踊らされた進軍
警鐘が城内に鳴り響く。その重厚な鐘の音に背中を押されるようにして、赤褐色の重々しい鎧を身に纏ったダグラスが、王宮に備え付けられた長い廊下を悠然と歩いていく。
ダグラスの目の前に、豪奢に飾り付けられた巨大な扉が鎮座するが、彼は何の躊躇いもなくその扉を開け放つ。その先にあるのは縦に長いテーブルの両端に構える二人の男たち。
その内の一人、ダグラスがよく知る側の男がダグラスに視線を向ける。
「外が騒がしいな。こちらは来客をもてなさなければならないというのに……。まあいい……、アルベルトの杞憂が的を射ていたということか?」
その扉の向こう側にいたキラはダグラスの顔を見るなり、向かい側にいる来客を気にすることもなく、面倒くさそうに溜め息を吐く。
キラは主人であるものの、その向かい側に居座るのは、ダグラスが尊敬の念を抱いている帝国騎士団長である。彼は未だにダグラスの方を見向きもしないが、その後ろ姿をダグラスが見間違えることなどあるはずがない。
ダグラスはキラのその無遠慮な態度に多少むず痒さを覚えながらも、今はそれどころではないと言うように、首を振って邪念を断ち切り、キラへの報告を優先する。
「太陽を囲む三日月の国旗を抱えているので、ほぼ間違いなくルブルニアからの侵攻かと思われます。先頭に構えるのはフードを被って素性を隠した四人組です。人数からして、恐らく彼らが資質持ちかと思われます」
ダグラスは跪きながら頭を垂れて、キラへの報告を終わらせる。キラの向かい側に腰を下ろしている者が、椅子の肘置きに肘を付いて自ら頬を支えるような姿勢で、ダグラスには視線を向けないまま尋ねる。
「何故顔を隠す必要がある?囮じゃないのか?」
その声音はまだまだ若さを残す透き通ったもので、その地位に居座るにはあまりにも不釣り合いに見えなくもない。だが、若さなどは強さを測る指標にはなり得ない。この世界は強さが全ての弱肉強食の世界。それを彼ら自身が、自らの身をもって証明している。
「まあ気にするな、アスラン。例えそれが囮だったとしても、奴等の狙いは俺に決まっている。ならば、相手の策に乗ってやるのも、また一興だ」
自分の命が狙われているとはまるで思えないような口振りで、キラは淡々と話を続ける。その表情には何も映ってはいない。恐怖も悲哀も愉悦もない無表情のままで、訪れるときに身を任せているように、無感情な声を発する。
「恐らく、正門から攻め込んできたのは陽動部隊だろう。一般兵はそちらの対応に向かわせろ。お前はここに残れ。お前に勝てないようなら、それは俺の見込み違いだったということだ」
まるで、ダグラスをただの捨て駒とし、相手の力量を測っているかのような口振りだった。いや、事実そうなのだ。キラとは、そういう非情な男だ。弱いものには興味がなく、負けたものには容赦がない。
「ならば、私が倒してしまっても、よろしいのですね?」
ダグラスの瞳に挑戦的な炎が揺らめく。捨て駒にも、捨て駒なりの意地がある。この国の兵となった時に、自分が捨て駒になる覚悟はできていた。しかし、どうせ捨て駒にされるのなら、棋士の思惑を越えるだけの働きをしてやろう。
「ああ、構わない」
このとき初めて、キラの表情に笑みが浮かんだ。誰かが誰かに抗うことこそ、キラの求める世界の構図だ。弱き者は淘汰されるのではなく、抗わなければならない。それこそが、人間である証なのだと。
「では、そのように」
ダグラスはそう告げるとおもむろに立ち上がり、キラとアスランに向けて一礼をする。アスランは結局、一度も振り向いてくれはしなかった。だが、それでいいと思っている。彼と対等な立場になるには、自分は未熟過ぎる。
そして、ダグラスは誰にも目を合わせることなく踵を返し、その部屋を後にする。今のダグラスはもう、前だけを見据えていた。これから襲いかかる未来を、これから訪れる戦いを……。
キラたちの元を去り、来た道を一歩ずつ踏み締めながら歩いていく。いつもと変わらぬはずの王宮の景色が何処か違って見えるような気がして、自らの心がざわついていることに気が付く。自らの心を律しようと、ダグラスは自らの胸を強く叩きつけた。
そして、ダグラスは部下たちの待つ王宮の入口広間へと到着する。
「第四部隊に命ずる。これより第一班を残した全部隊は、正門の迎撃にあたれ。指揮は第二班班長に一任する。第一班は、私と共に王宮の護衛にあたれ。王宮入り口で敵の侵入があるまで待機だ」
王宮の入り口広間で、部隊長であるダグラスの指示を待っていた約五千の兵は、声を揃えて敬礼をする。
「武運を」
その言葉と共に、一斉に書く部隊に別れて動き始める。ダグラスを含む約五百の兵だけが、この王宮に留まった。
そして、ロイズたちの元へ約四千五百の兵が向かったことを意味していた。
「全員遅れるなよ。敵と交戦したらなるべく相手を引き寄せろ。アカツキたちの潜入経路を確保する」
グランパニアのメインストリートは正門から王宮までを一本で繋ぐ架け橋だ。そして、その長さは数キロメートルにもおよぶ。いくら馬での侵攻といっても、王宮に到達するまでには、それなりの時間を要する。
ロイズは着々と前進しながらも、グランパニアの規模の大きさをまざまざと見せつけられている気がしていた。
手綱を握る手に力が込められる。掌は湿り気を帯び、手綱の軋む音がはっきりと耳にこびりつく。
レンガ畳みのメインストリートを、馬の蹄が甲高い音を鳴らしながら突き進んでいく。警鐘を聞き付けた人々がメインストリートから離れようと、ロイズたちの目の前で、次々に悲鳴をあげながら走り去っていく。
攻め込むという久しぶりの感覚に、昔は覚えることのなかった罪悪感が、ロイズの心の中を蝕んでいく。いつの間にか、自分の心はアカツキたちによって綺麗に洗い流されていたようだ……。こんなこと、昔は平気でやっていたはずなのに。
それでも過去の行いが消える訳ではない。後悔したところで、自らがこれまで犯してきた罪は消えない。ならば、今はただ前を向いて、後悔しないように生きるしかない。
「今だけは情を捨てろ。立ちはだかる者は全て薙ぎ払え。我々の進む道は、我々で切り開く」
ロイズが皆に向けて言い放った間際に、逃げ遅れた国民が道の真ん中に横たわっていた。ロイズたちも道を埋め尽くすほどの数で来ているのだ。誰かがその人間を避けようとすれば、後ろがドミノ倒しのように次々と前進を阻まれてしまう。
今だけは、非情にならなければならない。目的を達成することだけを、考えなければならない。
ロイズは逃げ遅れた国民の首を、躊躇なく切り裂いた。唯一ロイズがその者に与えた情は、痛みを感じないように、一瞬で首を落としたことだ。
ロイズの噛み締める歯に力が込められる。止まる訳にはいけない。これが、私たちが選んだ道なのだ。
「進めええええええええ!!」
ロイズは剣の切っ先を王宮へと向け、雄叫びをあげる。それに続くようにして、ルブルニア軍の兵たちは野太い声を揃えて、大地が揺れ動くかの如く巨大な咆哮を放った。
まるでその咆哮に惹き付けられるように、遂に四千五百の敵兵がロイズたちの視界に納められた。
「隊長、来ました」
アリーナはすぐさまロイズにそれを伝えるが、あくまでもこれは業務連絡のような、ただの確認である。あれだけの数の兵を、ロイズが認識していない訳がない。
こちらの頭数はたったの千。それに対して、敵はその約五倍近い数の兵が待ち構えている。だが、こちらには資質持ちであるロイズが先頭をきる。
視界に入り込んでくるグランパニアの前衛の兵たちは全員が銃を構えており、ロイズたちにその銃口を向けている。
その数、数百はくだらない。もしかすると、こちらの兵の数と同等の千近い銃口が、ルブルニア軍に向けられているのかもしれない。
だが、ルブルニア軍は怯まない。こちらの兵と同じ数の銃口が向けられようとも、誰一人として速度を落とそうとする者はいなかった。その銃弾を止められる者が、自分たちを導いてくれていると信じているから。
「放てえええええええ!!」
第四部隊第二班班長の号令を受けて、その銃口たちが轟音の調和を奏でながら一斉に火を吹く。銃口はまるで縦一線の花火のように、それがこれから人の命を奪うものとは思えないほど、闇夜を照らすように美しく瞬く。
轟音が鼓膜を震わせた瞬間、四人のローブを被った者たちが一斉に手を前に突き出す。
銃弾はルブルニア軍には誰一人として届くことなく、レンガ畳みの上に雨のように降り注ぎ、行先を失った銃弾たちは、寂しげな音を発てながら地面を転がっていった。
「やはり、資質持ちは混じっているな。ならばこちらも、接近戦に持ち込むまでだ」
第二班班長は前衛部隊の持っている銃を全て捨てさせる。そして、皆がそれぞれに背中に携えていた剣や槍を引き抜くと、その切っ先をロイズたちに向けて構えを取る。
「こちらも数を減らさせてもらうぞ」
ロイズはそう呟くと自らの掌を前に突き出し、そこに魔法陣が展開されていく。それは魔力を込めるごとに大きさを増していき、やがてある程度の大きさになったところで、ロイズの頭上へと移動する。
「喰らえ……。スコール・レイ」
ロイズが魔法の名を告げた瞬間、魔方陣から大量の光線が放たれる。それは、まるで雨のように敵陣に降り注ぎ、誰彼構わず無慈悲にその肉体に風穴を空けていく。
放たれた熱線は鎧をも容易に溶かし、その肉体が最初から存在しなかったかのように喰い千切っていく。
心臓や顔を貫かれて絶命する者、腕や足を喰い千切られて痛みに悶え苦しむ者…。その様相は様々で、まさに誰を狙った訳でもない、言い換えれば全ての者を狙った、慈悲も情もない無差別攻撃。
だが、それで心を揺るがせている余裕はロイズにはない。
敵も戦い慣れた精鋭たちだ。ロイズの攻撃に怯むことなく、次の行動に移ろうとする。
「怯むな。遠距離に持ち込まれれば、こちらに為す術はない。敵に資質持ちがいるのなら、こちらは数で戦うしかないのだ。仲間の屍を踏み越えろ。立ち止まるなあああああ!!」
敵兵の指示の声と共に、全ての敵兵が雄叫びをあげながらこちらへと突撃してくる。
迷いを抱けば殺されるのはこちらだ。無慈悲や非情に惑わされるな。それは、人間の本質だ。誰もが持ち得るものだ。
この世界は時に無慈悲で非情にならなければならないときがある。それが今なのだ。
人間は本質的に争う者である。人間はその内なる心に、必ず誰かに抗い、争うという機能を持ち得ている。全てのものを受け入れ、何の抵抗もなく生きる者など『人間』とは呼ばない。それはもはや『機械』だ。
だから自分がしていることは、当たり前のことなのだ。人々が生きるこの世界の日常なのだ。誰かに抗い、争うことこそ本能なのだ。
ロイズは自らにそう言い聞かせながら、心の中の迷いや後悔を断ち切る。
「武器を取れ、ルブルニア軍。情や慈悲はいらない。自らの前に立ちはだかる者たちを全て切り捨てろ。迷いも、後悔も、敵も、全てを自らの力でねじ伏せろ」
敵兵の雄叫びに負けないほどの咆哮を、ルブルニア軍の者たちも放つ。お互いの咆哮が重なりあい、グランパニアの大地を揺るがす。
ここは私が護り抜く。だから、アカツキ。後のことは頼んだぞ……。
そして、アカツキたちは夜の街を颯爽と駆け抜けていく。人外な速度で、廃墟の群で形造られた回廊を抜け、悲鳴が上がる貴族街を、眼にも止まらぬ速さで走り去る。
皆が怯えて、稲光のように何度も光を写しだす空を見上げながら震えている中で、その光の方向へと向けて走る二つの影。
今更怪しまれたところで何の問題もない。作戦が開始されれば、見つかったところで最早意味はない。ある意味堂々と、二人は大通りの真ん中を駆け抜けていく。
グランパニアの街の向こう側には、それらを取り囲む立派な城壁があるにも関わらず、王宮の回りには、恐れるものは何もないと云わんばかりに、何の防壁も有りはしない。
これこそが最凶の大国であるグランパニアが成せる業なのか……。
しかし、敵が隙を見せているからといって、その隙を突こうとしたところで何の意味も為さない。結局、アカツキたちの目的は、キラただ一人なのだ。一般兵など、今のアカツキたちからすれば障壁にすらならない。
だから、アカツキたちは何処からでも攻め込めるにも関わらず、敢えて正面から突撃を図る。
王宮の正門に構える一般兵たちを、いとも容易く薙ぎ払いながら、アカツキたちは王宮入り口の広間へと足を踏み入れる。
そこには赤褐色の重厚な鎧を纏った一人の巨漢が佇んでいた。大剣を地面に突き刺すように構え、まるで来るのを待っていたと云わんばかりにこちらを真っ直ぐに見据える。
「待っていたぞ、シリウスの孫よ……」
そんなダグラスを視界に捕らえながら、アカツキは小さく舌打ちすると、吐き捨てるように告げる。
「お前はお呼びじゃねえんだけどな……」
そして、資質持ち同士の乱戦が始まろうとしていた。
このときから四日前、ルブルニアから走り去る小さな影が一つ。覚束ない手つきで馬を駆りながらも、その瞳には誰にも負けない強い意思の炎が揺らめいていた。