幽霊の正体
東の森に到着した二人は、さらに色濃くなる悪寒を感じながら、緊張の面持ちで立ちはだかる木々を眺める。
「ここまではっきりと感じるってことは、もうほぼ間違いないだろうな。ってことは、やっぱり覚悟して入る必要がありそうだ。さっきみたいな戯合いはなしだな」
真面目な表情でそんなことを言うアランの鼻が、未だに赤く染まっているで、何処か格好がつかないが、どうやらようやく気を引き締める気になったようだ。
クロガネもアランと同じように、背筋に嫌な悪寒を感じている。それは間違いなく森の中から放たれており、この先に何かがあるのは想像に難くない。
「ある意味、じいさんは逃げて正解だった訳だ。ただのじいさんが何も知らずに近づけば、下手すりゃ命すらも失いかねねえ」
そんなアランに、さっきまでの勢いは消え失せて威勢の無くなった声音で、不安げな視線を向けながらクロガネが尋ねる。
「アランから見て、目の前のは危ないやつなの?僕には、区別つかないから」
そう言われても、アランもここ数年この悪寒とは関わっていないので、感覚が鈍っている。目の前にそれがあるのは確かだが、それが危険なものなのか、そうでないのかの区別は現時点ではわからない。
「まあ何にしろ、俺たちが行くしかねえだろ。じいさんの依頼が無かったとしても、これは俺たちが何とかしねえといけねえ。その義務が俺たちにはあるだろ」
クロガネでもほとんど見たことのない、アランの強張った表情。先程までふざけていたアランはもうどこにもいない。
やがて、覚悟を決めたアランがクロガネよりも先に森の中に足を踏み入れる。
「クロガネ。もし、俺たちにもどうすることもできない相手なら、お前は俺を置いて真っ先に逃げろ。それが約束できないなら、お前をこの先に連れていく訳にはいかねえ」
こんな言葉を前置きされるのは始めてな気がする。そのせいで、クロガネの不安はさらに煽られ、身震いしそうなほど寒いにも関わらず、身体が湿り気を帯び始める。
「わかった。でも、僕も戦うから。二人でやって、どうしても駄目だった時は、アランの言うことを聞くよ」
了承してくれたクロガネに、アランは少しだけ満足そうに微笑を漏らし、クロガネの頭を撫でる。自分にはクロガネを護る義務がある。それが自分勝手に、自分に課した義務だったとしても、クロガネを危険な目に合わせる訳にはいかないのだ。
「ああ、約束だ」
しかし、これだけの悪寒を老人は感じなかったのだろうか……。たぶん、感じなかったのだろう。これを自分達が感じられるのは、自分にもアランにも特別な力があるからに他ならない。
アランには珍しく、無言の時が続いた。基本的にアランから話し掛けなければ、クロガネが口を開くことはない。そんな普段とは異なる静寂が余計に不安を煽っていく。
木々の間を遠吠えのような音を鳴らしながら風が通り抜け、木々をたちはまるで生きているかのようにその身を揺らす。
ざわざわという木々の揺れる音に紛れて、木々の影から何かが襲い掛かって来るような気がして、周囲に目を向けていなければ落ち着かない。
そうこうしている内に、不意にアランから声が掛けられて、驚いて背筋が伸ばして立ち止まる。
「止まれ」
回りに意識を向け過ぎて、正面に気づいていなかった。危うくアランの伸ばした腕にぶつかりそうになるが、寸でのところで立ち止まる。
「この先に何かいる……」
クロガネには、未だにこの辺りにいるというような、ぼんやりとした感覚しかわからないが、アランにはどうやら視えているらしい。
そこからは一歩ずつ慎重に前に進んでいく。正面はアランに任せて、クロガネは周囲を見渡す。
再びアランが立ち止まったので、今度はアランの背中に顔をぶつけてしまった。いつものアランならここで、腹が立つほどからかってくるのだろうが、今日はそんな様子をおくびにも出さなかった。
「何だ……、あれは……?」
そんなアランの背中越しに、クロガネも目を凝らして木々の隙間を覗き見る。そこにいたのは、老人が言っていたのと、ほとんど変わらない存在だった。
その身体は原型を留めているのか疑わしいほど黒く揺らめいており、その眼はこちらを捉えながら、間違いなく笑っている。唯一異なるのはすすり泣く声は聞こえてこなかったことくらいだろう。
それを人間と呼ぶには、あまりにも存在がぼやけすぎている。かといって、こちらをはっきりと視界に捉えており、それを何かの陰ということはできそうもない。
言ってしまえば、幽霊というのが一番しっくりきてしまう。
クロガネの身体が、悪寒と恐怖で固まってしまう。目の前のそれが襲い掛かってくれば、なんの抵抗もなく殺られてしまうだろう。
そんなクロガネと幽霊の間に割って入るように、アランが一歩前に出る。クロガネの視界が、アランの背中で埋め尽くされる。
そのお陰でクロガネの恐怖と緊張が少しだけ解れ、身体が少しだけ自由を取り戻す。それでも、各部の震えは未だに止まる気配がない。
「お前はここに残るか?俺一人で行っても構わないが」
アランがクロガネの様子がおかしいことを感じとり、気を遣って自分だけが行くことを提案するが、ここに一人残される方がクロガネには無理な相談だった。
「大丈夫……。僕も戦える」
アランの背後でクロガネが戦いの構えをとる。戦うことなんて、この大陸ではほとんどない。この特別な力も、ただの宝の持ち腐れだと思っていた。まさか、本当に使う時が来ようとは……。
「じゃあ、俺の後ろについてこい。遅れんじゃねえぞ。何かあれば俺が必ず護ってやるから」
先程あんな悪戯をされたにも関わらず、今のアランにそう言われると、何故だかとても信頼できる気がする。目の前の背中に、全てを任せられそうな気がする。
「わかった」
クロガネがそう返事を返すと、それを合図にアランが動き出す。それに遅れを取らないように、震える身体を叩き起こして、必死にアランの背中をしがみつくように追う。
アランの接近を感じたのだろうか、揺らめく黒い存在は、腕と思われる部位をこちらに向けて伸ばしてくる。
その腕からまるでその身を切り離すように、炎の球を吐き出した。それを見たクロガネは思わず声をあげる。
「アラン!!」
しかし、アランはまるで自分からその炎球に向かって行くかのように足を止める様子はない。
「わかってるっつーの!!」
そう叫びながら、アランはその炎球に殴りかかった。炎球はアランの拳とぶつかった瞬間弾け飛び、跡形もなくなってしまった。
振り切ったアランの拳には、青い光を放つ稲妻がバチバチと音を発てながら纏わりついていた。
「これくらい、楽勝だぜ」
そう吐き捨てるように言うと、アランは再び黒い存在に向けて走り出す。黒い存在も負けじと、吐き出すように炎の球を次々と放ってくる。
アランの雷を纏ったジャブが繰り出され、炎球は次々と消え失せていく。その内の一つが、アランの横を通り抜けクロガネへと向かってきた。
「しまった……」
アランが気づいたときには、アランの届く範囲を越え、クロガネへと襲いかかろうとしていた。だが、クロガネはその炎球に向けて、真っ直ぐに掌を突き出した。
突き出した掌にはアランと同じように雷が纏っており、炎の球は跡形もなく消え失せた。
「僕にだって、力があるんだ。これくらいで、やられるもんか」
そんなクロガネの姿に少し驚きながらも、アランは強気な笑みをクロガネに向ける。そんなアランの笑みにクロガネが頷き返すと、アランは次の行動に出る。
木々が邪魔で、一気に距離を詰め寄ることが困難だと理解したアランは、掌に魔法陣を形成する。そこには雷が集まっていき、やがて槍の形を成した雷の塊が出来上がる。
アランはそれを、黒い存在に向けて勢いよく投げつけた。
「喰らえええええ!!」
雷の槍は木々を薙ぎ倒しながら突き進み、やがて黒い存在を捉えたと同時に、周囲に稲光を放ちながら黒い存在共々弾けとんだ。
あまりに手応えの無かったことに、アランは疑念を抱きながら、慎重に近づいていく。だがその疑念は杞憂だったようで、そこには何も残されてはいなかった。
その痕跡から、アランは先程の黒い存在にある程度の察しをつける。
「さっきの幽霊自体が、魔法だったんだろうな。恐らく造形魔法の一種だろうが、その場に留めておいたり、魔法が魔法を使ったりと、少々納得のいかないとこはあるな」
アランは自前の顎髭を擦りながら、俊巡するような様子を見せると、ボソッと言葉を漏らす。
「この魔法の使用者は、よっぽどの魔力の持ち主だな。だが、何の目的でこんなことを……」
そして、ふとその視線を少し先に向けると、そこには信じられないものが雪に埋もれていた。
アランの視線の先には、そこだけ木々が抜け落ちたようにできた吹き抜けがあり、そこに埋もれていたのは、間違いなく人だった。しかも、その周辺の雪は所々赤く染まっており、その人間が怪我をしてボロボロであることが一目でわかる。
「まさか、あの魔法は、あの人間を護るために……」
アランがそんなことを口にしていると、アランの横をクロガネが走り抜け、急いでその人間の元に向かう。
「そんなことはどうでもいいよ。早くあの子を助けないと」
どうやらクロガネには大体の年齢までわかっているようだ。アランもクロガネに続いて、その少年の元に駆け寄る。
「なに、この傷……」
クロガネがとても信じられないといったような声音で声を漏らしたので、アランも気になって覗き込む。
そこにあったのは真っ赤に染まった身体と、身体中の至るところに残された傷痕。そして、胸の辺りに大きく残された、刃で切り裂かれたような斬傷。生きているのが信じられないほどに、ボロボロな身体だった。
「いくらなんでもヤベエだろ、これ……。ってか、何でこれで生きてられんだよ……」
あまりの痛々しい姿に、アランは歯噛みをしながら、その少年の傷跡をジッと眺めていた。
先程の魔法といい、老人にアイギスの花の情報を与えた謎の男といい、そして目の前の傷だらけの少年といい、あまりにも不可解なことが起こりすぎている。何もなければいいのだが……、と頭の中で反芻していると、クロガネが少年の顔を覗き込みながら口を開く。
「たぶんこの子、僕たちと同族だよ。でなけりゃ、この傷で生きているのはおかしい。そうだとしても、このままこの雪の中に放っておけば、いくら何でも、凍死でいずれ死んじゃうよ」
アランもそれくらいの予想はついていた。だが、先程の魔法は別の人間が残していったものだろう。これだけボロボロになりながら、自分を護るためにわざわざあれだけの魔法を残すとは考えにくい。
「クロガネ、そいつのこと頼んでもいいか……?」
アランが気まずそうにクロガネに尋ねる。本当はこのまま二人でこの少年を家に連れて看病をしてやりたい。だが、ここで仕事を放棄する訳にもいかない。アランはそんな戸惑いに苛まれながら、クロガネに尋ねたのだ。
その後クロガネが少しの間逡巡すると、何かを決めたように頷きながら、苦笑を漏らして口を開く。
「でも、生活費も大事だもんね……。仕方ないから、僕が一人でこの子を家まで連れて帰るよ。アランはちゃんと依頼をこなしてから家に戻ってきて。もしかするとさらに生活費も掛かるかもしれないんだから、ちゃんともらって来てくれなかったら許さないからね」
そう言いながら、クロガネはボロボロの少年に視線を落とす。確かに、当分はこの少年の面倒を見なければならないかもしれない。そうすれば、必然的にお金も必要となる。
本当に自分よりしっかりしているな、と年下の同居人を感心しながら眺めていると、ボロボロの少年を担いだクロガネが、キョトンとした顔でこちらを覗き込んでくる。
「どうしたのさ?こっちの心配はしなくてもいいから、さっさと依頼をこなしてきてよ」
いつの間にか視界を遮っていた雪は収まっており、先程よりは見晴らしがよくなっていた。この分なら、クロガネを心配する必要も、アイギスの花を探すのに苦労することもないだろう。
「わかったよ。ほら、さっさと帰ってそいつの面倒を見てやれ」
手を払いながら雑に指示するアランに、クロガネはムスッとしながら踵を返し、森の出口へと向けて歩き出す。
「こっちこそわかってるよ。迷子になって帰って来れなくなっても知るもんか」
そんな言葉を残すとすぐに木々の間に隠れて、姿が見えなくなる。見晴らしがよくなったと言っても、森の中では高が知れている。
クロガネの姿が見えなくなったのを確認したアランは、さらにその先へと視線を巡らせる。恐らくこれで脅威は去ったが、せっかく雪が収まってくれているのだ。早いうちに依頼を終わらせるのが得策だろう。それに、クロガネ一人に、あれだけの大けがを負った人間を任せる訳にはいかない。
「気合入れて、さっさと依頼を終わらせてやるか」
アランは足場の悪い雪の中を、走りながら進んでいった。