雪解けの夜明け
アカツキは泣き続けた。抑えていたものは全て涙となって瞳の奥底から流れ出して、後に残ったものは、それでも消えることのなかった後悔と、先の見えない喪失感だった。
残ったものがそんなものだったとしても、今すぐに自らの命を散らすことはないだろう。彼が言ったことの全てを納得した訳ではない。それでも、今自分がこの世を去ったところで、きっと誰も喜ばないと思ったから……。
アカツキの背中を地平線に臨む太陽が照らし出しているが、それでも周囲の雪がアカツキの体温を奪っていく。
「お前、寒くないのか?」
二人の争いも終わり、唐突に掛けられた言葉はそんな言葉だった。
ようやく落ち着きを取り戻し、アランの問い掛け意味を考えていると、身体中を悪寒が駆け巡る。確かに寒い。というか、めちゃくちゃ寒い。なんだこれは。この白い物体は魔法か何かか……。
アカツキは急に腕で自らの身体を抱き抱え、激しく身震いをし始める。先程まで別のことに必死で気温を感じることすらなかったが、少し落ち着いてしまえば、耐えられない程の寒さに見舞われる。
「まあ、上半身裸で、雪の中に出るなんて、自殺行為以外の何物でもないわな」
改めて他の二人の格好を見てみれば、二人ともそれなりに身体を包み込むような上着を羽織っている。それでも、彼らも唐突に起こった事態に、準備をちゃんとはしていなかったようで、二人とも寒そうにしていた。
「雪?」
『雪』という言葉が聞き慣れなかったアカツキは、その言葉の真意について問い掛ける。何しろ、ガーランド大陸で雪が降ることはない。砂漠はあっても、雪原は存在しないのだ。
「まあ、そういうのは追々教えてやるから。まずは家の中に入れ。クロガネ、暖炉の火を焚いて、風呂を沸かしてやれ。お前もずっと外で見てたんだから、身体が冷えてるだろ」
クロガネと呼ばれた少年は、小さく頷き返すと家の中へと消えていった。アランはアカツキに近づき、アカツキに自らの上着を肩から掛けてやる。
「ほら、風邪ひく前に、家の中に入れ」
そう言って、彼の先導の下、アカツキは彼らの家の中へと再び戻って行った。
家の中ではレンガ造りの暖炉の中で火が少しずつ、くべたばかりの槇に移り大きくなっていく。クロガネと呼ばれた少年は一瞬視線を合わせると、何も言うこともなく別の場所へと向かってしまった。
先程のことを謝りたいと思っているのだが、どうやら避けられているらしい。先程は、もう戻ってくる気などもなかったから、彼に敵意の視線を向けてしまったし、恐がられても仕方がない。唯一手を出さなかったことだけが、救いであることを願いたい。
「アカツキ、お前全然飯食ってないから腹減ってるだろ。昨日作ったスープの余りがあるから、温め直して食うか?」
クロガネとは違い、アランはとても気さくに接してくれる。それはそれで、こちらも距離が取り辛くて困るのだが、今は彼の気さくさに甘えておこう。
「はい、いただきます」
そう返事をすると、嬉しそうに「おうっ」といって台所に置いてある鍋へと向き合う。少しすると、おいしそうな香りが、台所の方から漂ってくる。その匂いを嗅いだ途端に、お腹が獣のように鳴き始め、急激な空腹感に襲われる。一体自分はいつから食事をしていないのだろう。
「ほら、腹は減ってるかもしれねえが、たぶん胃も弱ってるだろうから、ゆっくり食えよ」
そう言って渡された、野菜がたくさん入ったスープの器からは、野菜の甘い香りがこれ以上なく食欲を煽っていく。だが、一先ずアランの言うことを聞いておかなければと思い、そっと器に口を付け、ゆっくりと喉の奥に流し込む。
その瞬間、得も言われぬ感情に包まれていく。何かの命を頂くということが、これ程までに有難く、そしてこれ程までに心を暖めてくれるものだとは思わなかった。ここまでの空腹を味わったことがなかったアカツキは、その瞬間アランの言葉を忘れ流し込むように飲み干してしまう。
あっという間になくなってしまった器を眺め、厚かましくも、アカツキはお代わりを要求する。
「すみません。お代わりをもらえますか?とてもおいしいです」
アカツキがお代わりを要求してきたのを見て、アランはとても気さくな笑みを浮かべると、ちょうど部屋に戻ってきたクロガネに向けて、こう言った。
「だってよ、クロガネ。よかったな」
その瞬間、クロガネの頬が赤く染まり、再び扉の向こうへと顔を隠してしまった。どうやら、このスープを作ったのは、クロガネだったようだ。お互いにまだ距離を掴めていないクロガネは、アカツキの『おいしい』に素直になることができなかったのだろう。
「まあ、あいつはすぐに打ち解けられる奴じゃねえからな……。ゆっくりでいいから、仲良くなってやってくれ。同年代の友達ができるってのは、同居人としては嬉しいからよ」
『同居人』という言葉が、アカツキの中で少しだけ引っ掛かった。確かに二人は、家族というには似ても似つかない顔立ちをしている。ならば何故、二人は一緒に住んでいるのだろうか。
「二人は家族ではないんですか?」
余り深いことを聞くのも憚られたので、それくらいの質問に留めておく。
「ああ、俺たちは家族みたいなもんだけど、家族じゃあねえ。血は繋がってねえし、産まれた場所も違う。でも、家族よりも家族らしいって思ってんだ」
そう言いながら、アランは新たにスープを入れた器をアカツキに差し出した。アカツキはそれを受け取ると、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべながらアランへと告げる。
「いいですね、そういうの。俺にも、血の繋がりも、産まれた場所も全然違うけど、家族みたいな奴らがいたんです」
アカツキがそう言った瞬間、アランの顔から笑みが消え心配そうな表情へと変わったので、アカツキは何かを言われる前に、話を続ける。
「大丈夫ですよ。彼らのことを思い出して、死にたくなったりとかは、もうしませんから。でも、何のためにこれから生きていけばいいのかは、わからずじまいのままですけど」
そんなことを漏らすと、アランが優しい手つきで頭を撫でてくれる。
「そんなもん、ゆっくり探せばいいんだよ。お前の未来はまだまだ先が長いんだから、生き急いで道を見失うよりかは、迷ってあがいて、ゆっくり考えて答えを出す方がいいに決まってる」
その言葉はとても暖かく、未来が真っ白になっているアカツキには、心の拠り所になれるような言葉だった。
「はい」
たった一言、そう返事をすると、アカツキは再び盛られたスープの器に、アランから顔を隠すように俯きながら口を付ける。そのスープにはポタッ、ポタッと雫が垂れ波紋が広がっていく。小さく震えながらも、そのスープを一気に飲み干すと、アカツキは震える声でこう言った。
「おいしい、けど、しょっぱいや……」
それからアカツキが落ち着くまで、アランは何も言わずに静かに待っていてくれた。その沈黙はとても心地よく、自分を思ってくれている人間がいるということの暖かさを久しぶりに感じることができた。
「ごちそうさま」
だから感謝の言葉は忘れない。
これまでだって、伝えなければならないのに、いつでも伝えられると思って、伝えられなかったことがたくさんある。これからは自分の気持ちに素直になろう。人の命なんて儚いものだ。いつその灯が消えたっておかしくはない。それを、身をもって知ることができたから……。
「お礼ならあいつに言ってやってくれ。たぶん、さっきこっちに顔出したってことは、風呂が沸いたんじゃないか。お前も身体が冷え切ってるだろうから、しっかり身体を暖めてきた方がいいぞ」
アランはそう言って、先程クロガネが一瞬顔を出してそのまま顔を隠してしまった扉を指差す。どうやらあそこがお風呂へと繋がる扉らしい。確かに自らの身体も相当冷え切っており、お風呂に入って身体の芯から暖まりたい気持ちでいっぱいだ。
そもそも、結局『雪』がなんなのかは聞けていないが、あれはなかなか凶悪なものなのではないだろうか。砂漠で相当な暑さを経験したことがある身としては、この寒さはそれに負けない程に身体に堪えるものだった。
ガリアスのお陰で多少寒さにはなれているが、魔力の感じられない寒さというのをアカツキは初めて感じていた。『雨』をも超える凶悪な天候があることを知ったアカツキは、自らがまだまだこの世界のことを知らないのだということを実感していた。こんなことでは、確かにまだ死ぬには早いのかもしれない。
そして、アランに促されるがままにアカツキはその扉を開ける。そこは脱衣所になっているようで、綺麗に折りたたまれた服が木網の籠の中に納まっていた。どうやらクロガネが先に入っているらしい。
それならばもう少し出るのを待っていた方がいいだろうか。しかし、先程伝えたい思いは素直に、そしてすぐに伝えなければならないと、自分の中で決めたばかりじゃないか。
クロガネは男なのだし、あまり知らない人が入っている風呂に入っていくのは流石に失礼だとしても、一瞬扉を開けて顔を見てお礼を言うくらいのことは許されるだろう。そう思ってアカツキは勢いよく扉を開ける。
「あのさ、クロガネ。スープおいしかっ……」
中は外の冷気も相まって湯気が立ち込めていた。それでも、そこにいるクロガネの姿ははっきりと見ることができる。耳の辺りで短く切りそろえられたミディアムの黒髪から滴り落ちる雫が嫌に艶めかしく、そして首筋から視線を下ろしていくと、そこには小さくとも紛れもない膨らみがあった。
アカツキが言葉を最後まで紡ぐことができなかったのは、その膨らみを見てしまったから。男にはあるはずの無い胸元の膨らみが、彼の視線を釘付けにしてしまったから。
「えっ……、どういうこと……。だって……、クロガネって……」
予想だにしなかった光景に頭が追いついていかない。謝って直ぐに扉を閉めればいいものを、アカツキは固まったままその場で立ち尽くしてしまった。クロガネの身体が小刻みに震え、片方の手はしっかりと胸元を抑え、もう片方の手はいつの間にか桶に手が伸びていた。
そして、呆然と立ち尽くすアカツキに向けて、顔を真っ赤に染めたクロガネは、魂の一球を投げつけた。
「いつまで見てんだ、この、変態!!」
クロガネの渾身の剛速球はアカツキの脳天を突き破り「グハッ」という断末魔と共に、アカツキはその場で倒れてしまった。アランに殴られたどの痛みよりも、身体を突き抜ける衝撃は凄まじく、このまま死んでしまうのではないかと錯覚したくらいだった。
「ああ、言うの忘れてたけど、クロガネは女だぞ。まあ、女ってことは周りには隠しているけど……」
このアランの雰囲気がどこか引っ掛かっていたのだが、ようやくその正体がわかった。
「ヨイヤミみたいなこと、しないで下さいよ……」
アカツキのそんな言葉にアランは首を傾げながら、倒れたアカツキを見下ろしていた。
「誰だよ?ヨイヤミって」
そう思うと自然と笑みが零れてくる。つい数時間前まで死のうと思っていたのが馬鹿みたいに思えてくる。確かにまだ、これから何をすればいいのかはわからない。全てが打ち砕かれた今、アカツキには生きる目的が無くなってしまった。
けれど、こうやって生きていれば、いつかその目的も見つかるだろう。生きる目的を見つける為に生きる、というのはなんだか矛盾しているようだが、そういう生き方も悪くない。
死のうとしていた人間が、こうやって笑うことができるのだ。ならば生きていれば、いずれは誰だって笑うことができるはずだ。少し長い道のりにはなるかもしれない。けれど、もう一度、全てを一からやり直してみよう。命を懸けてその機会を与えてくれた、仲間たちの為にも……。
「アランもいつまで扉開けてんのよ。どっちでもいいから早く閉めなさいよ。このままじゃ私が動けないじゃない」
クロガネの怒声が部屋中に鳴り響く。そんなクロガネの言葉は一切耳に入っていないように、アランは扉を閉める気など一切見せずにクロガネをからかう。
「おい、アカネ。お前『素』が出てるぞ、いいのか」
少し嫌味混じりの笑みを浮かべながらクロガネをからかうアランを見ていると、ますますヨイヤミに見えてくる。それにしてもアカネとは誰だろう……。きっと、クロガネの本当の名前なのだろう。
「ふっ……、アハハハハハ」
遂に耐えきれなくなったアカツキは声を上げて笑い出す。笑っていればきっと、いつか何かが道を照らしてくれる。今は目の前に広がる道は真っ暗だけれど、きっとそこにもいつかは光が差す。止まない雨はないし、明けない夜もないのだから……。
急に声を上げて笑い出したアカツキに、クロガネもといアカネもアランも一瞬キョトンとして、アカツキを見ていたものの、やがてアランも一緒になって声を上げて笑い出した。しかし、いつまで経っても扉を閉めてもらえないアカネは、仕舞には涙目になりながら懇願する。
「もう、お願いだから、誰か扉を閉めてええええええ」
町はずれの小さな民家から、大きな笑い声とちょっぴりの泣き声が聞こえてくる。その笑い声に誘われるかのように、太陽は昇り曇天を押し除けるように陽を照らす。少しずつ暖かさは増していき、陽に照らされた雪が少しずつ溶けだして、雪に覆われていた新たな息吹が顔を出し始める。
『春』はもうすぐそこまで来ている……。