黒く染まった欲望
「どうして……?」
何も理解ができないまま、不意に自分の口をついて出たのはそんな言葉だった。
思考が追いつかない。いや、思考をしたくなかっただけなのかもしれない。自分があまりにも滑稽に思えてしまうせいで。
「どうして、ですか。そうですね……。僕の唯一の楽しみ、とでも言っておきましょうか」
律儀にも彼は思案する様子を見せアカネが不意に発した言葉に応える。その間も、怪しげな男は下卑た笑みを浮かべたまま、アカネの首に腕を回して抑えつけていた。
「本当はもう少ししてから、こうするつもりだったんだけどね、君があまりにも熱い視線を向けるから、気持ちが早ってしまったんだよ」
アカネは驚いたように目を見開く。そんなアカネの様子を見て、エリアルはこれまでに見たことの無いような醜悪な笑みを浮かべる。
「もしかして気が付いていないとでも思っていたのかい。あれだけ、疑いの視線を向けておいて、こちらが気付かないと、本気で思っていたのかい?」
初めてエリアルに感情の込められた表情が浮かぶ。それは決して好意的なものでは無かったけれど。
「そんな片手で数えられるほどしか生きていない君が、立派にも探偵ごっこをしていたのがあまりにも滑稽で、見過ごしていただけに決まっているじゃないか」
身体中が震える。彼をあれだけ疑っておきながら、最後のまで疑い切ることができなかった自分への憤怒が身体を震わせる。
「それにしても、君のお兄さんはもっと滑稽だよね。彼より幼い君ですら、僕のことをあれだけ疑っていたというのに、彼はその片鱗すら見せやしない。真実を告げるのが楽しみで仕方がないよ」
何も考えたくはない。これが夢であって欲しいと切に願う。けれど、身体を抑えつけるこの痛みが、これが夢でないことを鮮明に告げている。
「僕はね、あまりにも早くにこの地位に昇りつめてしまった。そのせいで、城内でも城下町でも、どこへ行っても皆が僕のことを知っている。何か粗相があれば、すぐにでも城内に、いや、国中に広まってしまう。そんな息苦しい生活が嫌で嫌で仕方がなかった」
唐突にエリアルの一人語りが始まる。誰もそんなもの、求めてはいないのに。
「この国を護ることが嫌なわけじゃないよ。むしろ、そうしたくてこの国の騎士団に入ったのは嘘じゃない。けれど、そんな自分には気を休める娯楽すら与えてもらえずに、毎日が退屈で窮屈で仕方がなかった。そんな時に、誰かを救いたいという気持ちとは裏腹に、誰かを貶めたい、誰かを傷付けたいという気持ちが僕の心に芽生えたんだ」
目の前にいるのが、本当にこれまで兄に剣術を享受していた人間なのだろうか。そう疑いたくなるほどに、彼の表情は負の感情で埋め尽くされている。
「そうだよ。その表情を求めていたんだ。信じていたものに裏切られ、救いの道を断たれたその悲壮な表情こそ、私が求めていたもの。一度救われた者に裏切られる気持ちはどうだい?今日一日だけでも、君は僕に心を許していただろ。そんな僕に裏切られた気持ちはどうなんだ?」
怒りの渦が脳を溺れさせ、それが自分の感情なのかもわからなくなる。ただ、全てを吐き出したいという思いに急かされて、喉が焼けるような叫び声を上げた。
「あああああああああ!!」
これは自分の悲鳴なのだろうか。最早それすらもわからない。怒りも悲しみも置き去りにした、空っぽの自分だけがそこにいるような気がしていた。
「あははは……。そうだよ、その悲鳴だ。その表情だ。それでも、どれだけ叫び声を上げようが、ここは誰も助けになど来ませんよ。それは君が一番よく理解しているはずだ」
そう言われて、もう思考する力などほとんど残されていない頭で、辺りを何とか見回す。
そこでようやく思い出す。先程感じた、どこか見たことがある景色を。
「そう……。ここは初めて君と出会った時に、僕が君を救い出したあの通りだ。あれだけの騒ぎがあっても、僕以外に誰も助けになど来なかっただろ。ここは地形の関係で、声が漏れないようになっているんだ」
不意に頭を過るのは、街にいたときに耳を塞いでいた例の噂。ここ最近、子供が何人か失踪しているという噂。
「その眼は、何かに気が付いたようだね。まあ、これから奴隷として売られる君には教えてあげてもいいだろう。どうせもう、この国には戻って来られないからね」
その言葉で、アカネは自分の運命を悟る。これから自分がどういう目に遭うのかということを。
「住民たちがよく噂をしていただろ。街の子供が失踪していたと。君の想像通り、犯人は僕だ。君たちみたいに、少しずつすり寄って、信じさせて、最後に裏切る。その度に僕は愉悦に浸ることができる」
心底楽しそうに醜悪な笑みを浮かべる。まるで隠していた表情が、我慢しきれずに溢れ出しているかのように。
「それでも、この地位を危ぶむことはしたくない。だから、疑わしい目をあの貴族に向けさせるため、少女ばかりを狙うことにしたんだ。君も狙われたことがあるだろ?あの、醜悪な貴族に」
どの口が『醜悪』などと言う言葉を使うのか。
どちらもやっていることは変わらない。他人に責任を押し付けているだけ、目の前の男の方が余計に質が悪い。
「お陰で、僕に疑いの目が向けられることはなかった。まあ、元々僕が疑われることなんてないんだけどね」
「ただ……」と一瞬笑みを噛み殺して、肩を落とす仕草をする。
「犯人を見つけられない騎士団が、無能なのではないかと噂されるのだけは、少しだけ心苦しかったよ……」
しかし、そんな表情を浮かべたのは一瞬で、すぐに悪寒をそそるような笑みが舞い戻る。
「それでも、この愉悦に比べれば、そのくらいの罵倒は気にすらならない。これだけの愉しみを誰が止められようか」
本当に狂っている。彼はただの変態だ。
そんな彼の本質を見抜けなかった自分が心底憎い。自分の幼さに憤りを隠せずに、悲鳴のような叫び声が、喉に焼けるような熱を残しながら発せられる。
「旦那、そろそろ……」
アカネを抑えつける男が、エリアルに向けて終わりの時を告げる。
「そうだね。もう少し楽しみたい気持ちもあるけど、誰かに見つかってしまえば、元も子もないからね」
心底残念そうに肩を落としながら嘆息を吐き、こちらを名残惜しそうな表情で全身を舐めるように眺める。
「この戯れの残念なところは、掛ける時間の割には、愉しめる時間が短いことだ」
そう言いながら、エリアルは一層深い醜悪の笑みを刻んでいく。
「だけど、本当の楽しみはこれからだ。所詮、君は余興に過ぎない。ああ、君以上の愉悦が待っているなんて、僕は愉しみで仕方がない」
皮膚に爪が喰い込みそうなほど強く、自らの瞼から頬にかけて撫でていく。そして、過ぎ行く小指を舌舐めずりしながら、恍惚とした表情を浮かべる。
「僕は愉しみは後に取っておく性分なんだ」
兄の身の危険を察したアカネの身に、ようやく力が込められる。
「はなせ、はなせ、はなせ……」
一回りも二回りも大きい男の腕の中で、アカネは必死に暴れまわる。勝てる訳がないとわかっていても、それで全てを諦められるほど、アカネの人生経験は深くない。
「おにいちゃんに、指一本ふれさせるもんかっ」
動くこともできない身体で虚勢を張り、意味のない抵抗に心も身体も擦りきれる。それが、エリアルを余計に愉しませているとも知らずに。
「素晴らしい兄弟愛だ。こんなにも、壊し甲斐のあるものは、そうはない」
この時間に終止符を打とうとしていたエリアルだが、アカネの抵抗に脚を止め、再び恍惚な笑みを浮かべていた。
どれだけアカネが暴れまわっても、男の腕からは逃れることなどできない。
それでも兄を助けたい一心で、アカネは抑えつける男の腕に、自らの前歯を突き立てた。
「いっでええええ。このガキっ」
怒りに身を震わせた男が、我慢出来ずに太く血管の浮き出た腕をアカネに向けて振り下ろした。
「きゃっ……」
短い悲鳴を上げたアカネはそのまま路地裏の壁に叩きつけられ、全身を走る酷い痛みと共に、意識が遠退いていくのを感じた。
「何をやっているんだ?商品に傷を付けでもしたら、団長に怒られるんじゃないのか?」
遠退く意識の中で、エリアルのそんな言葉が耳を抜けていく。
そう、これから自分は奴隷として商品になる。本当は抗わなければならない。
けれど、身体は既に動こうとはしない。どうせ勝ち目などないなら、いっそこの暗闇に身を落としてしまえば楽になる。
「そうは言ってもよ、旦那。流石に噛みつく狂犬は大人しくさせといた方がいいだろ。その方が運びやすいし」
既に抗う表情を失ったアカネには興味が無いといったような冷めた声音で、エリアルは溜め息を漏らしていた。
「ただ逆上しただけのように見えたんだけど……。ものは言いようだね。確かにそっちの方が、運びやすいのも事実ではあるし」
「だろ。だから親方には内緒にしといてくれよ」
心底興味が無いというような溜め息と、遠ざかる足音だけが、消えかけの意識の中を通り過ぎていく。
「僕には関係のないことだ。僕はこの戯れができればそれで構わない。君がどうなろうと、僕の知ったことではない」
そして、遠ざかる足音も意識の彼方に消えていく。意識の遠退きと共に、楽しかった兄との生活の終焉が告げられる。これで、全てが終わりなのだと。
「本当に、騎士様が考えることはわかんねえな。あからさまに悪を気取っているだけ、俺たちの方がまだマシに思える」
最後に耳にこびりついたその言葉に、アカネは首肯をしたくて堪らなかったが、そんなことも許されないまま、意識の残り香は暗闇の中へと沈んでいった。
意識の覚醒と共に視界に飛び込んできたのは、自分と同じくらいか、自分よりもさらに年下に見える少女たちの姿だった。
馬車か何かの荷台のようで、木組みで囲まれた壁は断続的に揺れていた。
起き上がろうとして、自分の手足が縄で縛られていることに気付く。かなり強く縛られているようで、意識した途端に痛みが走り表情を歪めた。
「大丈夫ですか?」
同い年くらいの女の子が、心配そうにこちらを眺めてくる。自分も同じ目に合っているというのに、他人の心配をできる彼女に、大人だなと感心してしまった。
それとも、これから自分がどうなるかを理解できていないだけなのかと、哀れみの視線を向けそうになり、慌ててかぶりを振る。
「大丈夫……、ではないかな。これからのことを考えると……」
アカネの不安が伝染するように、この場にいる少女たちの表情が、曇天のように暗く陰鬱なものに染まっていく。
それでもなお、目の前の彼女は笑みを絶やそうとはしない。
「大丈夫ですよ。きっと何とかなります。だから、みんなで笑って過ごしましょう」
「何とかって……」
本当に、頭の中がお花畑なのではないかと疑ってしまう。この言葉には流石に、嘲笑を浮かべずにはいられなかった。それが誰に向けられたものかは、自分でもわからなかったけれど。
「そんな、お気楽に考えられたら、生きるのもさぞかし楽でしょうね。そんな平和ボケしてるから、こうやってつかまるんだ」
その言葉が、そっくりそのまま自分に返ってくるとも知らずに、アカネは吐き捨てるようにそんなことを言う。
自分がこんな状況に置かれて、他人に優しくする余裕なんて無くなっていた。それに、あまりにも状況を楽観視する彼女が不憫で、怒りよりも憐れみが心のほとんどを占めていた。
アカネはその少女を無言のまま睨み付けると、その少女が何も言い返さないことに辟易し、それ以上は何も言わずにそっぽを向いてふて寝した。
アカネが一人でふて寝した後も、その少女は優しい声音を他の少女たちに掛け続けていた。
奴隷商人のアジトはロンドザナからそこまで離れた場所ではないようで、国を出て三日も経たない内に、荷台の揺れは収まった。
「ほら、降りろ」
ぶっきらぼうに短く命令された少女たちは歯向かう様子もなく、大人しく一人、また一人と荷台を降りていく。
「行きましょう」
例の少女がアカネに呼び掛ける。なぜそんな簡単に受け入れられるのかと問い質したかったが、そんなことに意味は無いと思い、仕方なく起き上がり荷台を歩いていく。
脚を縛り付けていた縄は解かれ、今は痛みからの解放感で少しだけ気分がよかった。
それでも、このお気楽少女と話す気は無いというように、アカネは少女の隣を無言のままスタスタと足早に通り過ぎていった。
アジトに着いてからは牢獄に入れられた。
洞窟を掘ったような牢獄はゴツゴツとした岩肌が剥き出しになっており、ところどころが赤く滲んでいた。牢獄の端には虫の死骸が転がっており、黒い何かが視界から逃げるように壁を伝って走り抜ける。
出入り口は赤黒い錆の混じりあった、鈍色の鉄格子で囲われていた。
生臭い臭いが一帯を覆いつくし、それに混じって香るベタベタと鼻孔をつく臭いの正体が何なのか、考えるのは止めておいた。
どうやら奴隷たちはここに集められて、ここから買い手の元へと売られていくらしい。
アカネたちがここへ脚を踏み入れた時には、既に何人もの奴隷が、数ある牢獄の中で死んだような表情を浮かべて日々を過ごしていた。
今日送られてきた奴隷たちは、同じ牢獄に一纏めに詰め込まれた。これからも、あのお気楽少女と共に過ごさなければならないということに、アカネは嫌気が差して仕方がなかった。
少女の奴隷は高く売れる。それは周知の事実だ。この牢獄にいる奴隷たちも、そのほとんどが少女だった。
そして時には、見せしめのように牢獄から一人の少女を引っ張りだし、奴隷たちの目の前で犯し、他の奴隷から敵意を喪失させるように仕向けていた。
その時に上がる悲鳴は、一日中耳にこびりついて離れてはくれない。
同じ牢獄で過ごす幼い少女たちは、その度に恐怖を抑えられずに泣き喚く。アカネも、いつ自分の気が触れてもおかしくないと思っていた。
だというのに、例の少女は笑みを絶やさなかった。泣き止むことの無い幼い少女たちを「大丈夫だよ」と優しくなだめる。自分だってきっと怖いはずなのに、それでも彼女は決して涙を見せることはなかった。
毎日のように繰り返し続けられる悲劇の中で、彼女だけは強くあり続けていた。そんな彼女がアカネには憎たらしいと共に、羨ましかった。
「大丈夫ですか?」
不意に掛けられた声に、アカネはハッとしたように頭を上げ、そしてそこにいるのが例の少女だと気づいて、その表情をあからさまに歪めた。
そして、先程の言葉が数日前と同じだと気付いて、あの日と同じように吐き捨てる。
「大丈夫なわけないじゃない。こうやって、いつ自分の番が回ってくるかもわからないのに」
毎日ように入れ替わり立ち替わり、一人、また一人と売りに出されていっては、何人かの奴隷がこの牢獄に運び込まれる。
誰かが売りに出される度に、次は自分なのではないかという恐怖に襲われる。ただ、ここにいるよりもマシかもしれないと思ってしまう自分がどこかにいるのも否めない。
「それでも、信じていればきっと何とかなります」
アカネは奥歯を痛みが走るほど強く噛みしめ、それでも叫び散らせば、次は自分が標的にされるかもしれないという自制心と闘いながら、最大限に怒りを抑えて彼女に吐き捨てる。
「あんた、どんだけ頭の中がお花畑なのよ。信じていれば、助かる?そんなわけないじゃない。じゃあ、私たちが来てからだれか一人でも助かった?だれも助かってなんかない。私たちも、みんなと同じになるに決まってる」
声は最大限に抑えられていたが、それでも怒りで捲し立てるような口調になっていた。感情の渦が自意識の波を巻き込み、瞼に熱が込み上げる。
「それでも、信じることを諦めては、それこそ救いの手など差し出されません。だから私は、最期まで諦めない」
その眼差しにはとても強い意思が宿っていた。彼女の頭がお花畑などというのは、自らの勘違いだということにアカネはようやく気付く。
彼女は自分が置かれている状況を理解してなお、それでも強くあり続け、何かを信じ続けている。
「どうして……?どうしてあなたはそんな風に……」
ようやくアカネが話す気になったのを察した少女は、アカネに向けて微笑み掛けながら堅琴のような優しげな声音で告げる。
「私には、大好きな兄がいるんです。戦争で離れてしまったけれど、私はいつか必ず会えると信じています。だから、こんなところで挫けている訳にはいかないんです。まだ自分で行動するだけの力はありませんけど、いつかきっと……」
彼女のその話を聞いていたアカネは、ただ彼女の表情に魅入られ、そして……。
「ど、どうしたんですか……?私、何かお気に障ること言ってしまいましたか……?」
アカネの頬を一筋の涙が流れていた。この場所に投獄され、恐怖では決して涙を見せなかった、凍りついたアカネの瞼を暖かな熱が融かしていく。
そして、凍りついた表情もまた、慌てふためく彼女によって融けていく。
「ううん……。何でもない。ただ、一緒なんだって……。私もあなたも……」
なんだか、彼女を敵視していた自分が唐突に馬鹿らしく感じてきた。こんな時にも強くあれる彼女が羨ましくて、嫉妬して意地を張っていただけなのかもしれない。
「よかった……。何かしちゃったのかと思って心配したよ」
慌てふためいていた彼女も、憑き物が取れたように溜め息を漏らしながら、再び笑みを浮かべる。その口調は先程よりも気さくで、どこか壁が取り払われた気がした。
「ねえ、名前教えてよ」
アカネは歩みよりの意思を示すために、彼女の名を尋ねる。
毛先に少し癖っ毛のある栗色の長髪に、幼さの残る大きな群青色の瞳を持つ彼女は、いつもと変わらぬ優しげな笑みを浮かべながらこう答えた。
「アリス・スカーレット。私の名前は、アリス・スカーレットよ」