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第八話 超危険な山 大坂冬の陣

第八部 超危険な山 大坂冬の陣

 

 昨夜よりもわずかに太りぎみの三日月が、水面で静かに揺れていた。

 この月が満月になるころ、わたしはどこから月を眺めているだろうか。

 ふと絶望的な気持ちになって、深いためいきが出た。

 今日もなんとか生きのびました。

 まさにそんな感じの夜だった。

「ねえあたしたちいったいいつになったら、うちに帰れるの。汗で気持ち悪い、シャワー浴びたい、シャンプーしたい。髪がバリバリ。ヘアパックもしたいよお」

 生臭いったらありゃしない。自分のからだをくんくんにおっていたエリカが不満を爆発させた。

 じゃあ魚なんか食べなきゃよかったのに。ひとり三匹の焼き魚を、魚が苦手という花田の分まで合わせて、エリカは五匹も食べた。おなかがふくれたとたん、元気になって本来の傲慢さも取り戻した。

「うるさい。黙れ。どうだっていいだろ、髪のことなんか」

 政治がどなった。

 これからどうしたらいいのか、魚を焼いた火を大事に囲んでの、作戦会議の最中だった。

「どならないでよ。あたしが言いたいのは、早くなんとかしてってことなの。なによ、政治なんか、学校ではあたしのこと、好きだ好きだって騒いでも、いざとなったらなんにもしてくれないじゃない。がっかりだよ。こんなことなら林君にしとけばよかった」

「なんだよそれ」

「それがいやだったら、今すぐあたしの携帯さがしてきて」

「やめなさい」

 ヒロがふたりのあいだに割って入った。

「エリカ、あんたが悪い。そんな自分勝手なわがまま、ここでは通用しない。携帯も、ヘアパックのことも、今は一切口にしない。わかった」

「どうして、口にするくらいいいでしょう。本当にあたし、気が狂いそうなんだもん」

 ヒロが首を横に振ると、エリカは黙ってうつむき、あたかも携帯でメールを打っているかのように親指を動かしはじめた。

 届くはずもないメール。目に見えない携帯。それでもエリカは一心不乱に打ちつづけている。

 エリカ抜きで話し合いが再開した。

「とにかくぼくらが橋から転落したあの場所を一刻も早く探しだすことです。そこにきっとヒントがあります」

「もとの世界に戻れるヒント」

「はい。ぼくらがつり橋から落ちた、どこかあのあたりに、この世界と向こうの世界をつなぐタイムトンネルがあったのでしょう。急いでそのトンネルを探さないと、とにかくこの山は今大変危険な状況にあるのです。いつなんどき、久保先生みたいな目にあうとも」

 とそこまで言って、花田はポケットからミニサイズの本を取りだした。

[入試によく出る 歴史重要用語辞典]。

 ああこれがきっとヒロが話していた、バスの中でも読んでいたという参考書か。水に濡れて全体が異様にふくらんでいた。

 ふとページを繰る手が止まった。花田は顔を上げて言った。

「昨日山をおりたとき、ぼくらが出会った村の長老みたいな人は、今が慶長十九年だと言いましたよね。おぼえてますか」

「もちろんおぼえてるさ。あの目つきの悪い浪人たちのことも」

 政治が答えた。

「あの道はたぶん、浅野の城下町に続く要所の道なのだと思われます。そしておそらく、あの目つきの悪い浪人たちは、豊臣の密偵を浅野城下にもぐりこませないようにするために、城が雇った用心棒。警護の者らでしょう」

「浅野城って、遠足でソフトバレーをした、橿原市のあの城跡」

「はい。この時代、大阪より西方、橿原一帯を治めていたのは、おそらく浅野城城主浅野弘政だと思われます。浅野弘政は、関が原の戦いで東軍として戦さに参加し、その恩賞としてこの地を徳川家康より与えられました」

「じゃあ、それまでは別の領主が」

「はい。芦原重正という大名の領地でした。重正は、関が原の際に、西軍として参戦しましたが、破れ、その後、お家断絶領地を没収されました」

「小学校の総合の町調べとかで、なんとなく聞いたことがあるような」

「たしか、神庭山のどこかに、隠れ里とかってあるんじゃなかった? その芦原なんとかっていう人の家臣が逃げ込んで作ったとかいう」

「はい。そのとおりです。重正の家臣らは、いつの日か切腹に処せられた殿の無念を晴らそうと、浅野の目を逃れ、山に入りました。そこで逃げ延びてきた西軍の落ち武者らとともに、隠れ里を築き、徳川幕府転覆の日をひたすら待ったと伝えられています」

「そういえば、先生が配ったお滝まいり資料集のどこかにも、そんなような伝説が書いてあったな」

「政治君、これは伝説じゃありません、史実です。そしておそろしいことに、今1614年なのです」

「何がおそろしいの」

 花田は参考書のページをまた先にぱらぱらとめくった。

「つまり、もうすぐ大阪冬の陣」

 目の前に差し出し、ここです、と指さした。

「政治君読んでみてください」

 花田に言われて、政治がしぶしぶといった感じで声に出して読んだ。

「☆関が原以降の豊臣氏。豊臣秀吉の子、秀頼は、関が原の戦いのあとも、大阪城を本拠とし、西国の諸大名に影響力を持っていた。1614年大阪冬の陣。家康は徳川氏への対抗をやめない大阪城を攻めた。いったんは講和がなったが、翌年大阪夏の陣で、ふたたび大阪城を攻撃し、豊臣氏を滅ぼした。以降太平の世に」

 政治は何度も花田に読み方を注意されながら、なんとか読みとおした。

「今が八月、ここに書かれてある大阪冬の陣の三ヶ月前だとすると、徳川転覆を夢見てこの山のどこかにこもっている重正の家臣たちは、東西の決戦が近いことをすでに知り、これでようやっと殿の無念が晴らせると、色めきたっていることでしょう」

「それがどうかしたか」

「まだわからないのですか。その動向を、徳川、浅野がぼんやり指をくわえてみていると思いますか」

「あ、そうか」

 ヒロがはっとひらめいたように言った。

「それで昨日の、極悪非道の用心棒」

「そうです。どっちがいつ襲ってきても不思議ではない、この地は今、爆弾を抱えているような状況です。そんな場所で、ぼくらは突然迷子になってしまったのです」

「迷子?」

 ふとエリカが顔を上げた。今の今までどこかに架空メールを飛ばしつづけていたのに、なぜかそのひとことに突然反応したのだった。

「ねえ明日もう一度山をおりようよ」

 その意見にはみんな愕然とした。たった今、花田が山をおりる危険をといたばかりではないか。

「そして警察に強力してもらうの」

「け、けいさつ?」

「あ、この時代は警察っていわないか、ま、よくわかんないけど、町に行けばあるんじゃない、そういうとこ。だって、相手は子どもだもん。ちょっとくらい不審に思っても、突然切り捨てられるようなことないって。時代は違っても、ここは日本。親切なおとなが必ずいて、話を聞いてくれて、お風呂だって入れてくれるって」

「ばかやろう」

 政治がどなった。

「なによ突然」

「ばかだからばか。おまえ、花田の話、ぜんぜん聞いてなかっただろ。これから冬の陣が始まろうってときに、誰が得体のしれない迷子の世話なんか引き受けるか」

「なに冬の陣って、なんの話? 今夏なのに。わけわかんない」

「いいからおまえは黙ってろ。言ったとおりにして、口をはさむな」

 エリカがぷうっとふくれた。

「ちょっと寒いんだけど」

「黙れって言ってんのに…あ」

 ふと見ると、火がすっかり消えていた。花田の話に引き込まれていて、誰もがマキを足すことを忘れていたのだ。真夏の八月だというのに、忍びよる夜気は氷のように冷たい。少しでも体温を逃がすまいと、わたしはかたく身を縮めた。

「さっさと火をつけて」

 偉そうなエリカの声。

「だめだ」

 政治はにべもなく答えた。

「寒い。凍えて死んじゃう」

「我慢できない寒さじゃないよ」

「ヒロ。ヒロまで意地悪言うの。みんなよってたかって、あたしのいうことなすこと、かたっぱしから、だめだめだめだめ」

 エリカがわたしをにらみつけた。なにかもおまえが悪いんだ、とでも言いたげに。

 そんなエリカをヒロがなだめる。

「意地悪じゃないよ。火は貴重だから、無駄遣いできないの」

「ケチ。たった一本くらいいいじゃない。ムカゴ、もっとマッチないの」

 わたしは無言で首を横に振った。

 持ってるのは、家庭用マッチと書かれたマッチ箱ひとつだけ。なかみは、あと二十六本。

「だけど、なんでムカゴだけがマッチ持ってるの」

 月明かりの下で、ふいにエリカが首をかしげた。

「そういえば、おかしな話だな」

「お滝まいりにマッチなんか必要ないのに」

 あっ、エリカが突然叫び声をあげた。

「あのとき橋に火をつけた犯人、あれ、ムカゴだったんだ。あんた、いじめの腹いせに、みんなに仕返ししようとしたんでしょ」

 政治と花田が、同時にわたしを見た。

「突然ごおって火柱が上がったじゃない。あんなこと、ふつうじゃ考えられない。誰かがガソリンまいて火を放ったとしか思えないじゃない」

 全身がかっと熱くなる。一気に血が上る。わからない。どうしてわたしがマッチを持っていたかなんて。そんなこと考えもしなかった。

 まさか、本当にわたしが橋に火をつけたの。

「それは違うよ」

 ヒロの声。

「このマッチは、久保先生のポケットに入ってたんだ。あたしが見つけて、それをムカゴにあずけてたの。あたしってほら、見境なくすぐ川の中に飛び込んじゃうカッパでしょ。だから、ね、ムカゴ」

 あいまいにうなずいた。だけどそんなの全部うそ。

「久保先生って、ほらヘビースモーカーじゃない」

「そうだったっけ?」

 エリカが政治に問う。さあ、と政治は首をかしげた。

「だけどやっぱしムカゴじゃないんじゃない」

「どうして」

「下手すりゃ自分まで死んだぞ」

「あそうか」

 とりあえずエリカはそれで納得したようだ。

 わたしは納得できない。自分のことがまったく信用できない。もし心から自分という人間を信用していれば、記憶がなかろうがあろうが、わたしは火をつけたりしないってみんなの前で胸を張っていえるはずだ。

 だけどそう言えるだけの自信がわたしにはなかった。逆に、そんなことをしそうな人間のように思えてならない。

 ヒロはなぜわたしをかばったりしたのだろう。こんなひどい目にあわせた張本人かもしれないわたしの、いったいなにを信じ、それは違うって、言い切れたんだろう。

「じゃあ誰よ、犯人は」

 エリカの不機嫌な声が夜の闇に沈む。

「もういや。もう一秒だってこんなとこにいたくない」

 ぶるぶると震えながら、膝に顔をうずめた。ママ、パパ、誰か助けて。

 ヒロは無言でエリカの背中にふわっとおおいかぶさった。自分の体温で少しでもエリカを温めようとして。エリカの嗚咽はじょじょに小さくなっていった。

 




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