その手に白き花束を
有りあまる元気を大地に押し付けてくる太陽が、校舎を白く染める初夏の午後。校庭の木々はここぞとばかりに枝葉を伸ばし、セミたちは盛大にうなり声を上げて生を謳歌する。
音が煩わしく感じるのは校内が無人である所為も有るだろう。汗を吸って肌に張り付きはじめた制服を見下ろして、私は一人溜息を吐く。丁寧にブローしたはずのくせっ毛も元気を取り戻してきたようだ。
校舎にはすんなりと入り込めた。セキュリティはどこへ行ったのだ。教師たちの姿さえ見えないのはどういうことだ。理解が出来ないが、誰にも見咎められないのなら制服など着てこなければよかったと今更ながらにつぶやくとも、その声はセミたちにさえ届きはしない。下着が透けるのを気にしてベストを着てきたのは失敗だったかもしれない。
そもそも忘れ物などをした自分が悪いのだが、祝日に課題を出す教師もどうかと思う。もっと快く祝える状況を演出してはいただけないのだろうか。
階段をグダグダと上るにしたがって思考が負の方向へグダグダと下っていくのを暑さと深いコントラストの所為にして、私は立て付けのよろしくない教室のドアを開けた。
ドアが軋む不快な音はすぐに静寂へと変化した。あれだけ騒ぎ立てていたセミたちさえも。強い日差しが生み出した色濃い影に潜むように、一人の少女が立っていたからだ。
息を飲んだ。心臓が止まるかと思ったほどだ。襟もスカーフも真っ白なセーラー服。スカートさえも白く、その裾や袖から伸びる手足も透きとおるような白さに見える。肩にかかるくらいまでまっすぐに伸びた髪は黒く、そのモノクロの色彩はあまりにも風景から浮いていて、現実感は陽炎の向こうへと置き去りにされてしまう。
ドアの音に気がついたのだろう、少女は黒髪をひるがえしてこちらを向いた。大きな瞳が私をとらえ、うすく紅ののった唇が小さく開かれる。
「誰?」
もちろんそれは、こっちの台詞でも有ったのだが、雰囲気に気圧された私は素直に素性を明かすより他に無かった。
「あ、うん。えっと橘リコって言います。ここの生徒で一年の……あ、忘れ物を取りに来たんだけど……その、あなたは?」
声は緊張のまま上擦ったものの、内容は伝わったはずだ。一気に上がった体温が頭部の血液を勢い良く循環させているが、それは羞恥と暑さの所為だと信じたかった。
「そう。わたしはハナ。佐藤ハナ……どこにでもあるような名前よね」
小さく嘆息を吐き自分の名前を卑下するように彼女は紹介したが、果たしてそうだろうか。ありふれた名前過ぎて逆に無さそうだとも感じられた。整いすぎている彼女にはむしろ似合っている。もしくは、やや古風すぎる嫌いはあるが。
ハナと名乗った少女は、来期からこの学校に通うので今日を利用して、下見に来たらしい。鼓動の響きがどうにか治まってきた私は、それならと案内役をかって出ることにしたのである。
彼女が現実のものであるかどうか、疑惑は残したままに。
三階にある一年の教室から特別教室を巡って順に階を降りて行く。学校にある施設なんてどこも変わり映えしないだろうと考えていたがそれでも差異は存在するらしく、特に我校の古さは特筆に値すると言わざるを得ないらしい。
会話は一方的に私がふっていた。彼女の学校の事や教師たちや授業の事を質問したり、この学校の不満なんかをぼやいたりもした。彼女はそれにぽつりぽつりと返すだけ。それでも次第に打ち解けてきていると感じる瞬間もあった。
先導する私が歩を進めその距離が大きくなると慌てて追いかけてくる。彼女の歩幅は私なんかとは比べるまでも無くお上品なのだ。制服が可愛い、似合っていると褒めるとほのかにその薄紅をほころばせ、同じ色に染まった頬をこちらに向ける。
その仕草は一々可愛らしく、私の心臓を体外へと導こうとする。もっと心を近づけたくて、彼女の白い指にこちらから手を伸ばすまで、たいして時間はかからなかった。
彼女の手はやわらかく、温かかった。少なくとも血の通った生き物だ。可愛らしい生き物だ。もう人外であってもさほど拒絶の意思も無い自分にビックリだ。
言い訳になるかもしれないが、こんな思いに至るのは生まれてはじめての事だ。今まで、彼女と出会うまで同性をそういう目で見たことは一度としてなかった。全てはこのロケーションのおかげであるとも言える。二人きりの空間。ドラマティックな出会い。つながった体温。
頬が緩んでいる事をからかわれるのさえ嬉しかったのだ。
「そういえば、忘れ物って何だったの?」
「ああ、課題だ。忘れるところだった」
一通り校内を見て周り、私たちは教室へと戻ることにする。
同じクラスになれると良いねとか、次会った時は、友達から始めましょうとか、冗談めかして言うと彼女は本当に楽しそうに笑うのだ。
足取りは浮かれていた。フワフワと、どこかおぼつかない。
「課題ってどんな?」
今度は彼女が質問をしてくれる番らしい。それは私に心を開いてくれている証拠かも知れず、嫌な気分にはならなかった。
「んー、何だったっけな」
「忘れちゃったの?」
「そう……みたい。何でだろ。学校に有るっていうのは覚えていたんだけど……」
何だろう、彼女の質問にちゃんと答えてあげたいのに、急に頭が働かない感じがする。靄がかかったようにハッキリせず、前に踏み出せない。
陽が落ちてきたのか廊下も暗く、彼女の白さを強調する。
「どうしたら思い出すかな。それは教室にあるの?」
「え? い、いや、うん。そのはずだと思うんだけど」
「本当に?」
思考は定まらないのに、彼女の声だけがはっきりと聞こえてきて心を揺さぶるのだ。何故だろう。彼女の声しか聞きたくない。セミはどこへ行ったのだ。教師は? 警備員か用務員は?
答える声は無い。当然だ、ここには二人しか居ないのだから。
心配そうに私の顔を覗き込んでくるその表情がいたたまれない。そんな表情をさせたくなくて、焦燥は募るばかりで。
「見つけなきゃ……課題……。探さなきゃ……」
「見失ってしまったのね?」
そもそも今日は何の日だった? 課題はいつ出された? 本当に祝日だった? どうして他の生徒は居ないのだ? 私のクラスはどこだった?
前にまわったハナは震える私の両手を捕らえる。小さく首を傾げる姿に視線が囚われる。
初夏の校舎はその影を一段と色濃く染めていく。辺りに闇を満たして。それでもなお、彼女は白く。その存在だけが黒に浮かぶ。やがてそれは光となって。
「どこにあるんだろう……かだい。さがすのが……かだい?」
「そう。そうね」
彼女の声は優しくて、可愛い笑顔が嬉しくて。
つないだ手だけがそこに在る自分を見つけてくれて。
熱が。その暖かさだけが確かに私と彼女をつないでくれる。
彼女は暖かい光。暗闇から逃げ出したり暴れたりしないのは、そこに彼女が居るからだ。
「どこに……いけばいいの?」
「大丈夫、わたしが連れて行ってあげるよ。リコ」
嗚呼。名前を呼んでくれた。そこに行けばいいんだ。彼女が私を導いてくれる。
真っ直ぐに私をとらえた瞳。とらわれて、うばわれて。
不意に彼女の顔が近付いて。
――そして私は、目を閉じた。
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廃墟になっていた古い校舎には冷たい風が吹き、口付けた光の花束は、ゆっくりと持ち上げるとまるで別れを惜しむようにわたしの周りを回った後に、空へと昇っていく。
声をかけようと口を開いてためらう。
こんな能力のせいで友人の居なかった私に、友達になってくれるといった彼女。明らかに好意だとわかる感情を向けてくれた彼女を、数瞬でもここに留めてしまうことを危惧して。
それでも、もうあの笑顔は見られないのだと思うと、急に胸が苦しくなって。声は、かすれてしまう。
「うん。次にあった時は、友達に、なろうね」
答えは返ってこないから、空に消えていく光の粒を追うのがつらくなる。さみしいよ、心細いよ、とつぶやいてしまいたくなる。
けれどもそれは許されない。だから。
くるりと光に背を向けて。
――そしてわたしは、目を閉じた。




