朝から寄り道
「いってきまーす!」
誰もいない部屋に元気よく挨拶をして、茶色い通学靴を履く。人はいなくても、そこにある家具や家屋そのものさえも、私にとっては家族の一員。
急いで仕度をした結果、私は普段より3分早く家を出られた。瓦屋根の和風住宅と近代的な建て売り住宅が混在する住宅街を東へ進み、バス停へ向かう。バス停へ辿り着くには信号機のない横断歩道を渡らなければならず、自動車の往来頻度によってはバスに乗り遅れる場合もある。法令上は歩行者優先といえど、親切に止まってくれる自動車は路線バスや教習車を除けば滅多にない。だが私という人間は、時間に余裕があるとつい油断をしてしまう性分だ。
「あ、ネコちゃんだ! にゃおーん」
家を出てすぐ出会ったのは、電柱に身を擦り付けているどら猫。その場にしゃがんで頭を撫でると、どら猫はズリズリと彩加の手の甲に頭を擦り付けた。
「うぅーん! かわいいにゃー! どこのお家の子? 野良猫?」
私の問いに対し、どら猫はナーナーと返事をしたので、私もそれを真似して暫し会話を続けた。私の巧みな声真似に、通りかかった数人のクールビズや、アロハシャツ着用のクールビズ、通称アロハビズ姿の通行人たちは思わず気を取られる。
「うぉわああおん、ぬぁああおん、ふひ~い! お鼻ちゅ~んちゅんっ! ぶふふふふっ! 鼻水付いてるにゃあ! おでこズリズリなでなでー! ハンディーサイズの頭はさわり心地サイコーにゃー!」
はじめのうちは私のスキンシップを喜んでいたどら猫だけど、段々としつこく感じるようになり、声は出さず迷惑そうな表情でジャブをする。それでも爪は立てなかった。
「ん? 肉球にぎにぎして欲しいのか! 握手あくしゅー! にひひひひー」
状況通り猫撫で声で興奮し、無我夢中で時間を忘れた私は、いつものバスに僅差で乗り遅れた。
◇◇◇
茅ヶ崎駅北口ロータリーに到着。いつもの駅に行くバスには乗り遅れちゃったけど、学校に行くバスにはまだ間に合う!
あ、もうバス来てる!
コンコースを通って改札口前を通過すると階段下にある南口のバス乗り場には、停車中のバスの屋根がエスカレーターに沿う薄汚れたガラス越しに見える。人の流れに逆らい改札口前に宙吊りされた時計の下を通過したとき、針は7時43分を指していた。それから約10秒経過した現在、発車時間まで残り1分を切ったかもしれない。ちょっと急がなきゃ!
◇◇◇
ふぅ、間に合った。
急ぎ足で階段を下り終えたとき、バスのエンジンはまだかかっていなかった。
「んぐっ!?」
いった~い、安心して気が抜けたら他所見をしていたようで、うっかり駅舎の支柱に顔面を強打してちゃった。鼻から顔面全体に伝う、ジーンと、もんもんした痛みに意識を支配され、クラクラして目を開けられない。
頭を打つと、思い出しちゃうな。
顔面強打の影響でその場に立ち止まり悶える。痛みで朦朧としながらバスに乗るも車内は既に満席で、同校の生徒の声がガヤガヤ騒がしい。前半分の低床部分は生徒で埋まっているため、段差を上がって後ろ半分の高床部分に立った。高床部分には私より先に一人の男子生徒が立っていた。
「おはよう望くん」
先週末、初めての会話で望に不快な思いをさせた懸念はあるけど、努めて平静に、ほがらかな笑顔で話しかけた。
「おはようございます」
気まずいのか大人しい性格からか、望くんは表情を変えず軽く会釈をして返事をした。
◇◇◇
「今朝はお寝坊しちゃったよ。もしかして望くんも?」
「はい。4時まで勉強してて」
今朝、僕は寝坊した。睡眠時間は3時間弱。外出する時間が遅れてバスでは着席できず、乗車時間わずか十分の睡眠は許されなかった。いつもの席に水城先輩が座っていないのは、僕と同じ理由なのか。おかげで人気者の水城先輩と移動時間を過ごせるのは嬉しいけれど、周囲の生徒に羨まれていないだろうか。
「そうなんだ。朝までお疲れさまだね。私も勉強したけど、日付が変わる前には眠っちゃってたよ」
間もなくバスは発車して、加速したりブレーキをかける度、僕の左腕と水城先輩の左腕が触れ合う。睡眠不足なのにいつもより目が冴えてきて、心拍が早まり呼吸が浅く乱れるのを、他愛ない会話をしつつ必死に隠した十分間。肩に余計な負荷がかかって辛いのに、愉悦と狂気が入り混じり、脳が病的な重みを伴い加熱する。難問を解いたときの快感とは異なる、依存性を伴う感覚はきっと、未来の自分が傷付き、勉強まで疎かにしてすべてを失う警戒信号。ここから先は、冷静に、慎重に。
◇◇◇
「おーす!」
バスを降り、停留所の正面にある横断歩道の向こうから大騎が手を振っているのが見えた。鶴嶺さんも一緒にいる。
「おはよー!」
大きく手を振る水城先輩とは対照的に、軽く手を挙げる僕。
横断歩道を渡って来た二人と合流し、横に広がって道を塞がぬよう、水城先輩と僕は大騎と鶴嶺さんの後ろを歩く。
「お? 望と水城先輩って付き合ってんの? てか面識あったんだ」
「つ、付き合ってる!?」
「なんだよ秋穂、高校生なんだから付き合うくらい普通だぞ。お前は勉強ばっかしてないで少しはそういうことにも関心持てよ」
「失礼ね。別に男女交際が如何わしいなんて思ってないわよ」
「ははは、水城先輩とはいつも同じバスなんだけど、おととい初めて会話したんだ」
「なるほど、残念。望に、この望についに彼女ができたと思ったのにっ!」
「どういう意味だよ。それより二人とも、水城先輩と知り合いなんだね」
「そうだよ。秋穂ちゃんは幼馴染みで、おとといの夜、レンタルショップで7年ぶりくらいに感動の再会を果たしたの! 秋穂ちゃんは校内で私の存在に気付いてたのに、声をかけてくれないなんて、ううう。大騎くんとは商店街でいっしょにバイトしてるんだ」
「俺については随分ざっくり紹介するんスね」
「私と東橋くんとでは、彩加ちゃんと積み重ねた時間に天と地ほどの差があるの。それにあなたみたいな露出狂、ぞんざいに扱われて当然だわ。おとといの朝、滝沢くんが止めてくれなかったら今ごろ退学になっていたわよ」
「秋穂が見せろって言うから見せてやろうとしただけだろ!」
「そんなこと言っていないわ。でも興味はあるから、そうね、警察署の前で見せてくれる?」
「おうそうかわかった! 俺はビッグな人間だからそんくらいしても構わないぜ! だがビッグなだけに条件がある。秋穂、お前も一緒に脱ぐんだ、当然、警察署の前でな!」
「ふふふ、あなたは本当に馬鹿ね。私は発育途上なだけに、警察署の前でカラダを晒したところで猥褻物陳列罪にはならないわ。きっと」
「なっ! しまった! そうだった! 悪かった、俺の完敗だ」
「いやいやちょっと待って、そういう問題じゃないよ! なんで大騎も納得してるのさ! 鶴嶺さんに失礼だよ!」
「滝沢くん、それはどういう意味かしら?」
「え、いや、深い意味は……」
鶴嶺さんが自虐ネタを披露するからじゃないか。ここは応戦せず、鶴嶺さんの益々の発展をお祈りしよう。
「ふふふ、ふふふっ」
「どうしたんスか水城先輩」
「彩加ちゃんまで笑うの? あなたにバカにされると本当に悲しくなるわ」
手で口を多い隠しクスクス笑う水城先輩。一見鶴嶺さんを小馬鹿にしているように見えるが、そうではない。
「ううん、なんでもないよ。秋穂ちゃんと大騎くん、仲良しさんなんだね」
「まぁ、仲悪くはないスね」
「なにを言っているの、東橋くん、あなたは本当に失礼極まりないわ」
「うんうん! そっかぁ、そうなんだ!」
◇◇◇
ふふふふふ、そうなんだ! わかった、わかったよ、秋穂ちゃん! これが恋、なんだね! 私、ふたりのこと、全力で応援するよ!
昇降口で三人と別れた私はルンルンと靴を履き替え、足取り軽く階段を上がり教室へ向かった。
お読みいただき誠にありがとうございます!
第1話と前回の第21話に、とともろさんによるイラストを掲載させていただいております! ご覧になられていない方はぜひ!




