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第三話 ふたりっきり

第三部 ふたりっきり


 河原からそう遠くはない笹の生い茂る藪の中だった。

 案内された場所に、上下黒のジャージ姿の大柄な男性がうつぶせに倒れていた。周囲をハエがぶんぶん飛び回っている。

 とっさに思いだしたのが、目をさます直前に聞いた断末魔の悲鳴だった。あの声の主だろうか。尾を引くような声に背筋がぞくっとなった。

「誰?」

 とたずねると、

「久保先生」

という答えが返ってきた。

「この人が、くぼせんせい」

 まったく思いだせない。

 思いだせないことが幸いしているのだろうか。

 死体を前にした自分は驚くほど冷静で、悲鳴をあげることもなければ、テレビドラマみたいに、ふらっと気を失うなんてこともなかった。

 気がつくと、そっと手を合わせていた。

 気の毒に。道に迷って崖からすべり落ちたのだろうか。

 久保先生の死体をはさんで、ヒロは山側に、わたしは川側に立っていた。その場所から山上を見上げた。だけど急な斜面を人がすべり落ちたような跡はどこにもない。

「これ見て」

 その場にしゃがみ、ヒロは久保先生のわき腹あたりを指し示した。

「なに」

 ジャージに何か刺さっていた。

 星の形の、鉄製の……。

 え?

「うそ、まさかそんな」

「たぶんそのまさか」

 抑揚のない声でヒロが答えた。

 わき腹に二枚、太ももに一枚、久保先生のからだには、合計三枚の手裏剣が刺さっていた。

 そして首筋には果物包丁くらいの大きさの刃物が一本。おそらくこれが致命傷となって久保先生は亡くなったのに違いない。

「いったい誰がこんなことを」

 ヒロは首を振った。

 こんな時代に手裏剣を使って人を殺すなんて、ふつうじゃ考えられない。犯人はぜったい頭が狂ってる。でなければ人間じゃない。

 そのとき、ヒロがわたしの手を強く握ってきた。大きな手が小刻みに震えている。こみあげてくる得体のしれない恐怖とヒロも今必死で戦っているのだろうか。

 わたしはヒロ以上の力で握り返した。

 だいじょうぶだよ。だいじょうぶだからね。

 心の中で一生懸命ヒロに伝えた。

 それが通じたのか、しばらくすると、ヒロの手の震えが少しおさまってきた。わたしたちは無言で山をおりた。

「あたし、正直に言って、ムカゴがこんなに頼りになる人だとは知らなかった。よかった会えて。でなければひとりで今日一日耐えられたかどうか」

 太陽がこわいほどの早さで、西の空に沈んでいく。

 わたしたちは、なすすべもなく河原にすわりこんでいた。

 すぐそばには、ヒロが木の幹や枝で組んだやぐらが、台風で中止になったキャンプファイヤーのようなさびしさで放置されていた。

 ヒロの予定では、このやぐらに火をつけ、空に煙をまき上げ、その煙を救助のヘリが発見し、晴れてめでたしめでたしという筋書きだった。

 だけどそれにつける火がなかった。

 夏の河原にはたいてい、釣り人やキャンパーの捨てていった百円ライターが何個か落ちているものだから、がんばってさがせばひとつくらいは見つかるだろう、とそう思ったのが甘かった。

 さすが自然信仰の山というだけあって、神庭山のマナーは非常にゆきとどいていた。ライターどころか、空き缶ひとつ落ちてない。

 そうしているあいだにも日はどんどん翳っていく。

 カラスが鳴いている。ねぐらに帰ってきたのだろうか。うるさいくらい鳴いている。わたしたちが聞きたいのはヘリの音なのに。

 助けのないまま、今日も一日終わるのだろうか。

 まる一日なにも食べてない。川の水ばかり飲んでいる。胃袋はきっと水風船のような状態になっているのだろう。

 そのとき、空腹で死ぬという可能性だってあることに気づいて、目の前が暗くなった。

「食べる? 最後の一枚」

 ヒロがポケットからガムを一枚出して、わたしに差し出した。

「久保先生のポケットに入ってたんだ。ライターかマッチを持ってないかなって思ってさぐってたら、たまたま出てきたんだよ。生徒たちには、おやつ禁止っていってたのにね」

「……」

「え、なにその目。やっぱりいけないことだって思ってんの? そりゃあたしだって考えましたよ。人のもの盗んで食べるなんていけないことです。わかってます。

 だけど、死んだ人にもうガムはいらないでしょ。あのままアリにやるよりはいいかなって思って、先生にちゃんと手を合わせて」

「違うの。そうじゃないの」

 わたしはヒロの言葉をさえぎった。

「どうしてなの」

「どうしてって」

 きょとんした目でたずね返した。わたしの質問の意味がまるで理解できないといったように。わたしはびっくりした。何に驚いてるのかじぶんでもよくわからないけど、手していた箱をいきなりひっくり返されたような感じがした。

「はい、どうぞ」

「いらない」

「なんで」

「そんな大切な最後の一枚を、わたしなんかがもらえない」

「そんな大げさな、たかがガム一枚のことで」

 ヒロは屈託なく笑って、わたしの手の上にガムをのせた。そのガムをわたしは紙のまま半分にちぎって、ひとつをヒロにわたした。ヒロは素直に受けとった。

 ガムはブルーベリーの味だった。かむと、甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がって、たった半分でもじゅうぶん満足できた。一回一回味わってかんだ。かんでいるあいだ、なんども、うれしいと思った。ガムで空腹をごまかせたことより、ガム以外の何か大事なものをヒロからもらったという喜びが大きく、それがなによりうれしかった。

 言葉で説明すると、何かから解放されたような気分だった。だけどそのまま口にしたところで、またそんな大げさなと笑われるだけだと思い、黙っていた。本当はうれしさのあまり涙までこぼれていたのだけど。

 すっかり暗くなると、どちらから言い出したわけでもなく、ヒロのたてたやぐらに身を隠すようにして、ふたりでからだをよせあった。

「花田は運動はからっきしだめだけど、とにかく勉強ができるんだ。ここに来るバスの中でも、みんなが歌で盛り上がっている最中に、ひとりだけ、ポケットサイズの[入試によく出る 歴史重要用語辞典]なんてのを読んでた。

 例えばあたしなんかがそんなことすると、熱でもあんの〜って、感じだけど、花田だと誰も何も言わないんだよね。ありふれた光景っていうか。

 おやじが医者で、かあちゃんが大学教授。兄貴は京大の医学部。

 で、あいつの場合、高校はなにがなんがなんでも、N大付属に合格しなきゃなんないんだって。そんなやつ」

 クラスメイトのことを教えてほしいと言ったら、同じ班だった人のことを順番に教えてくれた。

 エリカは、自分の思いどおりにならないと、すぐにぷっとふくれるタイプ。ちょっとあんた、何さまのつもり? って感じ。思ったことは何でもずけずけ言うので、トラブルも多い。

 だけど、超わがままでも、甘え上手のせいか、なんか憎めないのだそうだ。彼女の頭の中は、高校進学よりも、芸能界にデビューすることでいっぱいらしい。

 政治は、自称エリカファンクラブの第一号にして名誉会長。

 じいさんは国会議員で、とうちゃんは県会議員。それでもって、政治って名前をつけられた自分も、将来は政治家になるつもりでいるらしい。

 バカのくせに。

 そう言ったヒロは、この政治って子が嫌いなのかもしれない。

 金と親の力で何でもできるって思いこんでるんだとも言った。

 ヒロのおなかが鳴りつづけている。

 あまりに接近しすぎて、自分のおなかがなっているような錯覚を起こす。

 明るい月が川面で揺れていた。

 かさかさと木の葉のこすれる音に、ヒロのかすかな寝息が混ざる。しばらくその規則正しい音に耳を傾けていた。

「ムカゴ」

 突然ヒロがわたしを呼んだ。

 眠っていたとばかり思っていたのでびっくりした。

「起きてたの」

「ううん。寝てたの。だけど夢の中で、ムカゴにありがとうって言い忘れたことにはっと気がついて目がさめたんだ。ありがとうね、ムカゴ」

 なんのことだかさっぱりわからない。わたしがあっけにとられているあいだに、すぐにまた眠りに落ちた。

 ねぼけてたのか。いったいどんな夢を見ていたんだろう。わたしの腕を枕にして、大きなからだを丸め、すやすや寝息をたてていた。

 




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