力に溺れる
アカネがゆっくりと立ち上がる姿を目にした男は、我慢の限界を迎えたように額に血管を浮き上がらせながらアカネに告げる。
「おい。あんまりしつこいと、いくらお前が商品だからって、こっちも容赦してやれねえぞ。お前の代わりなんていくらでもいるんだ。命が惜しかったら、大人しくその鉄格子を自分で閉じろ」
身体中に力がみなぎっているのを感じる。これが本当に自分の身体なのか疑いたくなるほど、これまでとは明らかに何かが異なる。
あれほどの殺気と威圧感を向けられて何の恐怖も感じない自分が、どこか頭のネジが吹き飛んだように感じて仕方がなかった。むしろ、それに恐怖を感じない自分に恐怖を感じているくらいだった。
「おい、その女を連れて行け。俺は少々躾をしなきゃならんようだ」
どれだけ脅されても動く様子の無いアカネに、我慢の限界を迎えた奴隷商人がアリスを隣にいたもう一人に明け渡し、無言のままアカネの元へ歩み寄る。
怒りをあからさまに表に出すように指の関節を鳴らしながら、自分よりも身長の低いアカネを威圧するように、鋭い眼光を帯びながら見下ろす。
その様子がまるで弱者が自分を無理矢理大きく見せているように見えて、アカネの口許から冷めた笑いが漏れた。
それが奴隷商人の逆鱗に触れ、大きく口許が歪んだ瞬間、男はアカネに向かって自らの拳を何の躊躇いもなく振り下ろした。
「止めてっ!!」
アリスの振り絞るような、悲鳴が牢獄の中に鳴り響く。彼女の声はとても綺麗で、だというのに、そんな彼女から哀しい悲鳴を吐き出させる彼らが許せなかった。
誰もがアカネが吹き飛ぶ光景を想像していただろう。この牢獄の中で、誰が奴隷商人の拳を受け止められると思うか。
しかし、アカネはこの牢獄の全ての人間の想像を裏切り、奴隷商人の拳を避けてみせた。
それが本当に自分の意志がやった事なのか、それすらも曖昧だった。けれど、自分の呼吸は驚くほどに落ち着いていて、騒然とする牢獄を埋め尽くす言葉の一片、一片を拾い上げることができるほどだった。
「何の冗談だ……」
この牢獄の中の全てを裏切ったが、目の前の男ほど驚きの色をその瞳に宿した者はいないだろう。先程までの鋭い視線はなりを潜め、今は不安定に揺れる瞳がアカネの姿を離さなかった。
「言ったはず。私が、必ず助けるって」
俯いていたアカネが唐突に視線を上げる。その視線を交わすことで、男の眼光がさらに揺らぎ、弱まる。
そこにあったのは、少女のそれとは思えない程、力と生気の宿った屈強な眼差しだった。
「お前はいったい誰だ……?」
男がまるで幻想を抱く程、アカネの双眸が数分前までのものとは変わり果てていた。その双眸に映る眼差しは、まるで屈強の戦士のように猛々しく燃えていた。
男の背中から覗くアリスは、驚きのあまり口許を掌で抑えて、揺らめく瞳でアカネを眺めていた。
もしかしたら怖がられているのかもしれない。アリスにも、アカネがアカネでない者に映っているのかもしれない。
それでも構わない。誰に恐がられようとも、目の前の大切な誰かを護れるのならば、それで構わない。
「私は、私だ。アカネ・クロスフォードだ」
アカネの掌が鈍く蒼い光に包まれる。その光の後を追うように、蒼い稲妻がアカネの腕に纏わり付く。
「そんなバカな……。お前、まさか……」
男が信じられない者を見るような、まるで化け物でも見るかのような眼で、アカネを眺めていた。先程までの鋭い視線が嘘だったかのように、その痕跡はどこにも見当たらなかった。
こんな屈強な男にまで恐がられる存在になってしまったのだと、そう理解した瞬間に心臓を握りしめられたような胸の痛みに襲われる。
そんな胸の痛みを誤魔化す様に、アカネは自らの胸の辺りで拳を握りしめ、自分の心に言い聞かせる。今はそんなことを気にしている場合ではないのだと。
「『王の資質』に目覚めたのか……」
『王の資質』という単語にどういう意味があるのか、今のアカネにはわからなかった。それを問い質したい気持ちを、早くこの場を抜け出したい気持ちが追い越し、戦えとアカネを急かす。
腕に纏った雷が、力を放出したいとせがむように、刺激音を漏らしながら腕の周りで弾けている。
そんなアカネを見下ろしていた男が、不意に悔しそうな表情を浮かべて歯噛みすると、後ろでその様子を見ていた、アリスを連れたもう一人の男に叫ぶように呼びかけた。
「その女を早く外に連れ出せ。そんで、さっさとここにいる全員をここに集めろ。今すぐだ!!」
怒りと焦りが滲んだ叫び声に、アリスを連れる男が小さな悲鳴を漏らしながら、颯爽とこの場から去っていく。その手にはアリスの腕がしっかりと握りしめられていた。
アリスをこの場から連れ出させる訳にはいかない。
「やらせない」
アカネが動き出そうとしたその時、男の影が嫌に大きく感じアカネは背筋に悪寒を走らせる。
「それはこっちの台詞だ。ガキが一人目覚めたくらいで、この状況を変えることなどできはしない。目覚めたばかりのガキに何が出来るって言うんだ」
そんな威勢のいい言葉とは裏腹に、男の瞳は恐怖と焦燥感に揺れている。彼は言葉で自分を奮い立たせているだけで、心のどこかでアカネに勝てないと理解しているのだろうか。
男が圧し掛かる様にアカネの両腕を抑えつけ、アカネの動きを封じる。
男の太く頑強な腕が、アカネの腕を地面に釘付けにするように押さえつける。
「退いて。じゃないと……」
その後の言葉を口にするのが恐かった。
そう、アカネに一つだけ問題があったとすれば、それは人を殺す覚悟がまだできていなかったこと。だから抑えられてしまった時に、力づくで抜け出すことができなかった。それは相手の死を意味していたから。
しかし、この男を力付くでも退けなければ、アリスが連れ去られてしまう。奴隷として連れていかれてしまえば、生きていたって死んでいるのと変わらない。
どちらを選ぶかなど明白なはずなのに、迷っている自分が腹立たしくて仕方ない。
だからアカネは問い掛ける。自らの心に。今の自分に、何を求められているのかを。
殺したら。殺したら。殺したら。殺したら?殺したら?殺したら?殺しても?殺しても?殺しても………。
構わない……。
気がついたときには、雷を纏った脚で乗り掛かっていた男を蹴りあげていた。男は宙を舞い、アカネが蹴りつけた腹部からは生暖かい雨を降らせる。
殺意は自意識を越え、世界の色を拒絶するように、世界がモノクロに染められていく。
宙を舞った男からは、まるで墨を撒き散らしたように、黒い液体が周囲に飛び散る。
その黒い液体を頭から浴びた瞬間、自分が壊れてしまったかのように、何もかもがどうでもよくなったような気がした。
そんなアカネの中に唯一根を張っていた『アリスを救いたい』という思いだけが、アカネの意識を繋ぎとめる唯一の支えだった。
それがなければ、全ての自意識は殺意の渦に飲み込まれていただろう。だが、それも時間の問題かもしれない。
「アリスを離せえええええ!!」
猛獣の雄叫びのように、アカネは牢獄を埋め尽くす声量で獰猛な叫び声を上げる。
既にアリスの姿は牢獄にはなく、それと引き換えに男たちがなだれ込むように牢獄の中へと入り込んでくる。
「『資質持ち』を捕らえろ!!最悪、殺しても構わん。死体だろうが、資質持ちなら金になる」
一斉に銃を構える男たち。自分に向けられた黒い風穴が何なのか、アカネはそれすらも理解できない程に怒りと殺意に侵食されていた。
そこから放たれる物が何であれ、アカネには関係がなかった。それが何であろうと、今のアカネを止めることはできなかったから。
銃声の嵐が牢獄の中に巻き上がる。黒い風穴は火を噴き、轟音と共に弾丸を吐き出す。
だが、その弾丸はまるで壁に阻まれるように、アカネの目前で勢いを失くし、雨のように地面に降り注ぐ。
いや、事実壁に阻まれているのだ。眼には見えない透明な壁に。王の資質を持つ者なら、だれでも生み出すことができる『魔導壁』に。
新しく手に入れた力のはずなのに、まるで長年共にしてきたかのように、無意識にその力を使うことができた。
そのことに、今のアカネは何の疑問も抱くことは無かった。そんなことはどうでもよかったから。
「私の邪魔を、するなああああああ!!」
遂にアカネが動き出す。
まるで虫のように群れる男たちに向かって、アカネは腕に雷を纏いながら突っ込んでいく。
『死』など知らない。『生』など知らない。『命』など知らない。
狂気に染まったアカネに、もう迷いはなかった。
先頭にいた男に向かって、アカネは腕を突き出す。腕は男の身体を貫通し、そこから大量の墨が飛び散る。墨はアカネの身体をも黒く染め上げ、生暖かさがアカネ包む。
「退け、退け、退け……。私の前から、消え失せろっ!!」
アカネが手刀を模り、男たちの首を一薙ぎすると、まるで人形のように首だけが宙を舞い、地面に伏した胴体は地面を黒く染めていく。
最早アカネには、男たちが墨で中身を満たした土人形に見えていた。
触れれば容易に身体は崩れ、そこから溢れ出るのは黒く染まった墨。それ以外の何物でもない。
時に土人形が携える、どす黒い金属の塊が火を噴いたが、それも無意識の壁に阻まれ地面へと落ちていく。
だが、どれだけ土人形を土に帰しても、次から次へと現れる。
「あは……、はははははは……」
どこからか下卑た笑みが耳を刺す。一体誰が笑っているというのか。
そう言えば、どうして私は土人形を壊しているのだろう。確か、何か大切なことがあったはずなのに、それがまるで靄が掛かったようにぼやけている。
「くひっ……、ひひひひひひ……」
悪意に染まった、醜悪な笑い声。こんな状況でそんな笑みを誰が零すことができるのだろう。
何度壊しても、どれだけ壊しても、土人形は現れる。いつの間にか、自分の足許には、墨でできたどす黒い海ができていた。
何だろう?土人形を壊すことが楽しい。自分で組み上げたおもちゃを破壊するように、愉悦と快楽が込み上げてくる。
「あはははははははは」
醜悪な声で笑っていたのは自分だった。目的など全てをかなぐり捨て、愉悦と快楽に溺れながら、アカネは笑い声を上げて殺戮を行っていたのだ。
本人にそんな自覚があったかは定かではない。いや、むしろ確実になかっただろう。
彼女がしていたのは、殺戮などとはかけ離れた、ただの人形遊びだ。並べられた人形を壊して、無邪気な笑い声を上げて楽しんでいただけなのだ。
とうとう全ての土人形が、人間の形を失くし地に伏せる。牢獄は既に大量の墨で黒く染まっていた。
「もう……、おしまい……?」
アカネは唇に人差し指を添えながら、小首を傾げて甘えたように幼げな態度で尋ねる。
自分が本当は何をしたのかなど、知る由もなく。
アカネは次なる遊びを求めるかのように、ふらふらと牢獄の外へと脚を踏み出す。
空は満天の星が見下ろすように輝いている。久しぶりに吹き付ける外の風に、少しだけ肌寒さを感じながら、熱を帯びていた殺意がその風に冷やされ、自意識が少しずつアカネの心に帰って来る。
「あれ……?」
身体中を寒気が走り抜ける。世界は色を取り戻し、全身を黒く染め上げていた墨が急激に温度を失い、黒から赤へと色を変えていく。
「わ、わたし……、なに、して……」
後ろを振り返ることができなかった。徐々にこの数分の出来事が、頭の中に舞い戻って来るかのようにフラッシュバックし、しかしアカネはその光景を拒絶するように首を激しく横に振る。
「ちがう……、わたしは……」
ただ、アリスを護りたかっただけ。けれど、そんなこと口にできるはずがなかった。
事の始まりは確かにそうだったのだろう。だが、事実はどうだ。いつの間にか、アリスのことなど意識の外に放り投げ、ただ人形遊びを、いや、殺戮を楽しんでいただけではないか。
事実、もうここにアリスの姿はない。
結局、大切な者など誰も救えないまま、自分の心に癒えない深い傷を負っただけではないか。
「わたしは……、わたしは……」
瞼を熱が焦がし、涙と悲鳴が溢れ出す。誰かに許しを請うように、アカネは地面へと額を擦りつける。
アリスを助ける為に、必死だった。
突然手に入れた力に、制御が効かなかった。
人間を殺していたつもりなど微塵も無く、ただ人形遊びをしていただけだった。
様々な言い訳が脳裏を過るが、それを受け入れる者など誰もいない。
一体自分は何の為に力を望んだのか……。それを断言することは、今のアカネにはできなかった。