俺を独りにしないでくれ
そして、その二日後二人はついに、故郷が赤く染まる光景を目にすることになる。
あれだけの啖呵を切っておきながらも、レイはすぐに国の近くを離れることができなかった。もしかしたら父親たちが帰ってくるのではないかという一抹の可能性を捨てることができず、国から少し離れた洞窟で寝泊まりしながら二日の時を過ごした。
その間は無意識なうちに、帰ったら親にどう言い訳をしてどうやって謝ろうか、なんてことを考えてる自分に気付き、慌てて首を横に振って思考を閉ざす。
その二日間は嫌に長く感じ、早く時間が経たないかな、と気がつけば空を眺めていた。きっとアカネも同じ事を思っているはずなのに、彼女は何も言わずにただジッと自分の隣で肩を寄せて座っていた。
「ごめんな……。本当はすぐにでも隣街に行きたいんだけど……」
レイは自分の肩に頭を乗せて体重を預けてくるアカネの頭を優しく撫でながら、申し訳なさげな声音でアカネに告げる。肩に掛かる体重が思ったよりも軽くて、まだまだ自分よりも幼いのだと改めて実感する。そんな彼女を無理矢理連れてきてしまったのだと……。
「べつにいいよ。おにいちゃんがいてくれれば、わたしはそれでいいもん」
どれだけ申し訳なく思っていても、アカネが微笑を浮かべてこう言ってくれれば、許されているような気分にさせられた。結局その優しさに甘えているだけとわかっていながらも、意気地のない自分を奮い立たせることは、今のレイにはまだできなかった。
けれど、そうしている時間も長くは続かなかった。
レイとアカネが故郷を飛び出して二日後、レイの杞憂は現実になり、決意を固めなければならない時が訪れた。
その日はどんよりとした曇り空が広がり、肌寒い風が砂を巻き上げながら吹き付けていた。気分が憂鬱になるような曇天に、何か起こるのではないかと、ピリピリとした感覚が肌を撫で、腕にはいつの間にか鳥肌が立っていた。
「嫌な天気だな……。雨なんて一年に一回あるかないかだって言うのに」
洞窟から顔を覗かせて、いまにも雨が降りだしそうな曇天を眺める。砂地で暮らすこの土地では、雨は喜ばれるものなのだが、あまりにも時期が悪い。この曇天が憂鬱な厄介事を引き連れて来るような気がしてならない。
「雨ふるの?ひさしぶりだね」
レイがぼんやりと呟きながら空を見ていると、相変わらず無邪気なアカネが楽しそうに隣から顔を覗かせて、レイと同じように空を眺める。
こんな無邪気なアカネの様子を見ていると、独りで暗い気持ちになっているのが馬鹿らしく感じてきて、思わず苦笑を漏らしてしまう。そんなレイの様子を不思議そうに小さく首を傾げながら、アカネはレイの顔を覗き見ていた。
「そうだな。雨降ったら、いっぱい水浴びできるな」
この国では水は貴重なものだ。水浴びなんて、年に何度もできるものでは無い。
「やったあ。たのしみだなあ」
だからアカネがはしゃぐのも無理はない。むしろ何もしないで心が暗くなるくらいなら、傍ではしゃいでいてくれた方が心が休まる。心の平穏をアカネに頼っているようで少し心苦しいが、それでも暗い気持ちのままでいるよりは幾分マシな気がした。
しかし、結局雨粒が落ちてくることは無く、雲が覆った空のまま夜を迎えようとしていたその頃、突き刺すような痛みが二人の耳に走った。
それは突然だった。レイもアカネも、今日もこの二日間と同じように何もない一日が過ぎていくのだと思っていた。二人とも持ち出した食糧で空腹を満たし、特にすることもないため、いつものように早くに眠りに就こうと洞窟の中に布を敷いている最中だった。
二人は慌てて洞窟の外へと飛び出し、故郷の方へと視線を巡らせる。洞窟から故郷まで、いくら視界に入っているとはいえ、かなりの距離があるはずだった。しかしその音は、まるで耳元で鳴り響くかの如く、鼓膜を通して心臓を震わせ心の中を掻き回した。
爆音と閃光が断続的に聴覚と視覚を奪い、現実から切り離されて悪い夢でも見ているかのような幻想に囚われる。やがて故郷の街並みから沸き上がる爆煙を伝わって、まるで雲のカンバスに絵の具でも落としていくかのように、故郷の空が赤く染まり始める。
「始まった……」
レイの口から漏れたのはそんな言葉だった。予想していた悪夢が本当に目の前で現実になっている。誰だって、こうなることは予想できたはずだ。
アカネは最初何が起こっているのかわかっていなかった。光と音に中てられて、これから祭りでも始まるのではないかと、一瞬だけ心を膨らませたりもした。だがそれは言葉になるよりも先に、恐怖へと塗り替えられていく。
故郷を覆うように張り巡らされた雲が赤く染まり、その色が波紋のように円周状に拡がっていき、アカネも理解できないなりに、その異常性に直感的に気が付いたのだ。それが恐いものであるということに。一度それが恐いものだと理解してしまえば、恐怖はまるで病魔のように胸の辺りから身体中を蝕んでいく。
アカネの身体中が震え始める。恐怖に耐えられなくなったアカネの幼い身体は、震えとなって彼女に襲いかかる。目の前の光景が赤く染まれば染まるほどに、アカネの震えもより大きくなっていく。
「おかあ、さん……」
呆けたような表情で、まるで酔っているかのようにフラフラと故郷の街並みへと向かって踏み出された脚は、そのまま引き込まれるように一歩、また一歩と故郷に向けて進んでいく。
そんなアカネの腕をレイは力強く握りしめ、彼女の動きを力づくで止めた。レイに腕を掴まれても、アカネはその脚を止めようとはせず、動くことのできないまま足踏みをしていた。
「あ……、あ……」
アカネがまるで漏れ 出すような呻き声を上げる。掴んでいるレイにもアカネの震えは直接伝わり、その震えを通して恐怖が流れ込んでくるような錯覚を覚える。
「アカネ、あの場所にはもう……」
『戻れない』その言葉がわ口にすることをどうしても躊躇ってしまった。あれだけの啖呵を切っておきながら、結局は心の何処かで期待していたのだ。父親たちが戦争を終えて、あの家に帰ってくることを。
「いやだ……」
腕を掴んでいるレイですら、聞き取れないほどの掠れた声。
「いやだ……」
耳を澄ます必要などなく、はっきりと述べられた拒絶の言葉。
「いやだああああああああああ」
そして、アカネの中の恐怖が暴走したかのように、突如としてアカネが叫び声を上げた。そのまま、走り出してしまいそうな勢いで脚を踏み出す。
しかしレイは無理矢理にアカネの腕を握り締めた。アカネの腕が千切れてしまうのではないかと思うくらい強く握りしめた。そうでなければ、アカネが何処かへ消えてしまいそうな気がしたから。
けれどアカネは痛いなどとは一度も言わなかった。そんなことはどうでもいいと言うように、唯一の目的だけを言葉にして吐き散らした。
「離して……、離してよ。おかあさんが……、おかあさんが……」
狂気に染まった悲鳴にも似たアカネの叫び声は、レイの心に次々と刃物で切り裂いたような深い傷を刻んでいく。その傷に耐えられずに、今にも手を離してしまいそうになる。
こうなることはわかっていた。アカネにこの光景を見せてはいけなかった。だから、直ぐにでも故郷の近くを離れて、故郷が見えない場所に行かなければならなかったのだ。なのに、自分が優柔不断なせいで、アカネに負わせなくてもいい恐怖と哀傷を負わせてしまった。
赤く染まる故郷の空は次々とその面積を拡げ、国を覆い尽くす程の範囲が赤く染まり、離れたこの場所からでも故郷が火の海に溺れていくのを視認することができた。
アカネは訳が解らなくなったように、意味の成さない言葉が喉の奥から漏らしていた。幼い彼女にとって、その光景は受け入れるにはあまりにも現実離れしていたのだろう。それでも、行かなければならないという焦燥感が彼女の脚を突き動かしているのだ。
「アカネ、今から行ったって、母さんはもう……」
それ以上の言葉を口にすることはできない。ここから先の言葉を口にすれば、アカネが壊れてしまうような気がした。レイは歯軋りするほど奥歯を噛み締めて、その先の言葉を飲み込んだ。
「いや……、いや……、いや…………」
レイの腕を振り払おうと必死に暴れるアカネ。レイが掴んでいたアカネの腕には、くっきりとレイの掴んだ後が残っていた。これ以上強く握りしめたら、本当に骨を折ってしまうのではないか……。
レイは力を振り絞って、アカネを掴んでいた手を思いっきり引くと、自らの胸の中にアカネを抱き止めた。力強く離さないように、けれどこれ以上大切な妹を傷つけないように優しく。
突然抱き締められて、今まで暴れていたアカネが言葉を失う。負の感情で染められた心に、一筋の光が射し込む。それでも、全身を襲う震えは未だに止まることはなく、指先や足先の感覚が自分のものではないように感じてしまう。
アカネを離さないように強く抱き締めて、その体温を自らの身体で感じて、その吐息を自らの鼓膜で感じて……。ようやく、彼女がここにいるのだと実感できる。
目の前の現実離れした光景は、容易に彼女を奪っていくような気がしてならなかった。どれだけ視界に彼女がいても、それを信じることができなかった。
レイはアカネを抱き締めて数秒の沈黙を保つと、ようやく小さな吐息と共に、震える声でアカネに懇願するように告げた。
「頼むアカネ……、行かないでくれ。おれと一緒にここにいてくれ。おれを、一人にしないでくれ」
抱き締められて、耳元で呟かれたその言葉で、アカネの焦燥感は飽和するように消えていく。震えは止まり、自分の元へと感覚が戻ると同時に、溢れんばかりの涙が彼女の瞳から流れ落ちる。
アカネは何も理解してなどいなかった。ただ、兄と母親は喧嘩しているだけなのだと、それくらいに思っていた。時が経てば直ぐにでも家に戻れるのだと、それくらいにしか思っていなかったのだ。けれどこの光景を見て、それが間違っていたのだとようやく理解した。自分が何を選びとったのか、ようやく理解することができた。
自分の選択肢が正しかったのか、それとも間違っていたのか、そんなことはどうでもよかった。ただ結果として自分が選びとったのは、母親と父親とはもう会うことのできない道だったということ。そう思った途端、言葉にできない程の悲しみに襲われて、涙を流すことしかできなかった。
「あ……、うっ……う……うぇぇぇぇぇん」
小さな嗚咽が何度か続いた後に、全てを吐き出すように無邪気な泣き声を上げながらアカネは泣いた。もう逃げ出す様子など微塵もなく、ただ悲しみに任せて大声を上げて泣き出した。
「ふぇぇぇぇぇん……、おかあしゃぁぁぁぁん」
瞳から涙をボロボロと溢し、身体中から全ての力が抜けるようにストンと膝から崩れ落ちた。アカネを抱き止めていたレイも、すでにアカネを支えるだけの体力もなく、同じようにして膝から崩れ落ちた。けれど、その腕からアカネを離すことはなかった。
アカネは何度も何度も『お母さん』『お父さん』と赤く染まった故郷に向けて叫び続けた。まるでそうしていれば、いつか本当に二人が目の前に現れると信じているかのように。その間、レイはただ黙ってアカネを抱き締めていた。
やがて何度目かの掠れた呼び掛けを最後に、アカネは言葉を失った。喉が限界を迎えたのだ。これ以上両親を呼ぶことを、アカネの身体自身が拒んだのだ。それでも、今にも消えてしまいそうな小さな声で、アカネは両親を呼び続けていた。
それでもまだ足りないというように、虚ろな瞳を赤く染まった故郷に向けながら、呆然とした表情で口を動かし続けていた。その頃には涙も枯れ、真っ赤に染まった瞳が水分を求めて、何度も瞬きを繰り返していた。
やがて泣き疲れたアカネは、レイの胸の中で小さな寝息を発てて眠りに就いた。眠りに就く最後の瞬間まで、アカネは鼓膜を震わせることのない言葉を紡ぎ続けていた。
眠りに就いたアカネを布の上に寝かせ、レイは小さな寝息を発てるアカネの髪を優しく撫でる。眠っている表情は、先ほどの狂気に染まった表情が嘘だったかのように大人しく、けれど何処か哀しげな表情を浮かべていた。
ほんの少しの間だけアカネの寝顔を見つめていたつもりだった。けれど、もう一度外に出たときには赤く染まっていた雲は、その色を黒く染めていた。
先ほどまでの轟音も閃光も、視覚と聴覚にはっきりと刻み込まれているのに、今はそれが夢だったかのように静かな光景が広がっていた。
自分たちの故郷は戦いに負けたのだ。軍事国家として繁栄を築いてきた歴史も、今この時を持って過去の濁流に呑み込まれていくのだろう。敗者は歴史にその名を残すことすら許されないのだ。
改めて眺める故郷は、ここから見る限りではとても小さく、視界に留めるのがやっとな程に遠くに感じた。あれほど近くに感じていたのは、一体何だったのだろうかと誰かに問い質したくなるが、ここにはもう誰もいない。
あの故郷に戻ることはもうできない。恐らくあの国にいた者たちは、殺されたか、そうでない者たちはこれから奴隷として扱われるか、そんな未来しか残されていない。
アカネを連れ出したことは後悔していない。結果的に自分が想像していた通り、故郷は戦争に負けたのだ。本当の争いの渦中からアカネを救えたことは、あの決断が正しかった証拠だ。けれど、母親も救える道が本当になかったのかと考えずにはいられなかった。
大好きだった家族を、全員救い出すことが出来ればどれだけよかったことか。そんなことは高望みだと、自分にはまだそんな力はないと、そんなことは自分でもわかっていた。
あんな喧嘩別れのようなままで、本当は大好きだった母親を失いたくはなかった。もう出会えないとしても、これまでの感謝の気持ちとか、言いたいのに言えなかったことが、たくさん喉の奥に詰まったままでいた。
やがて、故郷を取り巻く熱を冷ますかのように雨が少しずつ辺りに斑点を生み出し、間もなくしてレイの視界から故郷を奪い去ってしまう程、雨は強く降り始めた。
雨に呑まれたレイは、心の中に塞き止めていたものが雨によって決壊するかのように、その瞳から涙を流し始めた。アカネの前では決して流さなかった涙が、今になって溢れかえる。自分だってアカネの様に、母親や父親の名を叫びたかった。けれど、アカネの前でそれをすることは、あの二人からアカネを引き剥がした自分には許されないことだった。
けれどもうレイを抑えつける枷は外された。今は雨が全てを奪い去ってくれる。泣き叫ぶ声も、溢れ出る涙も、雨が全てを洗い流してくれる。
「うわあああああああああああああ」
洪水のような雨が降り続く中、砂漠の真ん中で立ち尽くしながら悲鳴のように叫ばれた少年のその声は、打ち付ける雨の音に攫われて、誰の耳に届くこともなく曇天の空へと消えていった。