拭いきれぬ迷い
リディアの『観光』という言葉に疑問を覚えつつも、それが偵察だと言うことはアカツキでも察していたので、大人しく後を追う。
アカツキたちがいた廃墟染みた家の外に出ると、鬱蒼とした人気のない路地裏の、蛇のようにうねりを打つ道が顔を覗かせる。
その街道沿いに建つ家々も、アカツキたちが辿り着いた家と何ら変わりはなく、誰も住んでいる様子はない、今にも崩れ落ちそうな家ばかりだった。ここもいずれ、スラム街のように忘れ去られ、存在しなかった街に変わっていくのではないだろうか。
アカツキが廃れた家屋を見上げながら怪訝そうな表情で歩いていると、不意にリディアから声が掛けられる。
「ここもスラム街ができるまでは普通に栄えていたのよ。でも、スラム街ができてから、この東区に寄り付く人はいなくなったわ。そうやって、もう何十年も放って置かれているのよ。それがこの五年ちょっとで一気にガタが来たみたいね」
リディアはそう言いながら、道端に不自然に置いてあった木箱に唐突に腰を下ろし始める。急にどうしたんだと、アカツキがリディアを不思議そうに眺めていると、リディアは立ち並ぶ廃墟の隙間から覗く、澄み渡った蒼い空を仰ぐ。
「懐かしいな……。ここでさ、私たちは貴族街から来るヨイヤミを待っていたの。私はいつも、この木箱に座って待ってたっけ……」
もう戻ってくることのない、この場所での楽しい日々を思い浮かべながら、リディアは蒼いキャンパスに過去の思い出を写し出す。七人の少年少女が、思い思いに話し合いながら、楽しく笑っていたあの日々を……。
「本当に、楽しかったんだけどな……」
ボソッと呟かれたその一言を、アカツキは聞き取ることが出来ずに「何か言ったか?」と聞き返すが、リディアは首を左右に振って誤魔化す様に笑みを浮かべる。
「ううん……。何でもないわ。さあ、こんな気が滅入りそうな場所はさっさと抜けて、賑やかな貴族街の方に行きましょ」
そう言って木箱から跳ねるようにして降りると、鬱蒼とした路地裏を早々と進んでいく。彼女と思い出を共有することのできないアカツキは、一度ガリアスに目配せし、彼が頷くのを確認すると、リディアを見失わないように彼女の後を追った。
暫くすると、物寂しい路地裏に賑やかな声が走り抜けていく。どうやら、ようやく人気のあるところに辿り着いたようで、この国の広さを改めて実感する。
人気のない路地裏を抜けるのに掛かった距離は、そんなに短いものでもなかった。どれだけの土地が無駄に放置されているか考えたくもなかったが、大国の凄さを初めて肌で感じた気がした。
その賑やかな人々の声に誘われるように、アカツキたちの歩みが少しずつ足早になる。鬱蒼とした陰鬱な路地裏に光が差し込み始め、そしてようやくその視界は大きく開かれた。
開けた先には大通りが広がっており、そこには所狭しと立ち並ぶレンガ造りの豪華な家々。大通りの中央には木々が立ち並び左右に道を分け、その大通りを馬に引かれた馬車などが悠然と通りすぎていく。多くの人々が行き交い、先程までの静けさが嘘のように感じられた。
「こっから先は人の数も増えるから、あんまり挙動不審なことしないでね。下手に隠れようとしないで、堂々としてなさい。あと、アカツキは顔が割れてるんだから、とりあえずこれしときなさい」
そう言ってリディアから渡されたのは、漆黒の眼帯だった。顔を隠すには少々心許ないが、何もないよりは幾分マシだろう。
「心配しなくても大丈夫よ。ここの国の人間は他の国から襲われるなんて、これっぽっちも思ってないから、他の国の王様の顔なんて覚えてないわ。まあ、念には念をってことで嵌めてるだけだから、あんまり気負わないでいいわよ」
相変わらず見透かしたように、頭に思い浮かべたことを口に出す前に読まれてしまう。ヨイヤミもそうだったが、自分はそんなに顔に出やすいのか、とアカツキは苦い顔をしながら眼帯を右目にはめた。
片目になったことなどないアカツキは、慣れない感覚に違和感を覚えながら、もう一度目の前の光景を眺め見る。
「この道が、この国のインストリートなのか?」
これまで見てきた小国の、どの国のメインストリートよりも大きな道だったのと、あまりにも綺麗なレンガ畳の大通りを見て、アカツキはこれがこの国の最大の道なのだと推測する。だが、リディアはそんなアカツキの質問に、少しだけ自慢そうな顔をしながら答える。
「メインストリートはこんなものじゃないわよ。たぶん、この道の倍以上はあるわ。だから、あんたたちの軍が馬で攻め込んでこようと、何ら問題はないわ」
既にこの道ですら驚きを覚えているというのに、この道の倍以上の道と言われても、最早想像がつかない。というか、それはもう道と呼べるものなのだろうか……。
それにしても、確かにリディアの故郷ではあるのだが、これから滅ぼそうとする側の人間がどうしてそんなに自慢げなのだろうか……。
メインストリート一つ取っても、この国の規模の大きさは明らかだ。規模の大きさだけで競おうものなら、赤子のように捻り潰されるだろう。
この国には、軍だけでも五万人を越える数の人間がいるのだ。総人口はおそらく何十万、下手をすれば何百万という数の人間がいるだろう。
アカツキはそんな規模の違いに言葉を失いながら、リディアの後を追って、グランパニアを徘徊していた。
道沿いにはいくつもの露店がならんでおり、そこから漂ってくる香ばしい香りや、甘い香りに、だんだん腹の虫が鳴き始める。これからこの国と一戦交えようというのに、緊張感もあったものじゃない。
「本当にアカツキは、顔もお腹も正直ね。まあいいわ、何か気に入ったものがあったら、歩きながら食べましょうか」
またも自分の頭の中を覗かれたような気がして、アカツキは悔しそうに顔をしかめる。まあ、今回に関しては、たぶんガリアスも気付いていたと思うが……。
そうして道沿いに歩いていくと、やがて更に賑やかな街道が顔を覗かせる。そこには先程と比べ物にならない数の露店と馬車がそこら中を埋め尽くしていた。道端には花壇があり、色とりどりの花々がそれを埋めつくし、甘い香りを漂わせていた。
「これが、この国のメインストリート……」
アカツキはその規模の大きさと、圧巻の賑わいに開いた口が塞がらなくなっていた。その裏で自分たちはこれから、これだけの国と戦争を行うことになるのかと恐怖を覚えていた。
「そうよ、さっきとは比べ物にならないでしょ。これがこの国の中心。この国の正門から城まで伸びる一直線のメインストリート。あんたたちが攻め込む最後の架け橋」
そうだ、ここがルブルニアの兵士たちが城内の兵士たちの数を減らすために、自らの命の灯火が消えるまで燃え散らす、運命の街道なのだ。
この道がもうすぐ火と凶器と血の海に呑み込まれることになる。今の目の前の光景からは、そんな地獄絵図を想像することは叶わない。それでも、そうしなければアカツキたちの戦いは終わらないのだ。
「止めることなんて、できないよな……」
そんな賑やかな大通りを眺めながら、アカツキの表情は固く結ばれていた。
これから先に起こる凄惨な騒動は初めて自らが引き起こす戦争なのだ。これまでは、降りかかる火の粉を払っていただけだったから、罪悪感に苛まれることはそれほどなかった。
だが、今回は自らが仕掛ける戦争である。アカツキの意思により、傷を負う必要のない人間をたくさん巻き込むことになる。
そんな、多くの人間の命の責任を、アカツキは背負わなければならないのだ。それが、戦争を仕掛ける国の王としての責任。殺した側も殺された側も関係なく、その責任の全てはアカツキに還元される。
この戦争はアカツキの意思を貫き通したいがために起こす戦争だ。奴隷という存在を許すことのできないアカツキが、奴隷という存在を認めているグランパニアという国に抗うための戦争なのだ。
自分の全てが正しいかと問われれば、すぐに頷くことはできないだろう。全ての正しさを知るには、アカツキはまだ無知すぎる。だから、こんな賑やかな光景を見せられてしまっては、目の前に迫っている未来に疑問を抱かずにはいられなくなるのだ。
「迷っておられるのですか?」
アカツキの顔を覗き込みながら、ガリアスは心配そうに眉根を寄せて尋ねる。自らの表情の愚直さに嫌悪感を抱きながら、アカツキはそれでも笑みを浮かべてみせる。
「もう、迷っていても仕方がないんだ。今更迷ったりなんかしないさ。俺は、覚悟を決めてここに来たんだ。皆を巻き込んで、ここに来たんだ。もう俺の背中に道はないんだ……」
今更迷ったところで後退は許されない。目の前に広がる道は、一寸先すら見えない暗闇だったとしても、前に進むしか選択肢は残されていない。ならば、前に進むしかないだろう。自分の思う正しさを信じて突き進むしかないだろう。
「そうね、後戻りなんてできないところまで、私たちは足を踏み入れている。なら、迷いも後悔もかなぐり捨てて、前に進むしかないじゃない。何処にあるかもわからない希望の光を目指して、必死に走り回るしかないじゃない。私だって……」
リディアの声音が震える。今までに聞いたことのないリディアの声に、アカツキが多少の驚きを感じながらリディアの方に視線を巡らせると、そこにはいつもと変わらない笑みを浮かべたリディアがいた。
「何でもないわ。久しぶりの故郷に来て、少し昔を思い出しただけよ。気にしないで……」
そう言って、リディアは止めていた脚を動かし始める。そんなリディアの背中が妙に小さく感じて、アカツキは少しずつ遠ざかる背中をジッと眺める。
「ほら、お腹も減ってきたことだし、早くご飯を食べましょう。考えたってもう止まらないんだから、それまでは、思うままに生きましょう」
思うままに生きていけば、『食欲』『睡眠欲』『性欲』というものは影のように、離れることなく後を追ってくる。それが、人間が持ちうる欲求なのだから。そして争うこともまた、人が思うがままに生きた結果なのかもしれない。人は生まれながらにして、何かと争う定めなのかもしれない……。
三人がメインストリートを歩いていると、平民街から貴族街への門の辺りで、何やら一際賑わいを見せる場所がアカツキの目に留まった。アカツキはそれが何なのか気になって、唐突にリディアに尋ねる。
「今日ってなんか催しものでもあるのか?なんかパレードみたいに、向こうの方から行列が歩いてくるけど……」
アカツキがその行列に群がる人々の垣根から必死に顔を覗かせようとしていたところをリディアに腕を引張られて止められる。
「あんまり目立つようなことしない方がいいわよ。何があるか知らないけど、あんまり作戦と関係のないところで人ごみに混ざって、もし気付かれでもしたらどうするの?ほら、早く行きましょ」
先ほどまで、普通に歩いていたメインストリートからわざわざ逃れるように、リディアは一本内側の道へと、アカツキの腕を引張ていく。急にどうしたのだろうと、どこか違和感を覚えずにはいられなかったが、自分は世間体みたいなことには疎いので、リディアに従っておくことにした。
ただ、メインストリートを抜ける前に『帝国騎士様』と国民たちが言っていたような気がしたが、それが何なのか理解できなかったアカツキは、それに触れることなくその場を後にした。
そうして三人はグランパニアの内部をひたすらに歩き回った。アカツキたちに与えられた猶予である一週間近くを存分に利用し、グランパニアの内部構造を粗方把握することができた。
お陰で、アカツキたちが潜入している東区から城内への最短ルートや、緊急時の城内への潜入ルートなど、様々なパターンでのシミュレーションを行うことができた。
「これで私の仕事は終わりね。後はあんたたちの好きにやりなさい」
太陽が西の地平に顔を埋め、黒いベールが空を覆い、零れたように星々が黒のキャンバスに散りばめられた頃、リディアはアカツキたちに別れを告げようとする。
「色々と助かったよ。リディアがいなかったら、俺たちはグランパニアに乗り込むこともできなかったかもしれない。お前には、感謝してるよ」
アカツキが軽く頭を下げると、リディアはいつものように笑みを浮かべる。
「感謝なんて止めてよ。これはあくまでもビジネスなんだから。報酬はもちろんいただくわ。あんたたちの勝利っていう報酬をね……」
よくよく考えると割に合わない報酬だと、アカツキは苦笑いを浮かべる。
「ああ、必ず報酬を届けるよ。だから、待っていてくれ」
リディアは小さく頷くと、踵を返してアカツキたちに背を向ける。
「湿っぽいのは苦手なの。だから別れが辛くなる前に、私はもう行くね」
「そっか、じゃあな。またいつか会えたら、その時はよろしくな」
その言葉にリディアは返事をすることなく、アカツキたちに背を向けたまま、手を挙げて歩き出す。少しずつ小さくなり闇に溶けていくリディアの背中を、アカツキはずっと眺めていた。
そんなアカツキの姿を眺めていたガリアスが、不意にアカツキに尋ねる。
「あの方は、本当に信用できるのですか?私には、あの方が何かを隠しているように見えて仕方がないのです」
アカツキも彼女の全てを信用することはできていない。彼女がたまに見せる怪しげな笑みの裏に何があるのか、今のアカツキには到底わからない。ただの考え過ぎかもしれないし、本当に何かあるのかもしれない。
「信用できるかどうかは、俺にもわからない……。でも、今はあいつを信用するしか、俺たちに道は無いんだ。あいつがいなければ、そもそも俺たちは、まともにグランパニアと戦うこともできなかったと思う。ここまで来れたのは、あいつのお陰だ。だから、これが罠かもしれないっていう可能性があったとしても、俺たちが信じられるのは、あいつの情報しかないんだ」
アカツキは振り返り、ガリアスの姿をしっかりと見据える。
「だから、ここまで来たら……、最後まで信じよう」
そして、運命の日は訪れる。
リディアが去ったその翌日の夜、グランパニアの正門を破壊する轟音と共に戦いの火蓋は切って落とされた。