エピローグ:いつか辿り着けるように
曇り空の下、僕はコンビニで買ったアイスコーヒーを片手にパシフィックガーデンのある菱沼海岸からサイクリングロードを西へ歩いていた。波はやや高く、雲は南へ速く流れている。8月下旬の風は、ビーチではしゃぐ声を海へ浚って、秋をいざなう。
何変わらない、いつもの光景。
僕らの近況。
大騎は鶴嶺さんのセンスに惚れ込み、彼女とともに音楽活動をしようと説得を繰り返した。あまりにものしつこさに鶴嶺さんは「仕方ないわね、少しだけ」とコンビを組んだ。
鶴嶺さんはその後、予備校帰りの生暖かい夜、僕に話してくれた。
「音楽でも、救える命はあるって、気付いたの。主に心に痛みを抱えた人を救う力があるけようだけれど、いつか癌だって治せるような、そんな音楽をつくってみたい」
と、内心はかなり乗り気であると告白した。
「ただそれを、東橋くんと成し得れるかは別の話」
だそうだ。頑張れ大騎。
一方、水城先輩と響さんも正式にコンビとして音楽活動を始めた。これまではなんとなく二人でテキトーに奏でていたが、プロデビューを目指して本格的な活動を始めるという。
3年生の水城先輩は、音大受験に向け奮闘中。
ふわふわ生きているようで、やはり前を向いていた。
僕は少し、勉強をサボるようになった。
ただし、学習は止めていない。
周囲の面々に刺激され音楽を聴くようになった。バリスタを目指しているわけではないが、そのお供や勉強中に飲むコーヒーについて興味が湧いたので、勉学を少しばかり減らした分、それらについての学習を始めた。
そうしたら少し、気が楽になった。
勉学に『知見を広げる』という目的が伴うようになったからだ。
教師や塾講師を目指していない僕は、勉学だけに明け暮れる日々に不安を抱き、そこから目を逸らすために勉学に励む、いわば依存症になっていた。
こんどはカフェイン依存症にならないよう注意しよう。
救いを求め勉学に依存していた僕が、解放による救いを得た。
人生は不安定要素だらけ。何もかもから解放されるのは天寿を全うするときと、諦めも必要と知った。
気分転換に、海岸を歩く。
水城先輩が僕に寄ってきた松林の展望デッキは、いつの間にか無くなっていた。
老朽化か、転落リスクを排除するためか、理由はわからない。
諸行無常。変わりゆく世に、変わらず同じことを繰り返しているだけでは置き去りにされる。基礎と、プラスアルファが必要なんだ。きっと、人生には。
「ふぅ」
ヘッドランド東側の波打ち際で、僕は溜め息をついた。
自分が変わったからといって、日常がすぐ塗り替えられるわけではないんだ。川の流れのように長い時間をかけて少しずつ、少しずつ、行きたいほうへ導かれてゆく。
僕はまだ湧き出たばかりで上流にいるから、周りの急激な変化におどろおどろしながら硬い岩に当たっている。滝があって、突き落とされたりもする。
中流域で障害が減ってスムーズになる。
下流に行くほど穢れていって、大海からの強い抵抗に邪魔されながらも自らの意志と後押しで進んでゆく。流れ着いたら世界を巡り、やがて蒸発して地に還り、長い年月を経てまた湧き出る。
「うーん、きょうも潮風が気持ちいい!」
不意に現れた。
「水城先輩」
潮風にふわりなびく、水城先輩の髪。
「やあ、いい天気だね。望くんも、ココロの栄養補給?」
「はい」
日々に疲れたら、疲れなくても、気分転換をして、ココロの栄養補給。海、山、街、音楽、コーヒー、ファッション、なんでもいい。
普段と違う世界を見ながら、自分に合った世界に巡り会うための旅を続ける。
それがいつまで続くかわからないが、見つかるまで続けよう。ときに歩けなくなっても、いつかは辿り着けるように、がむしゃらに、ときにゆっくり、そのときのペースで歩んでゆこう。




