消え失せる魔法
一瞬の静寂が訪れる。そのまま畳み掛けたかったアランだが、雷鳴が鳴り止むと共に、神経が切れるような一瞬の頭痛に襲われ、すぐに動くことができなかった。
「はあ……、はあ……、はあ……」
レビィの息が急激に激しくなる。相性の悪い水のエレメントにとって今の攻撃は、尋常ではない痛みを伴ったであろう。
それでもレビィは地面に膝を付くことすらなく、その場に立ち尽くしていた。身体中に走る痛みと痺れを我慢して、レビィはアランを見据える。
「やっへ、ふえうやあいの……」
まだ舌が痺れてしっかりとしゃべることができていない。地面にすら焦げ痕が残るほどの雷をもろに喰らったのだ。生きているのがおかしいくらいだ。
「あっ?なんだって?何言ってんのかわかんねえよ」
ようやく立場が上になれたような気がして、少し上ずった声音でアランが訪ねる。できることならさっさと止めを刺しにいきたいのだが……。
アランは挑発するように耳に手をあてて、耳を澄ますような態度をとる。こちらが魔法を連発できないことを悟られる訳にはいかないのだ。
「はあ……、らから、あんはのほと、なめへはって、言ってんのよ……」
そろそろ呂律が回復し始めてきた。アランの休憩が許される時間も、それほど長くはないだろう。
「始めっから言ってんだろ。十年のブランクがあろうが俺は強いって。人の言うこと聞かねえから、そういうことになるんだぞ」
先程まですっかりレビィのペースにのせられていたので、アランがこれでもかというくらいに会話の先導をとる。
「まあ、舐めてたのは認めるよ。でもねえ、相性の悪いエレメントでこれくらいの痛手なら、全然可愛いもんさね。あんたこそ忘れてないかい?あたいだって、これくらいの傷は何度も負って来てんだよ」
瀕死の状態から、早くもレビィが動き出す。レビィが地面に手をつくと、アランの足元が泥沼のように柔らかくなり、アランの脚が再び地面に埋まっていく。
だが、アランは最初のように慌てた様子はない。ただ落ち着いた表情でレビィを眺めている。
その様子に気が付いたレビィは、地面に手をついたまま怪訝な表情を浮かべて、その視線を交わらせる。
アランは水面と化した地面に掌をつくと、魔力を練り始める。そして、レビィの元へと蒼い稲妻が地面を這うように走っていった。
それを避けるためにレビィは地面から手を離して飛び退く。地面から手を離しさえすれば、避けることは容易だった。
だが既に目の前の男は、先程までの視線の高さよりも高いところにその顔があった。アランの脚はいつものように地面の上に立っていたのだ。
「気がついていたのかい?」
レビィの攻撃はレビィが地面についている掌さえ剥がしてしまえば解除されるのだ。これはただの見せ掛けだけの技で、相手が慌てて出ることに必死にならなければ、なんの意味もなさない。
「まあ、確信があった訳じゃねえけどな……。でも、術者を攻撃するってのは常套手段だろ」
落ち着いて考えれば、そういう答えが出る。これは相手の精神状態を試す技なのだ。だから、最初のように慌ててくれなければ、なんの意味もなさないのだ。
「まあ、あんたの言うとおりだね。存外馬鹿じゃないみたいだね」
レビィはどうやらアランのことを見下しているらしい。先程から、口をついて出てくるのは、アランを卑下する言葉ばかり。
「お前、少し俺のことを舐めすぎてねえか?さっき舐めてたことは認めるとか言ってなかったか」
さすがに我慢ならなくなったアランは抗議をし始めるが、レビィはどこ吹く風といった様子で平然とした表情で答える。
「そんなこと言ったかい?まあ何にしてもあんまりダラダラしてると、こっちが不利になりそうなのは間違いないね」
レビィもアランの魔力が着々と強くなっていることに気が付いている。このまま、アランが戦いの中で勘を取り戻していけば、間違いなく追い込まれるのは自分の方だ。ならば、もう遊んでいる時間は無い。
「そろそろ、本気で片付けさせてもらおうかね」
レビィが自らの身体の前に両手を翳すと、これまでとは比べものにならない程の巨大な瑠璃色の魔法陣が形成されていく。
魔法陣の大きさを見たアランは、すぐにその危険を察知する。流石にこの大きさは不味い。いくら相性が良いと言えど、それなりの魔力を注ぎ込まなければ、勝てる相手ではない。
「さあ、あたいの本気の力、とくと味わいな」
レビィの魔法陣の大きさが増していき、やがて魔法陣から輝きが漏れ出すように、魔法陣が光りを放ち始める。
「いくら何でもヤベエだろ」
アランも咄嗟に魔法陣を形成する。もう四の五の言っている場合ではない。
この魔法を凌ごうとすれば、もしかすると精神崩壊を起こすかもしれない。だが、そんなことを気にしている余裕はどう考えてもないのだ。
アランの眼前にも山吹色の魔法陣が少しずつ大きさを増していく。過去の記憶を元に、ありったけの魔力を注ぎ込んでいく。
だが、アランの魔法を待たずして、レビィの魔法が発動する。
「飲み込め、バジリスク」
最初の水の大蛇を遥かに上回る大きさの水の大蛇が姿を現す。大量の水がうねりをあげて地面を抉り取りながら、アランの元へと突き進む。
その姿を目にしたアランはあまりの焦りに精神力を乱してしまい、魔法陣が揺らぐ。
それでもアランは諦めずに、その魔法を放つために魔力を解放しようとした。
「喰らい尽くせ、イン…………」
だがその魔法が発動されることはなく、レビィの魔法にアランが飲み込まれる。
アランは流動する水の中でもがき苦しむ。相手の攻撃による痛みはない。しかし、息をすることができないのだ。このままでは窒息死してしまう。
もがき苦しむが、凄まじい勢いで迫りくる流水に身動きを取ることも、魔力を練ることもできない。どれだけ掌を握りしめても、何も掴むことはできない。
ここまでなのか……。レオナとの約束を守ることもできずに、ここで死んでしまうのか……。アカネやアカツキを残してきたままで、死んでしまうのか……。
そもそも、俺が勝てないのなら誰が、勝てるというのだ。アカネには不可能だ。彼女は戦ったことがほとんどないのだ。過去にあれだけ戦った自分ですら、十年の空白のせいで、こんな不甲斐ないことになっているのだ。
過去に経験もなく、さらに十年の空白がある彼女が、目の前の敵とまともに戦える訳がない。
それにアカツキがどれだけの力を持っているのかもわからない。
ここで死ぬ訳にはいかないのだ……。彼らを残して、目の前の敵を野放しにする訳にはいかないのだ。
アランが救いを求めて手を伸ばす。そこに誰がいる訳でもない。それでも命がある限り、何かに抗わずにはいられない。
すると、まるで彼が求めた救いが届いたかのように、アランの視線の先にあったこの部屋の入口の扉が勢いよく解き放たれた。
そこにあったのは、見慣れた少年少女、そして親友の姿だった。
アカツキが真っ先に地面を蹴って、アランの元へと駆け抜ける。その手には、何もないところから出現させた、少し古びた刀が携えられていた。
「アラン、今助けてやる」
アカツキは地面を蹴って跳躍する。そんなアカツキを、レビィの魔法が放置しておく訳がない。
跳躍したアカツキに向かって、バジリスクの巨大な口が牙を剥く。
「ぐおおおおおおおおおお!!」
水のうねりが、まるで怪物の鳴き声のように悪寒を掻きたてる音を響かせる。
だが、アカツキはそんな魔法に何の物怖じもすることなく、自らその水の中に飛び込んでいく。
アカツキが飲み込まれると思ったクロガネは思わず悲鳴を上げる。
「アカツキっ!!」
アカツキは刀の切っ先をバジリスクの口の中に向けて突き立てる。
バジリスクが巨大な口を閉じ、アカツキが飲み込まれた。レビィは余裕の笑みを浮かべながら、自らの魔法に呑み込まれていく少年を眺めていた。
だが、バジリスクは下顎を閉じた瞬間、その動きが止まった。
「何事だい!?」
完全にアカツキを呑み込んだはずのバジリスクの動きが止まり、レビィが思わず驚きの声を漏らす。
まるでその驚きが合図にでもなるかのように、バジリスクは蒸発するかのように、その巨大な身を弾け飛ばしたのだ。
レビィの眼に映ったアカツキの眼には、何も疑うことのない真っ直ぐな眼差しが映し出されていた。
濁流から解放されたアランの元に、真っ先にクロガネが駆け寄る。
「アラン、大丈夫?」
倒れるアランの上半身を抱き起こし、アランの顔を覗き込む。心配そうな表情を浮かべて、アランを覗き込むクロガネを見て、アランが優しげな表情を浮かべる。
「何そんな泣きそうな顔してんだよ……。大丈夫だ、俺がお前を残して死ぬ訳がないだろ」
そう言いながら、クロガネの頭を撫でる。その行為は無意識のものだった。ただひと肌が恋しかったのだ。久しぶりにずっと一人で、その上死にそうな思いをしたのだ。早く誰かに触れたいと思っても不思議ではない。
アランの濡れた手がクロガネの頬へと触れ、冷たい中にもはっきりと感じられる温もりがあり、クロガネは安堵の溜め息を吐く。
「そんなボロボロになって、何を言われたって心配に決まっるだろ。なんで、一人で行っちゃうんだよ」
アランの無事を確認できたことで、クロガネの緊張がほどけたのか、瞳から涙が溢れ出す。水に体温を持っていかれたアランの頬に、彼女の涙が降り注ぎ、ゆっくりと熱を伝える。
「カッコつけたかったんだよ……。察してくれよ」
少しふざけたように、けれど弱々しく微笑むアランに向けるクロガネの視線が少しだけ鋭さを帯びる。
「そんな理由で、死んじゃったら馬鹿みたいじゃん。なんでそんな無茶するんだよ。僕たちだって戦えるんだ。なんで、いつもみたいに一緒にいてくれないのさ……。どうでもいい時は、いつも一緒にいる癖して、どうしてこんな大事な時に一緒にいてくれないんだよ」
そんなの理由はわかっていた。クロガネも馬鹿ではない。どうしてアランが一人で行ったのか、そんなことくらい頭の中ではわかっていた。けれど言わずにはいられなかった。そうでなければ、いずれまた、アランが一人で消えていってしまいそうだと思ったから。
「悪かったよ……。でも、ありがとうな。お前たちのお陰で、死なずに済んだわ」
アランがいつもの無邪気な笑みを浮かべる。もう大丈夫なのだと、その笑顔を見たクロガネは本当に安心した。腕の中の命の灯火は、再びその身を焦がし始めた。
そして、彼らの視線はたった一か所に向けられる。刀を携えし一人の少年に……。
「何をしたんだい?あたいのバジリスクが、その刀一本にやられたってのかい?冗談じゃないよ。私の最強の技が、そんな柔な細身の貫かれる訳がない」
レビィは混濁していた。目の前の少年が魔法を使った形跡はない。しかし、自らが放った最大の魔法は、いとも容易く飛散した。まるで魔力が消し飛んだかのように。
「お前の言う通り、俺は魔法を使っていない。この刀で、お前の魔法を切り裂いただけだ」
アカツキは鈍く光る切っ先をレビィに向ける。その視線はしっかりとレビィを捕え離さない。
そんなアカツキの視線から逃げるように、レビィは視線を泳がせながらアカツキへと意見する。
「そんな訳ないじゃない。本当はまだ何か隠し持っているんじゃないのかい?」
どうやら、現実を目の前にしてまで、未だに信じられないらしい。魔法を斬ることができる刀など、アカツキ以外に聞いたことがないのだから、十年前にこちら側に辿り着いた彼女が信じられないのも無理はない。
「目の前で起きたことを信じないのは結構だが、死んでから後悔しても遅いぞ」
アカツキは膝を屈め、いつでも地面を蹴って、レビィへと接近できる体勢を取る。そんなアカツキの様子にレビィは焦りを覚えたのか、捲し立てるようにアカツキに告げる。
「大体、こっち側に資質持ちが何人もいるなんておかしいじゃないかい。あんたみたいな資質持ちがいて、噂にならない訳もないし……。もしかして、ガーランドとの関係はまだ続いていて、あたいを倒すために、わざわざ向こう側から来たんじゃ……」
最早レビィの話は要点を得ない。焦っているため、ただ悪戯に頭の中に浮かんだ言葉を発しているだけだ。もう彼女の言葉を聞く必要はない。
「言いたいことはそれだけだな……」
その言葉を合図にアカツキの膝がバネのように伸び、地面から土埃が上がる。刀を携えたアカツキがレビィへと突撃した。
だが、戦闘の初心者ではないレビィは焦った頭でも、何とか魔法陣を構築し、迫りくるアカツキへと魔法を放つ。
瑠璃色の魔法陣から、直径一メートル程の巨大な水の砲弾が何発も放たれる。だが、所詮は急造の中身の無い魔法。それら全てはアカツキの刀によって一蹴されていく。
そして、レビィの眼前まで容易く到達したアカツキは、その魔法陣ごと切り裂いた。魔法陣は弾け飛び、レビィを護るものは最早何もない。
レビィは戦慄の表情を浮かべ、死をも覚悟した。
そして、アカツキは自らの右の掌に魔力を集中し、深紅の魔法陣を構築し始めたその時、アカツキの身に異変が起こった。
先程まで戦慄の表情を浮かべていたのはレビィのはずだった。しかし、アカツキの掌に創り出された魔法陣が大きく揺らぎ弾け飛び、アカツキの瞳は大きく見開かれ、まるでレビィの写し鏡のように戦慄の表情を浮かべて立ち止まった。