける必要などない。こんな気が狂いそうな場所、早く立ち去りたかった。

 沈むような声音に、男は困惑したような表情を見せたものの、無言でアカネの手から鍵を受け取り、まだ解放されていない牢獄へと向かっていった。

 役目を終えたアカネは、死んだような虚ろな瞳を揺らめかせながら静かにその場を後にする。

 もう、ここにいる必要などない。ここがどこかもわからなければ、これからどこに行けばいいのかもわからない。ならばただひたすらに、宛もなく流されるように歩いていこう。

 とぼとぼと覚束ない足取りで奴隷商人のアジトから離れていくアカネの背中に、不意に幼く鈴のよな声が響く。


「ありがとう。おねえちゃん」


 アカネの脚が、アカネの意思を拒絶するかのように立ち止まる。

 その少女が誰なのかアカネは知らない。きっと、別の牢獄に捕まっていた少女だったのだろう。

 それでも、その声を聞いた瞬間少しだけ救われたような気がした。

 無意味ではなかったのだ。大切な少女を護ることが出来なかった後悔も、多くの者の命に手を掛けた罪悪感も消えはしないけれど、それでも意味はあったのだ。

 アカネの虚ろな瞳の奥に、小さな炎が燃え上がる。

 それは吹けば消えてしまいそうなか細い炎だが、確かな熱でアカネの瞼を焦がす。

 新たに生まれたその熱は、これまで瞼を濡らしていた涙とは明らかに違う涙を宿らせる。

 虚ろな影に覆われて、凝視しなければ気づかないほどに小さいけれど、それでも今、確かにアカネの中に新たな光が射し込んだのだ。

 まだ、自分にもできることはある。この力が、ただ人の命を奪うものではないと、自分自身に証明しなければならない。

 アリスだけではない。自分にはまだ護りたい者があったはずだ。今日まで一度も忘れたことのない、大切な兄が。


「まだ……、間に合うかな……」


 こんな所で終わりにしたくはない。自分が自分で望んだ力が、ただの兵器であっていいはずがない。

 誰かを護るために得たはずだ。誰かを救うために望んだはずだ。


「待ってて……、おにいちゃん、アリス。私が、必ず助けるから」


 目の前に拡がるのは、一歩先も見えない暗闇だ。けれどそれを照らすための光は、もうその手の中にあるはずだ。

 アカネはもう一度歩き出す。後ろは振り返ることなく、闇の中を……。その手に携えた、光を頼りに。




 自分がどこにいるのかもわからなかった。護りたい者があっても、彼らがどこにいるのかもわからない。

 何もかもが不明瞭で、自分の意識すらも定かではない。

 そんな中で、ここにたどり着いたのは、やはり運命なのだろう。

 まるで世界が、与えられた力の使い道を指し示してくれているような、無意識のつもりが実は誰かに導かれていたような、そんな気がしてならなかった。

 目の前には、巨大な城壁が自らの存在を誇示せんばかりに鎮座していた。

 その城壁には見覚えがあり、いつか大切な兄とその城門を潜り抜けた思い出が脳裏を過る。

 兄と長きを過ごし、偽りの安寧した時を手に入れ、やがて醜悪な魔の手に全てを奪われた国『ロンドザナ』。

 あれから一ヶ月近くが経った。

 もしかしたら、兄はもうここにはいないかもしれない。

 あんな喧嘩別れをしたけれど、それでも優しい兄は自分を探してどこかに旅に出ているかもしれない。

 それは会えなくてとても残念だけど、そんなことを期待している自分がいるのも否めない。

 何よりも、あの醜悪な魔の手から逃れてくれていることが、一番の望みだ。

 もし、まだこの国に残ってくれているなら、今度は与えられた力で自分が兄を救いだす番だ。

 これまで、たくさん迷惑を掛けた。数えきれないほど心配させて、数えきれないほど救われて、数えきれないほど笑顔をもらった。

 一ヶ月の間兄と別れて、初めてそれを理解することができた。兄がいなくなって初めて、その存在の大きさを確かめることができた。

 今度は自分が、これまで兄に与えてもらったものを返す番だ。この力がただの兵器ではなく、大切な者を護るための力だと示す時なのだ。

 最初は驚かれるかもしれない。どうしても、この力を使ったときの、化け物を見るような怯えた人々の目が脳裏を過る。それを兄から向けられたら、耐えられなくなるかもしれない。

 それでも、きっと兄は受け入れてくれるはずだ。そして、その力の本当の意味をわかってくるはずだ。

 虚ろな瞳に隠れていた炎が、少しずつ大きくなっていく。

 靄がかかったようにぼやけていた炎は、目の前に拡がる城壁を見て確かな形を成していく。

 だが、アカネが決心を固めていたその時、城壁の内側に明らかな異変が起こった。

 城壁の内側の一部が、赤く染まっている。黒い煙が上がり、それを伝って空を赤く染め上げる。

 今や聞き慣れてしまった銃声が、それでも耳を引っ掻くような痛みを残して吹き抜けていく。

 悲鳴と咆哮が城壁を乗り越えて、アカネに降り注ぐように鼓膜を震わせる。

 空へと昇る黒煙は、いつかの故郷でみたそれと酷似しており、それがどういうものなのか、アカネにも容易に想像ができた。


「戦争でも、してるっていうの……」


 そう、その黒煙は明らかな争いの爪痕。

 脳裏を過るのは、誰かが誰かの命を奪い合う凄惨な光景。


「おにいちゃんを助けなきゃ」


 いるかどうかもわからない。けれど、迷っている暇はない。その迷いで、これ以上後悔をしたくないから。もう、誰も失いたくないから。

 アカネは城門に向けて全速力で走り出す。

 今の自分ならば、戦場に立ち入っても命を落とさない自信があった。むしろ、戦争を止められるくらいの覚悟があった。

 だが、それらの覚悟は城門を潜るよりも前に、音を発てて崩れ落ちていった。

 アカネが城門をはっきりと視界に捉え、そこにいる衛兵をどう対処するかを考えていたその時、城門は謎の力によって内側からこじ開けられた。

 城壁の一部が崩れ、衛兵は慌てて城壁の近くから離れ、瓦礫から逃れた。

 アカネは思わず脚を止め警戒心を強めながら、砂埃で曖昧に浮かび上がる、城壁を壊した者の姿を視界に捉える。

 立ち込めた砂埃はやがて風に吹かれて、城壁を壊した謎の影がそのベールを脱ぐ。

 その姿に、アカネは唖然とした。喉が言葉を口にすることを拒絶するかのように、本当に言葉を失ってしまった。

 そこにいたのは紛れもなく自分が知る者だった。その者を見間違うはずもない。

 救わなければと、もう一度共にいたいと強く願った相手。今この世界で、最もその姿を眼に焼き付けたかった相手。

 そこにいたのは紛れもなく、自分の兄『レイ・クロスフォード』だった。


「お、にい、ちゃん……」


 ようやく喉が意識を取り戻したかのように、言葉が途切れ途切れに口から漏れる。

 まだ、自分が眼にしているものが信じられない。

 兄は自分の力に似た、超常の力を操っていたように見えなかったか?

 そして、その右手に親の仇のように乱雑に、しかし力強く握りしめられたそれは……。


「エリアル・ヴァルドレア……」


 アカネは、その名を口にする。自分を陥れ、あまつさえ兄に手を掛けようと企んでいた、醜悪な騎士団長の名を。

 そう、レイが右手に携えていたのは、自分たちを魔の手に掛けようとしていた男の首だった。

 レイが掴むその首からは、まだ赤い鮮血が滴り落ちており、生々しさが露になっていた。

 きっと数分前まで、あの首は元の身体に繋がっていたのだ。だとするならば、それをやってのけた者は一人しかいない。

 ようやく目の前のレイと視線が交わる。

 レイは一瞬幻影でも見るかのように眼を見開き、驚愕の表情を浮かべる。

 だがそれも一瞬で、次の瞬間、まるで世界の終わりにでも立ち会ったかのような、絶望と悲壮にまみれた表情を浮かべた。

 兄のその表情の意味がアカネには全くわからなかった。

 兄の心の中で何が起こっているかもわからず、不安と困惑に塗れながら、言葉を口にすることもできずにただ兄を眺めていた。

 アカネが言葉を失いながら、目の前の光景を理解できずにいると、レイが立ち止まり口を開く。


「どうしてお前がここにいる?」


 それは確かにレイから告げられた言葉だった。だがアカネには、本当にそれが兄の言葉なのだと理解することができなかった。

 その声はあまりにも冷酷で怒気に塗れていた。そんな声音を、目の前の兄から向けられたことは、産まれてから一度もなく、その声が兄のものだと信じることができなかった。


「えっ……?」


 信じられない光景に声は掠れ、言葉が出てこない。アカネが動揺を隠せずに狼狽していると、レイは更に言葉を重ねていく。


「お前がいなくなって、ようやく俺はお前という枷から解放されたというのに、どうして戻ってきた」


 レイの言葉を拒絶するように、脳が思考することを拒んでいる。

 一体自分は何を言われているのだろうか。それすらも判然としない。


「俺はお前が大嫌いだ。力もない、知識もない。ならば黙って護られていればいいものを、偉そうに強くならなくていいなどと宣う。何様のつもりだ?」


 初めて兄から純粋な怒気を感じる。これまでの思わず口走った怒りとは比べものにならない程、冷酷で残酷な言葉が並べられる。


「お前のような自分勝手な奴が俺は一番嫌いだ。どうせなら、奴隷になって俺の目の前から消えてくれればよかったものを……」


 それが兄の本心なのか、それを見透かせるほど今のアカネに余裕はない。だが、今目の前に立っている兄は、これまで見ていた兄とは間違いなく何かが異なっていた。


「何、言って……?」


 確かに喧嘩別れのようなまま、時間だけが過ぎてしまった。だが、たったそれだけで、兄からこれだけの拒絶をされる意味がわからなかった。

 アカネの声を聴いたレイは怒りを露わにするように、手に握りしめていた首を地面に向けて乱雑に投げ捨てた。


「早く俺の目の前から消えろ。目障りだ」


 心を茨の鞭で巻きつけられたような痛みがアカネを襲う。じわじわと殺さずに焦らされるような痛みがアカネの首を絞めつけていく。

 言葉を口にしようとしても思考が、喉が、身体がそれを拒絶する。

 全てが夢ならばいいと、現実を受け入れられない自分がそこにいた。


「そしてもう二度と、俺の目の前に現れるな」


 何かが崩れ落ちていく音が、アカネの身体中を駆け抜けた。もう、何も取り戻せないのだと、本当にこれで終わりなのだと、どこかで理解してしまった。

 目の前の兄が誤魔化しや冗談でそんなことを言っている訳ではないと、兄を最もよく知る自分が最も理解できてしまっていた。

 アカネは膝から崩れ落ち、涙すらも出ないまま、虚ろな瞳で過ぎ去る兄をただ眺めていた。


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