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The Story of Ark -王無き世界の王の物語-  作者: わにたろう
第九章 兵どもの鎮魂歌
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海辺に舞った胡蝶の夢

 どれだけの時間が経ったのだろうか。あまりにも非現実的な戦いにアリーナは時間という感覚を失っていた。ただ目の前で躍動する、大切な者の美しい姿に見蕩れ、けれど花弁が一枚ずつ散っていくかのような哀しみに心を締め付けられながら、その姿を見届けていた。

 空を見上げると、それほど時間が経っていなかったことがわかる。太陽はまだ、グランパニア城の背後に隠れており、しかしその光がまるでグランパニアの勝利を祝福するかのように、その城を模りながら照らしていた。

 醒者同士の戦いが終わり、静寂に包まれた頃、地面に伏していたのはロイズだった。白銀の輝きは完全に消え失せ、ボロボロになった鎧だけを残して、ロイズはこの世を去った。

 確かに戦うロイズの姿は凄まじかった。人間は愚か、これまで見てきた『資質持ち』の誰よりも強く感じた。けれど、それだけの力を持っていてなお、キラは圧倒的な力でロイズをねじ伏せた。

 それを見たときにアリーナは理解した。最初から勝ち目などなかったのだと。この戦いの勝敗は、始めるよりも前から決まっていたのだと。ヨイヤミの言っていたことが全て正しかったのだと。

 だがそれでも、醒者同士の凄まじい魔力のぶつかり合いのお陰で、グランパニアの兵も一歩も動くことができず、ルブルニアの兵たちは無事にグランパニアの国を離脱することができた。

 きっとロイズは最初から勝つ気なんてなかったのだろう。だって、地面に横たわるロイズの表情は、死んでいるとは思えない程に満足そうな表情で眠っているのだから。自分の責務は全て果たしたのだと、そう言っているかのように……。

 戦いを終え、黄金の鎧を解いたキラはアリーナに背を向ける。最早この場所に興味が無いと言わんばかりに……。


「待ちなさいよ……。私もロイズさんと一緒に殺して」


 アリーナは震える声で、大切な人を奪った者に向けて言葉を放つ。自分もロイズと同じように、同じ人間の手で葬ってもらうために。

 もう、全て終わったのだ。彼女と一緒に死ねることがアリーナの本望ならば、ここでキラに殺されることが一番の救いなのだ。

 けれど、彼はそれを否定する。


「お前は危険因子足り得ない。死にたければ、勝手に死ぬがいい」


 たったその一言だけを残すと彼の姿は一瞬でこの場から跡形もなく消える。アリーナの気など考えることもなく、彼はまるで羽虫をあしらう様に、アリーナの願いを一蹴する。

 やはり彼はただ殺すことを目的としている訳ではないのだ。力の無い自分など、殺すにも値しない。ならば自分がここに残った意味は何だ。これでは、あの世で待つ彼らに、何の示しもつかないではないか。

 アリーナが俯き歯噛みしていると、撃鉄を引き、銃を構える音が周囲からいくつも聞こえる。

 そうだ、キラでなくても構わない。もう誰でも構わない。ロイズの元で死ねるのなら、銃で蜂の巣にされても文句は無い。アリーナは力無く手を広げて、悲しげな笑みを浮かべる。


「ロイズさん、私も今からそっちに行きますね」


 そして、銃口は轟音と共に火を噴き、弾丸を吐き出す。これでロイズたちの元に行ける。ここで命を散らした皆の元へ行けるのだ。

 その瞬間、アリーナの頭上を通り過ぎる大きな影。その影の主はアリーナとグランパニアの兵の間に割り込むように舞い降りた。

 彼が舞い降りたのは弾丸の線上だった。にもかかわらず、全ての弾丸はアリーナへと届くことはなく、その影の主の前で空虚な甲高い音を発てながら、レンガ造りの道へと転がり落ちる。

 そこにあったのは、既知の存在。銃弾を、いとも容易く受け止めることができる『資質持ち』。けれど、ここに居るはずの無い、離れ離れになったはずの存在。


「遅れてごめん。助けられんくて……、ごめん」


 そう言うと足許に横たわるロイズの屍を抱き上げ、こちらへと歩み寄る。

 「撃て、撃て」とグランパニアの兵士たちが、次々に発砲するが、それが彼に届くことはない。発砲の嵐の中、まるでそこだけが台風の眼のようにとても静かに佇みながら、アリーナの前に立つ。

 憐れむような視線をアリーナに向けると、何も言葉を発することなく、ロイズを抱えていないもう一方の腕で、アリーナを抱き寄せる。

 先程まであれだけ死にたいと思っていたアリーナも、何故かそれに抵抗する気にはなれなかった。ただなされるがまま、彼の手に抱き上げられる。

 そしてアリーナを抱き上げた彼は、その背中から炎で形作られた巨大な翼を生やす。それを羽ばたかせると、人間を二人も抱えているにも関わらず、軽々と空に飛び上がった。

 「逃がすな、撃て」と、グランパニアの軍勢はそれでもなお銃撃を止めようとはしないが、やがてその銃弾すらも届かなくなり、喚いていたグランパニア軍の声も徐々に遠ざかり聞こえなくなる。

 空の上で静寂に包まれると、これまで抑えていた思いが濁流のように心の中に流れ込み、自然と涙が溢れだし止まらなくなる。何かを言わなければ、そのまま心がはち切れてしまいそうになり、アリーナはその心の内を吐露する。


「ごめんね、ごめんね……。全部君が正しかったんだ。それなのに、私たちは君を追い出すような真似をして、それでこんなことになって……。君に何て言って謝っても許されないんだろうけど、本当にごめんね……、ヨイヤミ君」


 アリーナはヨイヤミの胸の中で、もうその瞼を開けることのないロイズの姿を視界に収め、止めどなく涙を流した。

 ヨイヤミはアリーナの言葉に何も答えることなく、太陽が昇り始めた空をただ悠然と羽ばたいていく。ロイズを抱えるヨイヤミの右腕は、無意識の内に力が入り震えていた。

 結局自分は逃げたのだ。もう同じ過ちを繰り替えさないためにこの国を創ったはずだったのに、結局誰も救うことができなかった。

 やはり、無理矢理にでも止めるべきだったのだ。こうなることはわかり切っていたのだから。けれど、過ぎた時間を取り戻すことはできない。失った大切な者は、もう帰ってこないのだ。

 後ろを振り返ってはいけない。ただ前を見つめていよう。それが、彼らに返せる唯一の恩返しだと思うから。

 昇りかけの浅い太陽が、翼をはためかせるその姿を明るく照らしていた。






 戦いを終えてなお、辺り一面から煙が上がり、まだ戦いの傷跡をはっきりと残すグランパニアを、少し離れた丘の先から眺める二つの影があった。


「あら、久しぶりね。あんたもこっちに来ていたのね」


 一人は朝の冷たい風に赤髪をなびかせる少女。若草色の瞳ははっきりと、煙を上げながらも悠然と立ち尽くすグランパニアを収めている。


「向こうは計画通り進んだの?ってか、こんなに早くこっちに来て大丈夫なの?ちゃんとその眼に収めたの?」


 次々と質問を投げかける赤髪の少女を多少毛嫌いしながら、もう一人の少女は答える。


「大丈夫、全て問題なく進んだわ」


 赤髪の少女に比べて、こちらは口数も少なく、とても大人しい印象を受ける。ローブに身を包んでいるにも関わらず、風でなびいたローブが身体に張り付き、その身体の線の細さを伝えてくる。

 その少女はただ一点、グランパニア城だけをジッと何かを探すように眺めている。


「それで、何でわざわざあんたがこっちにいるの?別に、こっちはあんたに関係ないでしょ。それとも、私がちゃんとできているか心配で来ちゃったとか?」


 赤髪の少女は少し含みのある笑みを浮かべながらもう一人の少女に尋ねる。そんな赤髪の少女の多少挑発的な問い掛けに喰って掛かることもなく、もう一人に少女は静かで平坦な、落ち着き払った口調で答える。


「別に、あなたのことは興味ない。ただ、少しだけ気になることがあったから……」


 それ以上何も言うことはなく、またグランパニア城へとその意識を集中させる。それも、二階の大広間がある辺りに……。


「ふうん……、まあ別に構わないけど。それにしても、最高の結果っていう訳にはいかなかったわね。キラが倒れてくれた方が、私的にはやり易かったんだけど……。だってあの子、キラより余程扱い易そうだったし」


 赤髪の少女はつまらなさそうに口を尖らせながら、そんなことを言う。けれど、もう一人の少女はそんな言葉にも無関心なようだった。そんな少女の態度に、赤髪の少女はバツの悪そうな表情を浮かべながら再び尋ねる。


「それで、あんたはこれからどうするつもりなの?」


 少女は一切振り返ることなく、背後にいる赤髪の少女に答える。


「これで当分は眼に収める必要も無いと思うから、私はあの計画の為に少しずつ動き出すつもりよ。そのために、レジスタンスの方をけしかけたんだもん……。お陰で予定通り事は進んだわ。あの方にも感謝しないと……」


 そんな少女の言葉に、意外と心配そうな口調で赤髪の少女は問い掛ける。


「本当に大丈夫なの?あんな勢力の大きいところに入り込んで」


 その問い掛けにもう一人の少女は、溜め息を吐きながら答える。


「それをあなたが言うの?ずっとグランパニアに寄生していた、あなたが……」


 そう言われて、赤髪の少女は頭を掻きながら照れ臭そうに答える。


「まあ、そうなんだけどさ……。でもこれからは別のところに苗床を見つけたから、当分はそこで暮らしていこうと思う。私もいつもまでも根無し草って訳にもいかないと思うし」


 そう言うと赤髪の少女は踵を返し、この場を離れようと歩き出す。


「じゃあね、またなんかあったらよろしく。とりあえず、私たちは仲間なんだし」


「そうね……。私があなたに何かを頼むことはないと思うけど……」


 そんなぶっきらぼうな返答をする少女に、赤髪の少女はお互いの姿を見ていないのにも関わらず、頭の上で軽く手を振りながら別れを告げる。


「そんな冷たいこと言わないでよ。たった四人しかいない仲間なんだから、仲良く助けあいましょう。じゃあね」


 そう言って赤髪の少女はその場を立ち去る。

 ただ一人残された少女に向けて、朝の冷たさが残った少し強い風が吹き付ける。少女のフードは連れ去られ、少女の顔が露わになり、その長く伸びた銀髪が激しく風になびいていく。

 そして相も変わらずグランパニア城をジッと眺めながら、小さな声である者の名を呟く。


「アカツキ……」


 その声は風に攫われて誰の元にも届けられることなく、朝焼けの空を彷徨い続けるのだった。






「おにいちゃん……、これ……」


 戦争から数日後、レガリア領のとある国にて……。

 レアがヨイヤミに大きく開かれた一枚の羊皮紙を渡す。それは、ガーランド帝国が発行している瓦版だった。

 そこにはグランパニアとルブルニアの戦争、そして、その裏で行われていた、グランパニアとレジスタンスの戦争についてのことが、大きく取り上げられていた。

 資質持ちである『アカツキ・リヴェル』『ガリアス・エルグランデ』『ロイズ・レーヴァテイン』の三人の死はこの瓦版にしっかりと刻まれ、彼らを討ち滅ぼしたキラは、まるで英雄のように祭り上げられていた。

 ちなみに、グランパニア軍のレジスタンス討伐作戦は失敗に終わったようだった。両軍大きな傷跡を残したものの、リーダーである『ウルガ・ヴェルウルフ』やその幹部たちの何人かは取り逃がしたのだ。

 だが、レジスタンスの負った傷も相当なもので、当分これまでのような派手な動きはないだろう、というように伝えられていた。

 しかし、グランパニアもまた無傷ではなく、第二部隊隊長『アルベルト・フォンブラウン』が、この戦争で命を落としていた。

 また、ルブルニアとの戦争で、一命はとりとめたものの第四部隊隊長『ダグラス・ヴァルドフォルス』の王の資質も失われたので、隊長の席は実質二つの空席が生まれることとなった。

 結局グランパニア軍は、二つの大戦で総勢一万近い兵を失ったため、その瓦版には新たな兵士を募集する広告なども載せられていた。


「あと、これも……」


 そう言ってレアはもう一枚の羊皮紙を広げる。それはどこかで見た、この大陸の世界地図。しかしそれは、過去に見たものとは似ても似つかない別物となっていた。何故なら、そこにあったとある国の名前は跡形もなく消えてしまっていたから……。

 後日、グランパニアがルブルニアに軍を派遣したところ、そこにあったのはもぬけの殻となった家々だった。そこには人影は一つもなく、まるで神隠しにでもあったかのように、全ての国民がそこから姿を消していた。

 それに伴い、王の死と国民の消滅という理由から、これから先に発行される世界地図には、ルブルニアという文字が刻まれることは永遠に無かった。

 全ての記事に目を通したヨイヤミは、隣に座っていたアリーナに視線を向けると、少し言い辛そうに尋ねる。


「アリーナは、見んでもええんか?」


 アリーナは口を開けることなく、ただ静かに首を左右に振った。




 こうして、ガーランド大陸を揺るがす二つの大きな戦争は終わりを告げ、四大大国というものがどれだけ強大な存在であるかを改めて示す形となった。

 そして、この後数年間は、四大大国に抗う者など現れない、静寂の時代が訪れることになる。

 だが、いつか起こる更なる大戦の影は、この時から少しずつ動き始めていた……。







 アカツキは不意に目を覚ました。どうやら、波の音が優しく包み込んでくれるような浜辺に横たわっていたようだ。瞬く満月の月明かりに照らされて、波打ち際で飛び交う飛沫がキラキラとまるで宝石のように輝いていた。満月はまるで鏡のように、穏やかな水平線にくっきりと、その姿を映し出していた。

 ふと、隣に誰かの存在を感じて、アカツキは勢いよく振り向く。そこには、もう会えないはずの少女が、浜風に髪を揺らしながら静かに佇んでいた。


「アリス」


 余りの驚きに、つい声を張り上げて隣に佇む少女の名を呼んでしまった。


「どうしたの、アカツキ君?ずいぶんうなされていたみたいだけど、大丈夫?」


 うなされていた、ということはどうやら自分は眠っていたらしい。あまりにも鮮明な夢だったため、夢と現実の区別がついていなかったようだ。

 それにしても、どこからが夢だったのだろうか?まあ、そんなことはどうでもいい。失ったはずの大切な人が隣にいてくれているのなら、そんなことは些細なことだった。


「怖い夢を見てたんだ」


 波の音が優しく耳を撫で、まるで母親に頭を撫でられるかのように、心が落ち着いていく。視線を月明かりで輝く波打ち際へと落としながら、アカツキは言葉を吐露する。


「怖い夢って、どんな夢だったの?」


 アリスはアカツキの方に振り向きながら、小さく首を傾げて尋ねる。


「アリスや皆がいなくなっちゃう夢。誰も護れずに、皆が消えていっちゃう夢」


 言葉を吐露することで、まるで不安な気持ちが全て吐き出され、波に拐われて穏やかな海に溶けていくように感じる。先程まで心を覆っていた黒い靄が、ゆっくりと晴れていくようだった。


「そっか……、それは怖かったね」


 ゆっくりとアカツキの手に、アリスの手が添えられる。その手に温もりは無く、何処か違和感を覚えたが、今は隣にアリスがいてくれるだけで、それ以外はどうでもいい気がしていた。


「アリスが生きていてくれてよかったよ……」


 少しだけ涙ぐみながらアリスの方を向くと、アリスは何も言うことはなく、ただアカツキに向けて優しく微笑んだ。その微笑みはあまりにも儚く、目を離したら今にも消えてしまいそうな気がして、アカツキはジッとアリスの瞳を見つめ続けた。

 アカツキの様子に少し疑問を覚えたのか、小さく首を傾げながらもう一度微笑む。そんなアリスの表情を見つめながら、アカツキの手に添えられたアリスの掌をギュッと握りしめる。離したら消えてしまうかのように……。

 やがてアリスは海の上に浮かぶ、輝く満月へと視線を移す。それに続くように、アカツキもまた月を眺める。

 とても綺麗な月だった。一片も欠けることのない綺麗な満月は、太陽の光を受けて煌々と輝きその存在を誇示していた。そんな美しい輝きに吸い込まれるように、アカツキの瞳は満月に釘付けになる。

 しかしその満月と、満月を映し出す水平線はあまりにも綺麗で、まるで人の手で描かれた絵画のように、何の雑音(ノイズ)もなくアカツキの網膜に焼き付けられ、それが逆に現実離れしている気がしてならなかった。

 鼓膜を震わせる穏やかな波の音のように、時間がゆっくりと流れていく。その間ずっと二人はお互いの手を握りしめながら、二人を照らし出す満月を眺めていた。それだけで心にぽっかりと空いた穴は満たされていく気がした。

 しかし、その中に小さな穴のある風船のように、少しずつ流れ出ていってしまうような煩わしさを覚えるが、アカツキは気が付かない振りをして、自らの心を偽り続ける。

 やがて、アリスが不意に立ち上がる。どうしたのだろうと、アカツキが無言でアリスの姿を目で追うと、アリスが一度逡巡するように唇を小さく噛んだ後、その口を開いた。


「そろそろ、行かなくちゃ……」


 アリスが何を言っているのかわからなかった。いや、わかっていてなお、自分の心にわからない振りをし続けた。


「行くって、どこへ?一緒にルブルニアに帰るんじゃ……」


 アカツキの言葉を最後まで聞くことなく、アリスはアカツキの言葉を遮るように言葉を紡ぐ。


「もうすぐ、この夢は覚めるの……。そしたら、アカツキ君と私は、別々の道を歩いていかなくちゃならない……」


 アリスはとても言い難そうに、辛そうな表情を浮かべながら、震える唇を必死に動かす。


「夢って、どういうことだよ?だって、アリスはちゃんとここに……」


 アカツキがそう言いながら、アリスの手を掴もうと腕を伸ばした。だが、アカツキの手は何も握ることはできずに空を切る。確かに、アリスの腕を掴んだはずだった。空振った訳ではなく、確実にその肌を捉えたはずだった。なのに、その手を掴むことは叶わなかった。


「私たちは離れ離れになるかもしれない。でも、必ずもう一度会えるから……。だって、私とアカツキ君は切れない糸で結ばれた、かけがえのない恋人だもの」


 アリスの身体が波打ち際で輝く飛沫のように、輝きを帯びながらゆっくり宙へと浮かび上がる。


「嫌だ、嫌だよ……。もうあんな思いをするのは沢山だ。ずっと隣にいてくれよ。ずっと、手を握っていてくれよ。なあ、アリス……」


 アカツキの声が震える。先程までのアリスの手の感覚を思い出そうとするが、温もりの無い感触を思い出すことがどうしてもできずに、自らの掌を強く握りしめることしか叶わない。双眸から抑えきれなくなった思いが涙となって溢れ出る。


「だから忘れないで、アカツキ君……。いつか、もう一度会えるその時まで……」


 アリスの身体はまるで月に吸い込まれていくかのように、徐々に浮かび上がっていく。既に、アカツキが手を伸ばしても届かない程に……。そして、アリスの身体は足元から少しずつ消えていく。光の粒を撒き散らしながら。


「待ってくれよ……。いかないでくれよ……。俺の傍に、ずっといてくれよ……」


 そう叫びながら激しく首を横に振ると、瞼に溜まった涙が弾けて飛び散る。それが月明かりに反射して、キラキラと輝きを帯びる。

 アリスを追いかけて、いつの間にかアカツキは海の中へと足を突っ込んでおり、まるで足枷のように足に重みが増していく。


「嫌だ……。置いて行かないでくれよ。俺を独りにしないでくれよ、アリス……」


 その言葉に先程までの覇気は無く、最早奇跡にすがりつくかのように、か細い声で彼女の名を呼ぶ。

 アリスの身体は胸まで消えていき、残るはその顔のみとなる。アカツキは手を伸ばし、必死で彼女を手繰り寄せようとするが、その手は届く気配すら見せることなく空を掴む。

 そして彼女は、いつか見た、アカツキと初めて笑顔を交わしたときと同じような、とても綺麗で晴れやかな笑みを浮かべた。そして、涙混じりの震える声で、けれど精一杯に明るく振る舞いながら別れの言葉を告げる。


「またね……、アカツキ君……」


 その言葉と共に、アリスの姿は跡形もなく消え去る。アカツキの唇が小刻みに震えるが、そこから言葉が紡がれることはない。


「あっ……、うっ……、あっ……」


 そこから漏れるのは、言葉にすらなることのできなかった、悲しき音だけ。

どうして二度もこんな思いをしなければならないのだ。こんな仕打ちあんまりじゃないか……。

 こんなことなら素直に死んでいた方がマシだった。こんなことなら、もう一度アリスに会わない方が良かった。本当に神という存在がいるのだとしたら、そいつはどれだけ残酷な存在なのだろうか……。

 アカツキは俯き穏やかに揺れる水面に移る自分を見下ろす。拳を強く握りしめ、身体中が小刻みに震え、水面に移る自らの顔が激しく歪んでいく。

 そしてアカツキは、アカツキを嘲笑うかのように一片も欠けることなく佇む満月に向かって、全てを吐き出すように叫んだ。


「くそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 その瞬間、世界に大きく罅が入り、穏やかな世界は砕け散っていった。

 世界の崩壊と共に、アカツキは闇の中へと落ちていく。




 そしてアカツキは目覚める。そこは、色の無い空白の世界。身も心も凍りついたように、冷たい世界。


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