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The Story of Ark -王無き世界の王の物語-  作者: わにたろう
第十二章 繋がれる汚れた掌
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全てを振り切って

 レイとアカネは同じ部屋で過ごしていた。まだ幼い二人に与えられた、少し大きな子供部屋。今ならば決して大きいとは言えないその部屋が、この頃はまだとても広く感じていた。

 あんなことがあって泣き疲れてしまったのか、アカネは早い内からぐっすりと深い眠りについていた。アカネからは鳥の鳴き声のような可愛らしい寝息が、一定の律動を刻んで響いていた。

 隣で眠っていたレイは真夜中にまるで待ち構えていたかのようにむくっと起き上がると、そんなアカネを揺すり起こした。


「起きろ、アカネ」


 アカネだけに聞こえるように、声を限りなく小さく絞ってアカネに語りかける。しかし、深い眠りについているアカネは、そう簡単には起きてはくれない。

 少しずつアカネを揺らすレイの手に力が入り、その揺れの振動が次第に大きくなっていく。


「起きろ、アカネ」


 揺らす力がすっかり強くなり、何度目かの呼び掛けをしたところで、アカネはようやく小さな唸り声をあげて、眠気眼を腕で擦りながら目を覚ます。


「なぁに、おにいちゃん……?」


 状況を理解していないアカネが、少し大きめの声で尋ねてきたため、レイは思わずアカネの口許を手で抑えて、警戒するように辺りを見回す。そして人差し指を立てると、それを自らの口許に当てる。

 アカネはレイの行動の意図をすぐに理解することができず、不思議そうに瞼をパチパチと瞬いていると、周囲に動きがないことを察したレイが小さく口を開いた。


「今から外に出る。アカネも持てるものだけ準備しろ」


 ようやく口許から掌を退けてもらえたアカネは、レイの言う通りに声を絞りながら尋ねる。


「どうして、こんな夜に……?」


 それに対する答えを持っていなかったのか、レイは困ったような表情を見せると、少しだけ歪んだ唇を開いてこう告げる。


「外に出たいって言ってただろ?だから、一緒に外に出よう」


 そう言われると悪い気はしない。やはり自分の兄は優しくて、自分のことを考えてくれているのだという風に思えてくる。

 けれど外は真っ暗で、アカネはこんな夜更けに外に出たことなどなかった。そんなことを母が許すわけもないし、こんなことで母に怒られたくはない。


「でも、お母さんはダメって言うだろうし、今はいいよ……」


 アカネは隠すことができなくて、少しだけ顔を覗かせた嬉しさにムズムズとしながら、レイの誘いを断ろうとする。


「いいから、行こうぜ」


 とても優しい声音で、そしていつもの優しい微笑みを浮かべながらそう言われると、なんだか断る気が失せていく。

 そして、自分へと向けて差し出された自分よりは大きな兄の掌を、どこかに否定する自分がいながらも、ゆっくりとその掌に自らの掌を重ねる。

 自分の掌を取ってくれたことに、嬉しそうな笑みをレイが浮かべると、なんだか他のことはどうでもいいような気がしてくる。自分は、この優しい兄の笑顔が見たかったのだ。

 そうしてアカネはレイに手を引かれるままに、静かに子供部屋の外へと出た。

 外からは、一切の物音が聞こえていないはずだった。レイもしっかりと耳をそばだてて、外に気を遣っていたはずだった。

 けれどそこには、無表情の母が外へと続く扉の前で静かに立ち尽くしていた。


「こんな夜中に、どこに行くつもり?」


 レイの表情がまるで別人のように大きく歪み、先程までの優しい笑みは、困惑と悲痛の表情に覆い尽くされる。そんなレイの表情を見ていたアカネは、突如として襲われた胸の痛みに、思わず胸の辺りをギュッと握りしめる。


「アカネを連れて、ここから出る」


 その声音もまた、数分前と同じ兄だとは思えないほどに、鋭く重みを含んだものだった。アカネは最早、一変していく場の空気に言葉を発することはできず、ただ昼間と同じように二人の姿を怯えながら眺めることしかできなかった。


「そんなこと、私が許すとでも思ったの?」


 母の声音はとても淡々としていて、感情の色が見えないことが余計にアカネの胸に痛みを刻んでいく。


「だから、黙って出ていくつもりだった」


 レイは母ほど感情を隠すのが上手くない。けれど、アカネにとっては、そうやって感情をさらけ出してくれるレイの声音の方が、違和感を覚えることなく受け入れることができた。


「子供が考えることを、親がわからないとでも思ったの?」


 そう、レイの考えは疑うまでもなく、母に筒抜けだったのだ。レイが思っている以上に、母はレイのことをわかっている。それは親として当然のことだった。


「アカネを連れて部屋に戻りなさい」


 暗くて明瞭としないこの暗い部屋の中でも、母がどんな表情をしているのかが手に取るようにわかる。けれどそれはアカネが見たい母の顔ではなく、アカネはそれを拒否するように目を瞑って視線を逸らす。


「嫌だ……」


 レイは決して受け入れようとしない。だが、実の親に手を出す気は無いようで、無理矢理にこの場を抜け出そうとはしない。握りしめた拳も、自らの心を否定するように、震わせながらも掌を開こうとしている。

 ゆっくりと母がこちらへと歩みよる。その視線はレイにしか向けられていない。端からアカネが逃げ出すなどとは思っていないようだ。


「戻りなさい」


 母の言葉に感情の色が見え始める。しかしそれはアカネが求めたモノではなく、とても鋭く尖った『怒り』の感情だった。とても高圧的に、有無を言わさない声音で、レイへと向けて告げる。


「嫌だ……」


 それでも、レイは首を縦には振らない。ただ、レイの声音は少しずつ覇気を失い始めている。レイも母のここまでの怒りを見るのは初めてだった。周囲が見辛いこの暗闇が、余計にレイの恐怖心を煽っていく。


「戻りなさい」


 レイの声音とは裏腹に、母の声音はさらに高圧的になっていく。母もそれなりの覚悟を決めているのだ。親子としての関係が悪くなろうとも、ここは親として譲れないものがあると……。

 レイは首を必死に何度も横に振る。もう『嫌だ』という言葉も口からは出てこない。それでも、レイも母に負けないくらいに覚悟を決めているつもりだった。だから意地でも、首を縦に振ろうとはしない。

 静かな睨み合いが続けられていた。その間も、アカネは黙って目を瞑りながら二人の冷戦が終わるのを待ち続けていた。

 けれど、二人の冷戦が終わる気配は一向に見えない。こんなことをしていても、自分の大好きな兄の笑顔を見ることはできない。アカネが見たかったのは、ただそれだけだった。

 二人でこの部屋を抜け出すと言った時、レイはアカネの大好きな笑みを浮かべていた。自分がここを抜け出せば、きっと兄はもう一度笑みを見せてくれる。

 アカネの幼い頭では、何かひとつの目的のためにしか動くことができなかった。いくつものことを考えて、この場を穏便に済ますことなんて幼いアカネにはできなかった。

 ただ自分の欲望にまっすぐで、だから今だけは母の思いは蚊帳の外へと放り出して、アカネはひとつの答えを選びとった。

 母やレイからすればそれはあまりにも突然で、二人ともが驚きで言葉を出すことすらできなかった。呆気に取られたまま、何が起こったのかを理解するまで動くことができなかった。


「待ちなさい、アカネ!!」


 それでも、一番に声を出すことができたのは母だった。そしてレイもまた、アカネが作り出したこの一瞬の隙を逃しはしなかった。

 母は突如として起こったアカネの逃走に、レイから完全に視線を離してしまった。視線どころか、意識すらも最早レイには向けられていなかった。

 そして、レイもまたアカネを追うようにその場を飛び出した。隙を与えてしまったレイを、母は止めることができなかった。母の横をすり抜けるように走り抜けて、扉の外へと飛び出した。


「待ちなさいっ!!」


 母のその声は最早悲鳴のようだった。その声を耳にしたレイは、一瞬立ち止まりそうになった脚を、それでも歯を喰い縛って前へと進めた。飛び出した妹の後を追って……。


「お願いだから、待ってよ……」


 膝から崩れ落ちた母の絞り出したようなその声は、夜の暗闇の中に溶け込むように、誰の耳にも届くことなく消えていった。そして母の足元には、まるで斑点のような模様を残しながら、床の木目を滲ませていった。


「私を一人にしないでよ……」


 もうその声は、誰にも届かない……。




 レイはただひたすら、小さな背中を目指して夜の街を駆け抜けた。アカネが何を思って逃げ出したのか、それはまだわからない。けれど、アカネを国の外に連れ出すのなら、この機をおいて他にない。

 自分の中に迷いが無い訳ではない。ここから出て、それで何ができるのかと言われれば、正直自分の中に確固たる自信などありはしない。けれど、ここに居てもそれは同じで、もしかすると外に出るよりも悲惨な未来が待っている。

 だから、誰よりも大切な妹だけはこんな未来のない世界から解き放ってやりたいとそう思った。例え、それが妹の次に大切な両親を裏切ることになろうとも……。


「アカネ、待ってくれ」


 いつもは自分が必ず妹の前を走っていた。妹の背中を見ながら走るのはこれが初めてかもしれない。いつの間にか少しは大きくなった妹の背中を見て、レイはこんな状況にも関わらず小さな微笑を漏らす。

 レイの呼びかけが耳に入っていないのか、アカネの脚が止まることは無い。なりふり構わずに、ただこの国の外に向けて全力で走り抜ける。その眼にはこの国が生き残るために、少しずつ大きくなって、今では軍事国家と呼ばれるようになった巨大な門だけが映し出されていた。

 そしてその門は今、この国の軍が出払っていることと、毎日のように国内で起こる騒動のせいでもぬけの殻となっていた。深夜に子供が外に出ることを止める者など、誰一人として存在していない。

 本気で追いつこうとすれば簡単に追いつけたのかもしれない。けれど、アカネが必死に走り抜ける背中を見ていると、どうしても追いつく気にはなれなかった。彼女の必死さがまるで自分の前に壁を生み出しているかのように、脚が自然と彼女の歩幅に合わせられてしまう。

 けれど、もぬけの殻となった門の外に出たところで、その壁は突然に崩れ落ちた。アカネはその足を止めてレイの方に振り返る。その眼には涙が浮かんでいた。自分がどうしたらいいのかわからなくて、けれどあのままあの家にいたら自分の大切な人たちがどんどん崩れていくような気がして……。

 どうすればいいのかわからなかった。どうしたら、皆が笑って過ごしていけるのかなんてわからなかった。だから、アカネは選んだのだ。たった一人の意志に従おうと決めたのだ。


「これで……、よかったのかな……。これでおにいちゃんは笑ってくれるのかな……?」


 それが全ての答えだった。アカネはただ一人、レイに笑顔を見せて欲しかった。ただそれだけのために、アカネはあの家を、この国を飛び出した。全てを投げ出してでも、大切な、大好きな兄に笑顔を見せて欲しかったのだ。

 レイはゆっくりとアカネの元に歩み寄る。アカネは瞳に溢れんばかりの涙を浮かべて、クシャクシャに皺寄った表情のまま、レイの答えを待つようにジッと見つめる。

 その視線を真っ直ぐに受け止めることができなくて、レイは少しだけ俯きながらアカネの元へと歩み寄り、ゆっくりと手を広げてアカネを自らの胸に抱き寄せた。彼女の温もりを感じた瞬間、自分の中に塞き止めていたものが、我慢の限界を迎えて決壊し涙となって溢れ出した。

 本当はすぐにでもアカネに答えてあげるべきなのだろうが、今は構わない。自分の涙を気付かれないように、力強くアカネを抱きしめる。その間、アカネは黙ってレイの胸の中に自らの顔を埋める。

 少しの間抱き合って、ようやく自分の心の落ち着きを取り戻した頃、レイはゆっくりとアカネを自分の腕の中から離し、そっと赤く腫れた目許を腕で拭うと、同じように目許を赤く腫らしたアカネとしっかりと視線を交わらせる。

 そして覚悟を決めるようにコクリと喉を鳴らすと、更に一歩距離を詰めてアカネの頭に自らの掌を乗せる。


「ああ、これでよかったんだ……。アカネのお陰だ、ありがとう」


 レイはアカネの上に添えられた掌でアカネの頭を優しく撫でる。そして、いつもと同じように優しい微笑みをアカネに向けた。いつものように笑えているだろうか、真っ赤に晴れた目許を怪しまれてはいないだろうか、緊張でどこかが引きつってはいないだろうか。

 それらは全てアカネが教えてくれる。その答えはアカネだけが知っている。


「よかった……」


 たった一言、それがレイに向けられた全ての答えだった。アカネはまるで夜の暗闇に咲く一輪の花のように、鮮やかで綺麗で幼気な笑顔の花を咲かせた。アカネは本当に自分の笑顔だけを願ってくれていたのだ。ならばこれからも、自分は妹の願いに答えていかなければならない。

 俺はもう一度アカネを抱き寄せて、その温もりを自らの記憶に刻み付ける。これから先、これまでの暮らしよりも、もっと大変ことが待っているかもしれない。それでも、彼女と一緒ならば、彼女の笑顔が見られるのならばそれでいいと思った。


「痛いよ……、おにいちゃん……」


 そんなことを考えていると、いつの間にかアカネを抱きしめる腕に力が込められていたらしく、『痛いよ』と言いながらも、全然嫌そうではない声音で訴えてくる。

 必ずこの笑顔を護りぬくという決心と共に、アカネとレイは自らの故郷の外へと旅立った。


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