すれ違う思いやり
城の中心部辺りに広がる芝生が張り巡らされた吹き抜けに、木剣どうしが互いにぶつかり合う鈍い音が何度も何度もこだまする。
汗をダラダラと流しながら、自分よりも身長の高い青髪の青年へと何度も木剣を振り下ろす銀髪の少年。そして、その姿を端の方で自分の膝を抱えながらジッと見つめる黒髪の少女。
この庭に繋がった廊下を歩いていく者たちも、その姿を微笑ましそうに眺めながら過ぎ去っていく。
いつの間にか当たり前になったこの光景も、既に二週間が過ぎていた。
本当は、城内に身分も生まれも知らない年端もいかない子供を入れることなど許されないのだろうが、それを招き入れたのが騎士団長とあっては、誰も文句を言う者などいない。
「じゃあ、これから半年間、君たちをこの城に招待しよう」
「は?」
その言葉を突然告げられたときは、驚いたなんてものじゃなかった。あまりの突飛な提案に、初めは耳を疑い、幻聴が聞こえているのではないかと思ったくらいだ。
「君たちの話からいったら、宿で寝泊まりしているんだろ?それに稽古を就けるとするなら、君たちはこれから働いている暇なんてなくなるんだよ。お金はどうする気?」
「そ、それは……」
たしかにエリアルの言うとおり、稽古のことに頭がいっぱいで、生活のことなど何も考えていなかった。
「まあ、この城は空き部屋という名の客室がたくさんあるから、それは気にしなくていいよ。子供二人くらいなんてことないさ」
目の前の青年はさも当たり前のことのように言うが、身分もない自分達が城の中に入れてもらえることすら驚きだというのに、その上で半年も部屋を明け渡すというのは、どう考えたっておかしな話だ。
「さすがにそういう訳にはいかない。いくらなんでも……」
レイもさすがに喰い下がろうとすると、エリアルがそれを遮るように新たな提案を告げる。
「お金が気になるっていうなら、君たちには稽古の時以外には城内での仕事を与えよう。それなら、君の気も少しは楽になるだろ」
こちらの考えを先読みして、その解決策を即時に提示する。
彼と一緒にいると、明らかな自分との違いを突き付けられる。彼ならば、自分のように故郷を襲われたとしても、自分よりも冴えた答えを出していたのだろう。
彼はきっと自らの実力で、その地位にまで登り詰めたのだ。その上で、あれだけの謙虚さと器の大きさを持っている。生きた時間はそこまで変わらないというのに、彼はあまりにもレイの瞳に大きく映りすぎた。
「それなら……」
渋々と了承の言葉を告げようとすると、まるで考える暇を与えないというように胸の前で掌を叩く。
「じゃあ、決まりだ」
こちらに有無を言わせない決断力。彼を形作る全てが、人の上に立つに相応しいものに見え始める。自分はただの優柔不断で、力もなくて……。自分には、いったい何があるというのだ。
「それじゃあ早速、君たちに仕事を与えよう」
何やら不適な笑みを浮かべながらそんなことを言い始めたので、何をさせられるのだろうと身構えていると、彼は焦らすようにゆっくりと口を開く。
「今直ぐに宿を引き払って、荷物を全部城内に持ってくること。以上!!」
エリアルの楽しそうな顔に、レイは少しずつ腹が立ってきていた。
最初は持ったこともない得物を、振り回すのが精一杯だった。今自分が持っているのは、ただの木剣に過ぎないのだが、それでも鉄球でも持っているかのような遠心力に身体が負けてしまう。
それなりに力があると過信していた自分に心底腹が立っていた。目の前の青年はそれを易々と、まるで気の枝でも扱うかのように振り回すというのに。
「そんなに大振りをしてはいけないよ。もっと力を身体の中心に集めて」
レイの大振りの攻撃をいとも容易く往なして、エリアルは笑みすら浮かべながらこちらに指導を続ける。レイは額から汗をダラダラと流しながら、言葉を発する余裕すらないというのに……。
最初は数日だけ稽古を就けてもらうつもりで、エリアルの元を訪れた。しかし、エリアルは最初から半年間という期間を設けた。
レイはその期間を長すぎると感じ、稽古が始まるまでは「そんなに悪い」と断っていたのだが、「すぐにわかるよ」といつもの優しげな笑みを浮かべるエリアルに逆らえずに稽古が始まった。
そしてエリアルの言う通り、はっきりと思い知らされている。今では半年でも足りないのではないかと思えるほどだった。それくらいに、自分の動きがエリアルのそれと比べものにならなかったのだ。
次々と突きつけられる自らの無力さに、弱音を吐いてしまいたくなる毎日だった。
それでも、自分から頼んで就けてもらっている稽古を、途中で投げ出す訳にはいかなかった。何より、アカネの為に強くならなければならないという気持ちが、逃げ出そうとする自らの背中を無理矢理に押し戻していた。
「大振りをし過ぎて軌道がバレバレだ。脇を閉めて振りを細かく」
言葉でいうのは簡単だ。言っていることが理解できない訳でもない。ただ、木剣の重さに負けて、自分の意志とは関係なく大振りになってしまっているのだ。
「何度も言わなくてもわかってんだよ。言われて直ぐに出来れば苦労しねえんだよ」
いつの間にかエリアルにタメ口で話す気後れはすっかり消え失せ、吐き捨てるようにそんなことを言いながら、エリアルが携える木剣にめがけて木剣を振り抜く。
「ただ振りを小さくするだけだよ。手首を上手く使って、腕ではなく足腰に意識を集中するだけでいいんだ。ほら、やってごらん」
エリアルはとても簡単そうに言う。恐らく、目の前の彼は天才なのだ。言われたことを理解し、そのまま動きに昇華できる。そう言うことが自然とできてしまう人間なのだ。
「相手の眼を見て。相手の先の動きを考えるんだ」
次々と与え荒れる新たな情報を整理できない自分に、焦りを覚える。
それと同時に心の中を、ふつふつと沸騰する前のお湯のように怒りが湧きあがってくる。
これが誰に向けられた怒りなのかはわからない。目の前の何でもできてしまう天才に向けての怒りなのか、それとも彼の言う通りにこなすことができない自分への怒りなのか。
それでも、レイは怒りに任せてエリアルの木剣に向けて全力を込めて思いっきり振り抜いた。
カンっ、という木剣同士の甲高くどこか空虚な音が庭内に響き渡る。そして、ドサッと芝生が鳴る音と共に一本の木剣が地面に落下した。
「そんなに怒りの込もった剣術を教えたつもりはないよ。それは剣術なんかじゃない。ただ怒りをぶつけただけで、その拳で殴っているのと何も変わらない。それなら、君に剣は必要ないよ」
掌が痙攣したように震え、指が自らの意志を遮断しているかのように動ず、手を握りしめることすらままならない。
あれだけ思い切り振り切ったというのに、エリアルは一切表情を歪めることなく、レイの木剣を軽々と吹き飛ばしたのだ。自分と彼の谷底のような実力を突き付けられた気がした。
彼はまるで何事もなかったかのように、笑みを浮かべながらこちらに剣術を説いている。しかし、その瞳の奥は間違いなく笑ってなどいなかった。その瞳を覗き込むのが、恐いと感じるほどに……。
「剣術に感情は必要ない。感情で左右される剣術なんて剣術じゃない。今の君は剣を振るよりも、瞑想の方が大事かもしれないね。ちょうど明日から少しの間、僕は遠征に行かなければならないんだ。その間、君はもう少し自分を見つめ直した方がいい。その上で、これからも稽古を続けるか考えておいてくれ」
エリアルはそれだけを言い残すと、立ち尽くすレイに背を向けて中庭を去っていった。
そんなエリアルの姿を、レイはただ呆然と眺めていることしかできなかった。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
エリアルが去ったのを見計らって、アカネは直ぐさまレイに近寄る。それくらいに、レイの表情が歪んでいたのだろう。目の前の青年には赤子のように扱われ、そんな自分への苛立ちを隠すことも出来なかった自分が惨めで情けなかった。
「うるさい」
こんなのただの八つ当たりだ。そんなことはわかっていても、今は彼女の顔を見ることが出来なかった。こんな醜い自分の心を、彼女に見せたくはなかった。
レイは木剣を中庭に捨てたまま、自らに与えられた部屋へと俯いたままで戻っていった。そんな兄の姿を、アカネはただ呆然と眺めることしか出来なかった。
エリアルが遠征に向かってからも、レイは独りで木剣を振り続けた。何かをしていなければ、考えすぎて頭が滅茶苦茶になりそうだったから。自分が努力しているんだということが、ぽっかりと空いた心の隙間を埋めてくれたから。
アカネはいつもと変わらず、そんな兄の姿を中庭の端で膝を抱えて座りながら眺めていた。けれどその表情はどこか哀しげで、兄を憂うような視線を送っていた。
兄は自分を護るためだと言ってくれるが、そのせいで兄があんなに苦しそうな表情を浮かべているのだとしたら、自分のために強くなる必要などないとアカネは思っていた。
そんなことを考えていると、自分がいなくなった方が兄は幸せでいられるのではないかと思うのだが、けれど自分がいなくなることが一番兄を傷つけるのだと心のどこかで気付いているせいで、踏み出せない足をじたばたとすることしかできずにいる。
結局誰もが幸せになれる答えなんてないから、停滞を選択するしかないのだ。
幼いアカネがそこまではっきりと意識してその選択をしている訳ではないが、それでも根本を読み解けばそんな答えが浮かび上がってくる。
部屋に戻っても俯いたままの兄に、アカネは声を掛けられないままでいた。いつかの時と同じように、表情が鬱蒼とした樹海のように暗く沈み込んでいる。
いつも一緒にいる兄のはずなのに、こんなに話し掛けるのが怖いと思ったのはいつ以来だろうか。その表情の元凶が自分なのだとわかっていたとしても、もうこれ以上兄の苦しむ表情を、自分が怖いと感じてしまう兄を見ていたくはなかった。
アカネの考えていることはいつもそれだけだった。兄の前を初めて走ったときだって、ただそれだけのために、あの一歩を踏み出したのだ。
「おにいちゃん、ちょっといい?」
アカネはもう一度一歩を踏み出す。ただ、兄の笑顔を見ていたいから。
「なんだよ……」
ぶっきらぼうだけれど、どこかはね除けられない優しさが入り混じった声音が兄の口から発せられる。こんなに苦しんでいても、自分のことを思ってくれる兄の優しさに、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
「その……、辛いなら止めてもいいんじゃないかな……?」
こんなことをいう資格なんて自分にはない。だが、そんなことを思えるだけの経験が彼女にはまだない。彼女の幼さが、思ったことをそのまま言葉として紡いでいく。
その言葉を聞いたレイの表情が大きく歪む。護りたいと思っている人間から、そんな必要などないと言われる辛さを、アカネは知らない。
「どうして、そんなこと言うんだよ?」
叫び出したいけれど、全部を吐き出して叫んでしまえればいっそのこと楽になれるのだろうけれど、妹を思う気持ちがそれを喉元で押し止める。
「だって、おにいちゃんずっと辛そうなんだもん。私、そんなおにいちゃん見ていたくなんかない」
アカネの意を介さずに、アカネの目許に熱が込み上げ、アカネの瞳に涙が浮かび始める。
「別に辛くなんかない。こんなの、これまでに比べたら……」
「うそだよ!!」
兄の言葉を最後まで聞くことなく、アカネはレイの言葉に自らの言葉を重ねる。
「おにいちゃんずっと辛そうにしてるもん。いつも私を護るためだって言いながら……。そんなんだったら私、護ってなんかいらない」
アカネはこれまでに見たことのない大人びた表情を浮かべながらレイに訴え掛ける。その眼差しには、自らの幼さに不相応な強い意志が込められていた。
だがそれが、余計にレイの怒りの引き金を引いてしまった。
「お前に何がわかるんだよ!!」
突如としてあげられた悲鳴のような叫び声。勢いでアカネを睨み付けずに俯いたままでいられたのは、レイに残された最後の自制心だった。
「お前は力もないし、学だってない。お前を俺が護ってやらなきゃ、お前は独りでなんて生きていけやしないだろうが。そんな癖して、偉そうなこと言ってんじゃねえよ」
既にレイの心の中はぐちゃぐちゃに散らかっていた。唯一の心の支えである妹に、自ら怒りをぶつけてしまったのだ。もう、心の拠り所など何処にもない。
吐き出してしまった言葉を、もう一度飲み込むことはできない。今さら後悔したところで、やり直すことなどできはしない。
こんな場所から逃げ出したいと思った。今は誰よりも、アカネの顔を見たくなかったのだ。歪み切った自分の表情が、手を取る様にわかってしまうから。
けれど、先にこの場所を逃げ出したのはアカネの方だった。
「おにいちゃんのバカっ。もう知らない!!」
そんな一言だけを残して、アカネは部屋を飛び出した。飛び出したアカネの瞳は、涙で真っ赤に染まっていた。
部屋を飛び出すアカネの背中に手を伸ばしたレイは、けれどその背中を追うことは無く、ただ呆然と閉じられた扉を眺めていた。