破られた約束
宿に着いた頃にはすっかりアカネにも元気が戻り、むしろアカネに吸いとられたようにレイは精神的疲労で疲れ果てていた。こうなると少しは愚痴を漏らしたくなるが、アカネが元気になってくれた嬉しさの方がそれを上回るので、レイは黙ってその姿を見ているだけに留めていた。
「ねえ、おにいちゃん。わたしちょっとだけ外に出てくるね」
すると突然アカネがそんなことを言い出したために、レイは慌ててアカネを止めようとする。
「ちょっと待て。今日あんなことがあったばかりなんだから大人しく……」
「おねがいっ!!」
レイの言葉を遮るように、アカネはパンっと掌を鳴らしながら、顔の目の前で掌を合わせて懇願する。アカネがこんな我が儘を言うのは珍しい、こちらとしても妥協点を見出だして応えてやりたいとはおもうのだが……。
「じゃあ、おれも一緒に……」
「それはダメっ!!」
またも最後まで言わせてもらうことは出来なかったレイは、苦い表情を浮かべながら、疲れていたことも相まって溜め息と共に呆れ声をアカネに向けてしまう。
「あのなぁ、お前はまだ小さいんだから、独りで外を出歩くなんて……」
「おにいちゃんはわたしのことが信じられないの?」
どうもおかしい。まださっきの後遺症が残っているのだろうか。アカネがこれほどに強く出ることは珍しい。さっきからこちらの意見は一切聞き入れられていない、どころかそもそも言わせてもらえない。
「別にアカネのことが信じられないんじゃなくて、心配なんだよ。信じることと心配することは別だ」
レイは自分の言葉に怒気が孕んでいることに気が付いて思わず唇を噛み締める。しかし、アカネはこちらの怒気など気にする様子もなく、もう一度掌を合わせながら懇願する。
「どうしてもひとりで行かなくちゃいけないの。これは、わたしにしかできないことだから」
そんなものがあるとは思えないのだか、これはもうレイが退かなければいたちごっこが続くだけだ。まあ、これだけ言うならたまには許してやるしかない。
「……もう、わかったよ……。仕方ないから、今日だけだぞ……」
これに味を占めて、これから先も我が儘を言われたら堪ったものではないので、本当に今回だけだと強く釘を刺す。まあ、これまでにこれだけの我が儘を言い出したことは無いので、その心配はあまりしていないが。
「やったあーーーー!!ありがと、おにいちゃん。大好き!!」
突然に蕾が開いて花が咲いたかのように、アカネの顔にパッと笑顔が咲き誇る。そして、勢いよく飛び付いて抱きついてくる。一体どれだけ、独りで外に行きたかったというのだか……。と言うか、最後の言葉誰彼構わず使ってないだろうな……。
けれど、これだけ喜んでもらえると、折れたのも悪くはなかったかなと思えてしまうので、自分もアカネには相当甘いのだと溜め息を吐きたくなる。
「じゃあ、わたしちょっとだけ外に出てくるね」
その勢いそのままに、レイから離れたアカネは、宿の扉を蹴破るような勢いで外に出ていった。そんなアカネの姿を、レイは黙って笑みを浮かべながら眺めていた。
しかし、アカネの姿が消えた瞬間、レイの笑みは意地の悪いものに豹変する。
「悪いけど、独りになんてする訳ないだろ」
この表情とこの言葉だけ聞いたら、完全にストーカーだと自分で察してしまったレイは、慌てて笑みを引っ込めると自分も外へと飛び出した。
結局、妹が心配な兄は、妹との約束を少しだけ破って、妹の後を追っていったのだった。
外に出たアカネは鼻歌を歌いながら、跳び跳ねるように街中を駆けていた。何がそんなに楽しいか、そこに浮かぶのは必死に破顔するのを抑えているような表情で、その視線を商店街へと向けていた。
「おにいちゃん、喜んでくれるかな……」
不意に立ち止まって、握りしめられていた掌を広げると、そこには何枚かの金貨が顔を覗かせていた。それを少しの間見つめて眼を細めて笑うと、もう一度力強く握りしめ、再び商店街へ向けて走り出した。
そのまま駆け抜けるような速度で商店街へと到着したアカネは、まるで疲れた様子もなく、今度は商店街に並ぶ露店を一つずつ吟味するように眺め始める。
「どれにしようかな……」
人差し指を口許に当てながら、露店に立ち並ぶ商品をジッと眺めては、少しだけ首を傾けては次の商品へと視線を移していく。
アカネのような幼子が、必死に自らの店の商品を吟味している姿を見て、店先の店主も朗らかな笑みを浮かべながらアカネの姿を眺めていた。
宿を飛び出していった割には、なかなか買うものは決まらずあっちに行ったりこっちに行ったりと、そこら中をうろうろとしていた。
このままでは日が暮れてしまうと思いながらも、黙って後を追っているレイには、それを注意することは許されない。自分が約束を破っているのに相手には規則は守れ、だなんて説得力が無さ過ぎる。
仕方なく物陰に隠れながらアカネの姿を追っていると、背後から突然肩を叩かれて、レイは驚いて振り返ると、そこにはきっちりと襟の整えられた軍服に身を包む青年がいた。
「君、さっきから様子を見ていて、とても怪しい行動をしているように見えたんだが……」
目の前の青年はこちらに少しだけ瞼を細めて、こちらを怪しむような視線を向けながらレイに向かって尋ねる。二人のことを知らない他人が見れば、幼女を追いかけるただのストーカーにしか見えないだろう。
「あの……、えっと……、その……」
どう考えても自分に非があるという馴れない状況に言葉が口から出て来ず、慌てふためくレイの様子に、警備兵は余計にレイに怪しげな視線を向ける。
「君はまだ小さいようだけれど、親はどこにいるんだい?」
とにかく事情を話さなくては、と必死に頭を回して言葉を喉の奥から引っ張り出す。
「えっと……、あれは妹で……、心配だったから……」
要領を得ない言葉に、警備兵も未だに困った表情を浮かべたままだが、少しだけ事情が伝わったようで、瞳に宿っていた警戒心が少しだけ薄らいだ。
「つまり、君は妹さんを離れた場所から眺めていたと?」
口が硬直して上手く話すことができないレイは、必死に首を何度も縦に振る。どうやら警備兵の人も少しずつ状況が読めてきたらしく、溜め息を吐きながら佇まいを直す。
「それで、どうして一緒じゃなくて、わざわざ遠くから見守るような真似を……」
警備兵がそこまで言葉を口にした瞬間、その警備兵の言葉を遮るように背後から、心細そうに少しだけ掠れた声が耳をざわつかせる。
「おにいちゃん……?」
その声にレイは大きく肩を震わせた。直ぐに振り返ることができなくて、一度覚悟を決めるように歯を噛みしめて、それからゆっくりと背後を振り返る。
そこには哀しげな表情を浮かべる妹の姿があった。その手に握り締められた、黄土色の布袋に少しずつ皺が寄っていく。
「なんで、おにいちゃんがここに……?」
周囲はいつの間にかざわついていて、野次馬の様に周りに人が集まってきていたというのに、まるで世界から隔離されたようにそのざわめきは耳に入ってこなかった。視界にも、レイには一人の少女しか映し出されてはいなかった。
「その……、これは……」
言い訳のしようがない。自分は約束を破って、彼女の後を黙っていたのだ。彼女のことが信じられなかったと、言葉で言わずとも行動が物語っている。
「わたし、おにいちゃんのこと信じてたのに……」
掌に包まれた布袋は強く握り締められ、くしゃくしゃに皺寄っていた。俯いてしまったアカネの表情は、見えなくとも想像に難くない。布袋を握りしめる手は、哀しげな様子で小刻みに震えていた。
レイが何も言えないでアカネの姿を見ていると、アカネは不意に表情を上げた。その瞬間、涙の粒が周囲に飛び散り、地面に斑点模様を刻んでいく。
「おにいちゃんのバカ。もう知らない!!」
吐き捨てるようにその言葉を残して、アカネは勢いよく踵を返して、その場から走り去ってしまった。再び零れ落ちた涙は地面を濡らし、その痕は何もなかったようにすぐに消えてしまう。
「待っ……」
『待って』と、その言葉が言えなかった。約束を破ったのは自分だ。なのにどうして、今更彼女を呼び止めることができると言うのか。そう思った瞬間、まるで自分の意志とは離れていくように口も脚も動いてはくれなかった。
「何をしているんですか?早く追ってあげなさい」
不意に後ろから声が掛けられる。先程レイを呼び止めた警備兵の青年が、レイの背中を軽く押しながらそう言った。
「大体の事情は把握したよ。だからこそ、追いかけるのは私ではなく君の仕事だ。私が彼女を見つけることは容易い。けれど、それでは意味がない。君が、君自身が、君の気持ちを彼女にちゃんと伝えるんだ」
先程まで自分を怪しんでいた人間が、突然味方をしてくれたことにレイは唖然とし、最初は開いた口が閉じないまま固まってしまったが、それでも今自分がしなければならないことははっきりした。
「私も少し迂回しながら、君の妹探しを手伝うよ。だから、ほら、早く行きなさい」
レイは一度だけ強く首を縦に振る。そして、警備兵の青年に背を向けて全速力で走りだす。人ごみの中に消えていってしまったアカネを……。
「アカネ、どこにいるんだ。いるんだったら返事してくれ」
広い街並みを宛てもなく全速力で駆け抜ける。体力知らずな幼く若い身体と言っても、流石に息は上がり、動悸が激しくなるのを感じる。
「俺が悪かった。だから、いるんだったら返事をしてくれ」
レイは必死に呼びかける。周りの眼など一切気にせず、大声でアカネの名を呼びながら走り回る。
すると、どこからか悲鳴にも似たアカネの声が、幻聴かと思う程微かに聞こえた。だが、それは間違いなく幻聴ではないと、心のどこかで確信していた。そして、今まさにアカネに危機が訪れていると。
レイはおぼろげに声が聞こえた方向へと必死に走り出す。もう疲れなど意識の外へと飛び出していた。アカネが本当に危険な目に会っているのなら、こんなところで疲れている余裕などありはしない。
「アカネ、どこにいる?もう一度返事をしてくれ」
返事が返ってくることは無い。背筋に悪寒が走る。頼むから、無事でいてくれと。
アカネの声が聞こえてきた方角にある、とある路地裏。レイは掻き分けるように、曲がりくねる路地を進んでいくと、そこには口許を三人の男に抑えられたアカネの姿があった。
「アカネっ!!」
ようやく見つけられたというのに、安堵の気持ちが胸を満たすことは無い。目の前の状況に、むしろ余計な焦燥感に煽られる。
「なんだよこのガキ?せっかくの美味しい仕事だってのに、邪魔すんじゃねえよ」
三人の中で一番ガタイのいい男がレイに敵意を込めて睨みながら告げる。どう考えても目の前のこの男に、まだ身体の出来上がっていない自分が勝てる訳がない。
それでも、妹を独り残してこの場を離れることなどできる訳もなかった。
レイは懐から、護身用として常に持ち歩いているナイフを取り出し、その刃先を三人に向けて威嚇する。
「おいおい、ガキがそんな危ない物持ってんじゃねえよ。悪い事は言わねえから、それを仕舞って、さっさとお家に帰りな」
細くて身長が高い男が、嘲笑を浮かべる。震えたレイの手を見て、目の前の少年がそれを扱うことができないと高を括ったのだろう。実際、レイも本当に使ったことなど一度もなく、刃を他人に向けることすら初めてで、人をこの鋭い刃物で傷つける覚悟などなかった。
「妹を、返せ」
正直口許がガタガタと震えている。長い言葉を紡げば、すぐにボロが出ることは自分でも理解していた。だから、短くそれだけを告げた。
「ああ、この子妹だったんだ。それは残念だったね。でも、これも仕事だから、我慢して帰ってくれると嬉しいな」
これはあの猫の呪いだろうか。俺が猫に思っていたことと、同じ言葉を告げられる。そして同時に、この状況の黒幕が誰であるのかを不意に察する。
「妹から、離れろ」
ポキポキと拳を鳴らしながら、一番ガタイの良い男が前に出てくる。
「言うことを聞いてくれないなら、力づくで帰ってもらうしかないよな」
レイは靴が地面を擦る音を鳴らしながら、ナイフを身体の前で構え直す。脚も手も、まるで自分のものでは無いように震えている。目の前の不良相手に震えている自分の無力さに、今更ながら後悔している。
「ほら、行くぞガキ」
相手は刃物を持っているこちらに、一切躊躇うことなく接近してくる。レイが戦いに馴れていないことがバレているのだから当たり前だ。それでも、絶対に後ろには下がらないと決めていた。
目の前の大男が自分のリーチに入った瞬間、レイは勇気を振り絞って前に一歩踏み出し、右から左へ横薙ぎにナイフを振り抜いた。
だが、そのナイフの軌道を読んでいた男は易々とナイフを避け、握りしめた拳でレイの顔面を殴りつけた。
熱にも似た痛みが身体中を駆け抜ける。体格差の違い過ぎる殴打にレイの身体は吹き飛び、地面をゴロゴロと転がっていった。
「おにいちゃんっ!!」
アカネの悲鳴が鼓膜に突き刺さり、痛みを無視して身体が自然に立ち上がる。
喧嘩は何度かしたことはあるが、これだけの体格差を相手にしたことは無い。逃げたい気持ちで埋め尽くされていくが、アカネが視界に入る度に、霧が晴れるようにその気持ちが薄れていく。
その気持ちを振り切るように、レイは再び地面を蹴る。右手に握りしめたナイフを振り被り、なりふり構わずに相手に向けて突き刺そうとした。
だが、相手の一蹴りにより、文字通り一蹴される。ナイフは遠くへと転がり、レイは壁へと叩きつけらえた。
武器が無くなれば、最早為す術は無い。どうやらこれで終わりなようだ。
アカネの声がとても遠くに聞こえる。意識が少しずつ薄れていっているのだろう。
突然、髪に痛みが走り、自分の意志とは関係なく身体が浮かび上がる。
「おい、お前俺のこと殺そうとしたよな?なら、自分が殺されても文句は言えねえよな?」
眼と鼻の先に不良の顔があるのに、恐怖と言う感情が浮かび上がってこない。脳が考えていることを諦めてしまっているかのように。
もう死んでしまうのだ。妹一人も護ることができないまま、俺はここで……。
「そこまでだ……」
その時、どこかから少し前に聞いた懐かしい声音が耳を撫でるように吹き抜けていく。
レイは何とか視線だけを声の方向へと移す。そこに立っていたのは、先程共に探すと約束してくれた、警備兵の青年だった。