愚者の可能性
ガリアスの姿が消えた部屋には静寂が立ち込めていた。お互いに攻撃の構えを取る訳でもなく、ただジっと立ち尽くしたまま、お互いの姿を視界に捕らえ続ける。一瞬でも眼を離せば、終わってしまうかのように……。
アカツキはそんな平静とした空間にいながら、自らの心臓が刻む律動をはっきりと自らの脳で捕らえていた。緊張でボリュームを増した心音は、この静寂の空間にあって、唯一アカツキの耳にこびりついていた。
そんな永遠にも感じられる静寂の時を打ち破ったのは、言うまでもなくアスランだった。
「やっと二人きりになれたな……」
彼が口にしたのは、こんな緊迫した空間には似つかわしくない、まるで恋人にでも掛けるような言葉だった。まるで、この時を待っていたかのような……。
「俺がお前と二人きりになって、良いことなんて何もないと思うけど……」
アカツキは少し不信がりながら表情を歪める。それでも、緊張の糸を解くことはなく、相変わらずアカツキはアスランを睨み付けたままでいる。
「そう邪険になるな。少しだけ話をしようじゃないか」
そんなアカツキとは裏腹に、アスランはまるで気が知れた友と話すように、隙だらけで気を許しているような態度を取っている。これから殺し合う相手とは、到底思うことができない。
「お前の祖父とは一度会ったことがある。俺の師匠の師匠にあたる人だった」
祖父に弟子がいたというのは初めて聞いたことで、そんな自分の知らない祖父の姿に、目の前にいるのが敵とわかりながらも興味をそそられてしまう。
キラはアカツキの反応を見て察したのか、アスランはもう少し時を遡って説明を加える。
「お前の祖父は昔、四人の弟子を育てていた。その内の一人が、俺の師匠だ。そして、その四人の内の三人は今の四天王の座に就いている。もちろんこの上にいるキラもその内の一人だ」
アカツキは驚愕の事実に困惑する。シリウスには弟子がいて、その内の一人がキラであるという事実に……。
「じゃあなんだ……、キラは自分の師匠に手を掛けたって言うのか……?」
アカツキはあまりの衝撃に、頭に思い浮かべたことがそのまま口をついて出てしまう。
「まあ、そう言うことになるな……。だが、そんなことはこの世界では往々にしてあることだ。別に珍しいことでもない」
そう簡単に言われてしまうと、アカツキも返す言葉がない。アカツキがそれ以上尋ねないだろうと察したアスランは、そのまま話を続ける。
「そして、唯一四天王の座に就かなかった俺の師匠は、山奥に一人で静かに暮らしている。俺の師匠が四天王に就かなかったのは、決して弱かったからではない。むしろ、俺の師匠はその四人の中で一番強かったらしい。だが、一番強かったからこそ、力の怖さを知っていた。そして、師匠は自らの力を恐れ、戦いの一線から身を退いたのだ」
アカツキは、キラとシリウスの関係に対する驚きで、言葉を失ってしまっていた。そんな中、アスランの一人語りは続く。
「そして、師匠の元で修行を積み重ねていたある日、俺たちの元へ一人の老人が訪ねてきた。そこにあったのは、一時の伝説にもなり、『疾風』とも恐れられた資質持ちの姿だった」
シリウスがそんなに有名人だったとは知らなかった。自分が物心ついたときから、祖父の戦っている姿など一度も見たことがなく、ましてや魔法などという存在を教えてもらうことなどなかったのだから……。
「確かに彼の魔力は凄まじかった。老いてなお、衰えを感じさせないほどの魔力を見せてくれた。いや、衰えてなお、あれだけの魔力を発揮できたのだろうな……」
帝国騎士団長にそう言わせるシリウスの実力は、相当なものなのだろう。アカツキの知らない祖父の姿に、いつの間にかアカツキは臨戦態勢を解いていた。
「お前の祖父が死んだのは知っている。この戦乱において、死はどんな人間にも突然に訪れる。それは、いくら伝説と呼ばれた男でも変わらない。だが、お前の祖父の技は、確かに俺の中に生き続けている。お前の祖父には感謝しているよ」
伝説の男だとか、そんなことはどうでもいい。シリウスのことを、そんな平然と語らないでほしい。アカツキにとって誰よりも大切だった存在の、自分の知り得ない姿など、今更知りたくもない。
「そのときに、お前の祖父は小さな子を連れてきた。俺がまだ今のお前よりも幼かった頃の話だ。お前の記憶には無いのか?」
どういうことだ……?俺とアスランは小さい頃に一度出会っているというのか……。
小さい頃、確かにシリウスに色々な所に連れていってもらったことはある。けれど、それは自分にとっては只の日常で、記憶に刻み込まれるほど鮮烈なものではなかった。
「まあ、覚えてはいないだろうな。俺にも昔は妹がいたから、年下は久しぶりで、楽しく遊んだりもしたんだが……」
そこまで言われておぼろげに記憶が蘇ってくる。大量のガラクタの山を掻き分けて、小さな探し物を見つけるように、記憶の奥の奥まで必死に遡る。
「いや、覚えている……。確かにそんなことがあった……。じいちゃんに連れていかれた先で、年上のお兄さんと一緒に遊んでもらったことが……。そうだ、俺はそのときに、初めて資質の力をこの眼で見ている……」
まだ靄が掛かっているが、それでも記憶の断片が少しずつ輪郭を露にする。
そうだ、あの時は確か、落葉を一気に空に浮かせて、落葉の雨を降らせてくれたり、落ちていた大きな石を浮かせてみたりと、色々なものを見せてくれた。
男の顔はほとんど覚えていないけれど、その光景は幼かったアカツキには衝撃的で、はっきりと記憶の奥底に息づいていた。
そのときは、只の手品くらいにしか思っていなかったが、今考えれば、あれは資質の力だ。アカツキは確かに、アスランと出会っているのだ。
「ほお……。覚えていてくれたのか。嬉しいな……。それにしても、大きくなったものだ。あの時の、あの少年が、今や大国の転覆を企む、一国の王か……」
アスランは懐かしげに、優しい眼差しでアカツキを眺める。こんな表情をされてしまっては、緊張もなにもあったものではない。
「それを言うなら、あなたも昔の面影なんて全くないじゃないですか。それに、一国の王どころか、帝国の騎士団長になっている。俺とは、比べ物にならない」
自然とアカツキの言葉が和らいだものになり、少しだけアスランへの敬いが見え隠れする。
だが、そこでアスランの表情が一変する。その変化にさすがのアカツキも違和感を覚え、一瞬の内に身体中に緊張が駆け巡る。
「あぁ……。そんな堅い立場についてしまったがために、俺はこれから義務を果たさなければならない。基本的には、国家間の争いに俺が介入することはない。だが、俺が視察をしている国が襲われて、俺が何の手も出さずに帰るという訳にはいかない。この戦いに興味がないと言ったのは紛れもない事実だ。けれど、俺にも立場がある」
「それに……」と少し俯きがちに、表情を多少曇らせながらアスランは言葉を紡ぎ続ける。
「俺がお前を逃がしたところで、キラがお前を殺すだろう。それならば、お前の祖父へのせめてもの手向けに、俺がこの手でお前を葬ってやる」
場の空気が一変する。ゾワっとした悪寒が背筋を走り、身体中を震わせる。これが、一人の資質持ちが放つ魔力なのか疑わしいほどに、巨大な魔力がアカツキを包み込む。
そんな魔力に恐怖を覚えつつも、どうしても言い返したくて堪らないことが、口をついて出る。
「どうして俺たちが負けるって決めつけている。あんたたちはどうして、やってもいないことを決めつけて、可能性を摘み取ろうとする」
それだけがどうしても許せない。ダグラスもアスランも全てをわかったように決めつけて、最初から可能性がないかのように断言する。
「可能性か……。それは、ちゃんとした見通しを持った者が使う言葉だ。お前たちは、なんの見通しも建てずに、ただ悪戯に戦いを挑んでいるだけだ。蟻が像に歯向かって勝てる可能性があると思うか?お前たちがやろうとしていることはそういうことだ」
その例えはあまりにも酷すぎはしないだろうか。アカツキたちもそれなりには努力をしてきたつもりだ。
確かに同等の力があるとは思えない。それでも、曲がりなりにもこの国の傘下の幹部を倒したのだ。可能性が全くないと言うほどではないはずだ。
「可能性などという言葉をあまり軽々しく使うな。それは、それ相応の力を持って、はっきりとした見通しを建てた者だけに許される権利だ。やってみたらできるかもしれないなどと、甘い考えしかもっていない者に、その言葉を使う権利はない」
それでもなお、アスランの侮蔑の言葉は続いていく。甘い考えなど持った覚えはない。これまでに必死に考え抜いて、仲間とぶつかって仲間を失いもした。それなのに、それを甘い考えと切り捨てるのか……。ふざけるな、あんたが俺たちの何を知っている。
「お前たちが間違えたのは選択肢だ。今のお前たちの力で、この国に攻め込むのは不可能だ。それならば尻尾を撒いてでも逃げなければならなかった。逃げることもまた、王としては大切な決断だ。引き際を知らない者など、只の愚者だ。そんなもの最早蛮勇ですらない」
言葉とは凶器だ。まだ戦いを初めてもいないにも関わらず、心の奥底が軋み、悲鳴をあげている。彼が目の前に提示した選択肢が、絶ち切った友人の選択肢と全く同じものだったから……。
アカツキは動揺を隠せない。他人の客観的な意見を与えられて、自分の判断に対する自信が少しずつ消えていく。やはりヨイヤミの意見に従っていた方がよかったのではないかと、自らの心が揺らぎ始める。
けれど、ここでそれを考えても意味がない。もう逃げられないところまで来てしまったのだ。ならば、自らの迷いを殺して、目の前の敵に立ち向かうしかないではないか……。
「今は愚者なのかもしれない……。可能性なんて言葉を使う権利もないのかもしれない。でも、それがどうした……。ここで俺たちが勝ったら、俺たちの勇気は愚考でも蛮勇でもなくなる。俺たちは証明してみせる。可能性は誰もが持つことを許された、平等な権利だということを……」
その言葉をアカツキが言い切った瞬間、アカツキの視界が影で包まれる。
先程まで数十メートルは離れた所にいたアスランが、たった一瞬でアカツキの目の前に接近したのだ。腰に掛けられていたレイピアは既に引き抜かれており、一瞬の内にアカツキの目の前を銀の閃光が走り抜けた。
「えっ……」
アカツキの口から、気の抜けた声が漏れだす。何もすることができず、突然の展開に身体は硬直し、ただアスランの姿を眺め見ることしかできなかった。
気が付いた時には、アカツキの目の前を赤く染まった液体が舞い散っていた。それがどこから吹き出したものだったのか、それすらもすぐに理解することができなかった。
一瞬の時が過ぎ、それまでに起きたことが一気にアカツキに襲い掛かるように、胸の辺りが急激に熱を帯び、その後を追ってくるかのように痛みがアカツキに牙を剥いた。
「ああああああああああああああぁぁぁぁぁ……」
アカツキはあまりの痛みに胸を抑えながら膝を付き、しかし動きを止める訳にもいかず、叫びながらも必死に地面を蹴ってアスランから距離を取る。
「お前は魔法を消滅させる力があるらしいな……。だが、そんなものは速さの前には何の意味も持たない。そんなもので、キラに勝てるとでも思っていたのか?」
先程まで懐かしげに思い出話をしていたアスランは、もうどこにもいない。最初に見た優男の笑みもまるで嘘だったかのように、そこにいるのは狂気と殺気に包まれた怪物だった。
アスランの速さにアカツキは何もすることができなかった。アスランの言う通り、アカツキの動体視力を超えるだけの動きをされてしまっては、退魔の刀は何の意味もなさない。アカツキは、量と速度には圧倒的に弱いのだ。
しかし、それはわかっていた。だから、ある程度の速度までは対処ができるように修行もしてきた。だが、そんなものはただの時間の無駄だ、とでも言うかのように、易々とアカツキが眼では追うことのできない速度で襲い掛かってくる。
「これが、お前たちが可能性などという言葉を使うことができないという証明だ。わかっただろ……。今のお前たちがどれだけ頑張ったところで、俺たちに勝てると思うか?力とは、絶対的な権力だ。力を持つ者こそ勝者で、正義で、権力者なのだ。それがこの世界だ。圧倒的な力を前に、可能性など意味を成しはしない」
『そんな世界間違っている』そう声を大にして叫びたかった。でも目の前に現実を突きつけられて、そのあまりにも距離の離れた力に圧倒されて、言葉が出てこない。自分はこんなにも弱いのか……。たった一瞬で心が折れそうになるほど……。
それでもアカツキは退魔の刀を出現させて、その柄を握りしめる。赤く染まる胸を抑えながらも、アカツキは右手に退魔の刀を握りしめながら立ち上がる。その刀の切っ先をアスランに向けて……。
「今の一撃で、心が折れなかったことは認めてやろう。だが、今のお前に何ができる?俺がしてやれるのは、お前の大切な祖父から教わった技で、お前を葬ってやることくらいだ」
アスランもまた、アカツキの切っ先に答えるように、自らのレイピアの切っ先をアカツキに向けた。
砕け散った可能性は宙を舞い、最早その型を留めることは叶わないが、それでも消えることはなく、アカツキの心の中を浮遊するように巡っていた。