自分の心に嘘は吐けない
抜け道はレアたちの家からそう遠くは無い。全力で走れば数分もあれば辿り着くことができる。だが、抜け道を多くの者に見つかる訳にはいかない。だからどうしても、いつもよりも時間が掛かってしまう。
「こんなに隠れながら行く必要があるのか?いつもよりもかなり遠回りだぞ」
ニコルがしびれを切らして、リディアに意見する。それを無視するようにして、リディアは遠回りをしながらも、前へと進んでいく。リディアはこの道を変える気はないらしい。
何を言っても意味がないと悟ったニコルは、不満な表情を浮かべながらも、その口を噤んで黙る。そうしている内に、抜け道の手前まで到着し、テントの影に隠れてその周辺を覗き見る。
「あそこね。今なら、周りの人も少なそうよ。誰にも見つからずに行くのは難しそうだから、多少は見られてもしょうがないわね」
リディアが抜け道の周りを確認しながら、僕らに様子を告げてくれる。多少ならば、あの抜け道に人が群がっても崩れることは無いだろう。
リディアはタイミングを見計らって僕らに合図すると、そのまま抜け道に向かって飛び出した。抜け道までの距離は三十メートルもないだろう。リディアに続いて五人も隠れていた影から飛び出す。
あと数メートルでこの地獄から抜け出せると皆が信じていた。まだ問題は山積みだが、それでも襲い掛かる恐怖から逃れられると、皆が安堵の表情を浮かべていた。
だがそれは幻で、ヨイヤミの幻想はまたしても、絶望的な現実に打ち砕かれる。
抜け道は井戸のように大きな石の板で穴を塞いでいるだけの簡素なものだった。後はその石板を動かして、穴を潜ればここから逃げ出せるはずだった。
だが、彼らがその石板に辿り着く前に、石板が独りでに動きだし、その中から武装した兵士がこちらに向けて銃を構えて飛び出して来た。
先頭にいるのはリディアで、真っ先に撃たれるのは間違いなくリディアだった。だから、兵士の存在に気が付いた瞬間、ヨイヤミは彼女の名を叫んだ。
「リディアッ!!」
リディアは目を見開いて、自らの脚にブレーキをかけ必死に止まろうとしたが、速度に乗った身体はそう易々とは止まることができず、少しずつ死へと近づいていく。
兵士は銃を構え、その引き金に手を掛ける。そして、その銃は何の躊躇もなくリディアに向けて火を噴いた。
赤い鮮血が飛び散った。確かにリディアは地面に倒れていて、それはリディアの血液のはずだった。しかし、身体に風穴を空けたのはリディアではなく、ニコルだった。
ニコルは皆が足を止める中、何の迷いもなく前に出てリディアを押し除け、自らの身を挺してリディアのことを護ったのだ。
「二、コル…………」
何が起こったのかを、まだはっきりと理解しきれていないような表情で、リディアが彼の名を呼ぶ。自分のほんの少し離れた場所で、身に着けているものを真っ赤に染め上げた彼の名を……。
「あ、あ……、ああ…………」
ヨイヤミは、絶望に打ちひしがれ、心の底から声を漏らす。また、目の前で友を失うのか。もうこれで何度目だ。いっそのこと自分を殺してくれれば、この心はどれだけ楽になれるのか……。
リディアがニコルの元に辿り着き彼を抱き上げる。
「ニコル……。ねえ、あんた、何やってんのよ……。あんた、私のことなんて、嫌いだったんじゃなかったの……」
リディアの声は震えていて、瞳からは涙がポロポロと零れ落ちる。彼女の腕に抱き抱えられたニコルは、瞼を何とか開いて、彼女の顔を焼き付けるように見つめる。
「そうだな……。お前のことなんて、大嫌いだよ……。でも、どれだけ口で嘘を言えったって、やっぱり自分の心には嘘を付けねえな……」
ニコルの言葉にいつもの覇気は無く、今にも消えてしまいそうなとても不安定なものだった。ニコルは真っ赤に染まった手を、とても重たそうに持ち上げ、リディアの頬に触れる。
「好きな女を護れねえような、ダサい男にはなりたくねえからよ……」
ニコルの言葉に、リディアは最早言葉を発することができない。ヨイヤミと同じように、「あ、あ……」と小さく声を漏らしているだけだった。
「俺の分まで、ちゃんと生きろよ……。ここで死んだら、承知しねえからな……」
最後に優しげな笑みを浮かべたニコルは、そのままリディアの頬に触れていた手を力無く地面に落とした。それと同時に瞼を閉じ、リディアの腕に全ての体重を預けた。
「違う……、こうじゃない……。私が……、こんなはずじゃ……。違う、違う、違う、違う、違う……」
気が狂ったように、ニコルを抱える腕を胸に引き寄せてリディアが叫び散らし始める。ニコルを失った悲しみが抑えきれなくなっているのだろうが、今はそれどころではない。ニコルに風穴を空けた兵士は、既に弾丸を詰め終え、リディアに向けて更なる弾丸を放とうとしていた。
ヨイヤミの場所からでは兵士を止めることはできない。だが、リディアも動く気配がない。もうこれ以上誰も失いたくはない。
これ以上誰も失わないための力を、皆を護るための力を、力を、力を、力を、力を……。
「やめろおおおおお!!」
その叫び声と共にヨイヤミの周りを赤い炎が包み込み、そしてその炎がヨイヤミの手の中に集約されていく。
ヨイヤミのその様子に気が付いた兵士は驚愕の表情を浮かべて、その銃口をヨイヤミに向ける。兵士は何の躊躇もなくその引き金を引く。銃口は轟音と共に火を噴き、死を運ぶ銃弾を放つ。
それとほぼ同時に、ヨイヤミは手に集約された炎の球を兵士に向けて投げつけた。その炎の球は銃弾を飲み込みながら直進し、兵士の元へと着弾すると、その身体を激しく燃やした。
身体が炎に包まれた兵士は水を求めて、叫び声を上げながらのた打ち回った後、黒く焼け焦げた身体を残して絶命した。ヨイヤミが初めて人の命を奪った瞬間だった。
思った以上に、ヨイヤミの心は落ち着いていた。何も感じなかったと言えば嘘になるが、思っていた以上に感情の昂りはなかった。それは、目の前で多くのことが起こりすぎたせいもあるかもしれないが、やはり少しずつ人の死というものに慣れ始めているからだろう。
ヨイヤミがリディアへと視線を移すと、リディアが目を見開いて驚愕の表情でヨイヤミを眺めていた。そして、小さな声で、
「どうして……?なんで……?こんなのって……」
そう漏らしていた。
ヨイヤミはリディアが何を思ってそんな言葉を漏らしたのかは理解することなく、ただ、ニコルを失ったことで、気を病んでいるのだろうと思っていた。ヨイヤミはリディアの元に歩み寄ると手を差し出す。
「リディア、この抜け道がダメな以上、他の抜け道を探すしかない。残念やけど、ニコルは置いて行くしかない」
こんなことを言いたくはなった。もっといい言葉だってあったはずだ。でも、今のヨイヤミの頭に浮かんできたのは、そんな現実を突きつけるだけの言葉だった。
「もう、いいよ……。私は……。こんなことって、ないよ……」
リディアは動こうとはしない。カルマのことを知った時は、ほとんど取り乱さなかったのに、今のリディアは目も当てられない様子だ。それでも、引っ張ってでもリディアを連れて行かなければならない。ニコルの思いを無駄にしないためにも…。
「ここから逃げ出すって、ニコルと約束したんやろっ。命を張って護ってくれたニコルの思いを無駄にする気なんか」
別に怒るつもりは無かった。焦りも合わさって、無意識の内に言葉に怒りが込もってしまった。でも、その言葉でリディアは一度動きを止めた後、ゆっくりと立ち上がってくれた。立ち上がってくれれば、あとは無理矢理にでも引っ張っていける。
いつの間にか、この周辺には人が一人もいなくなっていた。兵士の存在に気が付いた人たちは、すぐさまこの場を離れて行ったのだろう。僕らのことを助けようともせずに……。
だが、それが正しい判断だ。自分に関係の無い者と関わる必要はない。ヨイヤミだって、自らと関係の無い兵士の命を奪っても、ほとんど何も感じなかったのだから……。自分と関係の無い者は見捨てる、それが人の性なのだ。
ヨイヤミは立ち上がったリディアの腕を掴むと、ロニーたちがいる方へと腕を引いて走り出した。先程まで全然気が付かなかったが、レアが大声を上げて泣いていた。それはそうだ、こんな幼い子が、目の前で自分の知人を失って泣かない訳がない。
「ロニー、レアちゃんを担いで逃げるぞ。サラも、まだ走れるな?」
二人とも、眼を赤く腫らしてはいるものの、ヨイヤミの言葉には力強く頷き、ロニーは座り込んで泣き叫ぶレアを抱き抱えてヨイヤミの後を追う。
僕が皆を護るしかない。もうこれ以上、誰一人だって死なせる訳にいかん。カルマの思いも、ニコルの思いの、もうこれ以上無駄にする訳にはいかんのや。さっきのは夢じゃなかったんや。僕には魔法が使える。この力を使って、敵を何人殺してでも、皆を護り抜いて見せる。
ヨイヤミの心は少しずつ、壊れ始めていた。ヨイヤミはあまりにも人の死を見すぎていたせいで……。
これまで人の死というものに一切の関わりを持ってこなかったヨイヤミが、たった数日で大量の死を目の当たりにしたせいで、最早心がひび割れ、人の死を当たり前のように感じるようになっていた。
「とにかくこっちや。急げ」
ヨイヤミは魂の抜けたリディアの手を引き、ロニーは泣き叫ぶレアを抱え、サラはとにかく必死に、宛てもなく走り続けていた。
宛てもなくとは言ったものの、抜け道が使えないのなら、門の方の城壁から外に出るしか道はない。ヨイヤミの今の力があれば、カルマのように門をこじ開けることもできるはずだ。それが大勢の者を傷つける選択肢だったとしても……。
「どおするのお、ヨイヤミくうん?」
こんなときでもいつもと変わらない様子で話しかけてくるロニーに少し苛立ちを覚えたが、これは彼の性分なので我慢するしかない。
「とにかく今は走るしかない。門まで行けば、僕が何とかするから……」
今は火の海に向かって走っていた。ロニーが心配になるのも仕方がない。それに、サラもかなり限界が来ているようで、息は絶え絶えになっておりかなり辛そうだった。あまり時間があるとも思えなかった。
ヨイヤミがゴチャゴチャと頭の中で考えながら、走っていると目の前に銃を携えた兵士が現れた。ヨイヤミは咄嗟に右手をその兵士に向けて差し出し、躊躇なく炎の球を放つ。
兵士の身体を炎が飲み込み、悲鳴を上げて転げ回る。その兵士の行く末を見ることもなく、転げ回る彼の隣を颯爽と駆け抜ける。
もうヨイヤミは戻れないところまで足を踏み入れていた。出てくる兵士を次々と燃やし、彼らの生死すら確認することなく、その場を後にする。
そんなヨイヤミの足を止めたのはレアだった。彼女の声が、ヨイヤミを踏み入れてはならない場所から引き戻した。
「ヨイヤミおにいちゃんっ!!」
さっきまで泣いていたはずのレアから急に呼び止められて、ヨイヤミは不意に足を止める。そんなことをしている暇など無いのに、と心中穏やかではなかったが、レアの言葉を無視することは憚られた。
「もう、こんなことやめて。これいじょう、ヨイヤミおにいちゃんのてをよごさないで」
レアは今にも泣き出しそうだった。瞳が揺らめき、必死に涙を堪えているがわかる。彼女の気持ちがわからない訳ではない。それでも、彼女の願いを聞き入れることはできない。それは、ここで皆を見捨てることになるから……。カルマとの約束を破ることになるから……。
「レアちゃん、それはできん……」
ヨイヤミの拒絶に更にレアの瞳が揺れる。
「それなら、わたしはここからうごかない」
レアの決心は揺るがない。これは、ヨイヤミのことを思って言い出したことなのだろう。それはわかっている。でも、今はこんな言い争いをしている場合ではない。
「カルマの思いを、無駄にする訳にはいかんのや。こうするのが一番……」
「おにいちゃんは、そんなことのぞんでない」
ヨイヤミの言葉を遮るように、レアが叫び声のような大声を放つ。その瞳には涙が浮かんでいるけれど、それでもヨイヤミに向けられる眼差しは、決意の込められた力強いものだった。
ヨイヤミは言葉を失う。こんなに強いレアを見るのは初めてで、たじろいでしまう。カルマの妹なのだから、少し考えれば芯の強い部分があるのは当然なのだが……。
それにしても、勢いで『カルマの思い』などと口走ってしまったが、レアにバレていないだろうか。本当は既に気がついているのではないだろうか。
「なら、どうすればええって言うんや。ここで、皆で黙って軍の奴らに殺されろって言うんか」
そんなことレアに聞いたって仕方がないことはわかっている。こんなの、ただの八つ当たりだ。でも、ここで引き下がる訳にも行かない。
「そういうことじゃなくて……、きっと、もっといいほうほうがあって……」
レアは困惑して、また泣きそうになっている。こんなことがしたかった訳じゃない。レアを困らせたところで、何の解決にもならない。
でも、レアが言っているのはただの理想論だ。そんな解決策があるとは思えない。そんなものがあるのなら、カルマが命を落とす必要なんてなかったはずだ。
「そんなもんは無い。今は我慢して、一緒に逃げてくれ」
ヨイヤミがレアを説得することもなく、無理矢理にでもここから連れだそうとした時、今まで魂が抜けたように呆然としていたリディアが生気の無い声を発した。
「あるよ……」
その言葉にヨイヤミは驚き、視線がリディアに釘付けになっていた。その続きを促すように、ヨイヤミは黙ったままリディアのことをジッと見つめる。
「門側の城壁の右奥の方に、一部だけ崩壊しかけている部分がある。普通の人じゃどうしようもないけど、ヨイヤミの力があれば何とかなるかもしれない……」
相変わらずリディアの声に覇気はなく、死んだような表情でそう告げた。しかし、その言葉には確かに確信を持てるような口振りで、しかしそれなら、カルマにそれを伝えればよかったのではないかという疑問が浮かんでしまう。
「それならカルマだってよかったやろ。なんで、今更になってそんなこと……」
ヨイヤミの心の中を、怒りと焦りが満たしていく。無意識のうちに、誰と会話するときにも怒り混じりの声音になってしまっていた。
「カルマなら大丈夫だと思ってたから。ごめん……」
いつものようなふざけた様子は微塵もなく、ただ項垂れたまま、生気の抜けた声で謝るだけだった。そんなリディアを責められるほどヨイヤミの心は強くない。
ヨイヤミも心の中で燻る怒りを何処へぶつければいいのかわからず、自らの爪が皮膚を突き破り、肉を抉りそうなほど強く拳を握りしめていた。
「なら、そこへ行こう。リディアに道案内頼んでもええか?」
ヨイヤミは感情を圧し殺しながら、不安定な自らの心を何とか律しようと、声音を落ち着かせながらリディアに尋ねる。
「わかった……」
そう一言だけ呟くように言葉を紡ぐと、未だ不安定な足取りのまま、それでも彼らの為に一歩ずつ踏みしめる。