第二十七話 明日の予感
第二十七部 明日の予感
ここはどこだろう。
樹木がいっぱい生い茂っている。
重なり合う小枝や緑の葉っぱ。そのすきまをぬって届く太陽の光がとてもまぶしい。
なにも思いだせない。
あれ?
「ムカゴ?」
ヒロ? なんで。目をあけたわたしのすぐ上に、おおいかぶさるようなヒロの顔があった。
「先生、ムカゴ、気がついた」
ヒロが叫んだ。はっとして身を起こし、びっくりした。わたしは休憩用のベンチに寝かされていて、そのわたしのそばに、ヒロ、エリカ、政治、そして少し離れたところで、花田があの参考書をひらいている。
ベンチの裏にあるログハウス風のトイレから、タオル片手に誰かがあわてて飛び出してきた。久保先生だ。ピンクのプーマの靴で階段を駆け下りてくると、ベンチの前にしゃがみ、心配そうにわたしの顔をのぞきこんだ。
「向井、だいじょうぶか」
久保先生は濡れたタオルを、よっつにたたんで、わたしの頭にぽんとのせた。はいと一応うなずく。顔がかゆくてたまらない。手で触れると、ざらざらしていた。
「横になってろ。もう消防隊がつくころだと思うから」
状況がよくのみこめない。
ベンチのすぐ向こうに、政治が燃やしたはずの橋が見えた。橋の下は深い渓谷になっていて、ごつごつした岩と、流れの速い川が見える。
「あの、先生、いま、何年何月何日ですか」
わたしが声を出すと、みんなびっくりしたように、いっせいに振り返った。
目をまん丸にして、花田なんか参考書をひらいたまま顔だけこっちに向け、ふくらんだ鼻をぴくぴくさせている。演技にしてはうますぎる。わたしがしゃべれるようになったことを、みんなまだ本当に知らないのだ。
「平成十八年八月二日だが」
耳にした瞬間、驚きとおかしさの両方が入り混じった、不思議な感情にとらわれた。
「よかった。本当によかった。ムカゴが助からなかったら、俺」
突然政治が泣きだした。わたしを見て、うれしそうなのに、ぼろぼろと涙をこぼしている。そんな政治の肩を、久保先生がうしろからかばうように抱いた。
「消防の人が来たら、俺、正直に全部話すよ。おやじの事務所に火をつけたことも、橋を燃やそうとしたことも、ムカゴがそれを止めようとして、命がけで火に飛び込んでいったことも、ちゃんと言うよ。ありがとうムカゴ、俺、どうかしてた、おまえのおかげで目がさめた」
そうか、そうか、久保先生は政治をいつくしむように、なんども繰り返し頭をなでた。
「ムカゴ」
エリカがわたしを呼んだ。
「なに」
「勇気あるんだね」
それだけ言うと、照れくさそうにくちびるをへの字に曲げた。
「なにそれ。さっき言ってたのと全然違う」
ヒロがあきれて、エリカを腕でつついた。
「ムカゴはすごい勇気のあるやつだ、いじわるして悪かった、もし気がついたら、今までのことあやまる、それでとっておきのスキンケアの方法を教えるんだとか、言ってたじゃない。ほれ、ごめんねって、言わなきゃ伝わらないよ」
「あれれ、とかなんとか言って、結局全部、言ってしまいましたね」
花田が言うと、みんなどっと笑った。
わたしもいっしょになって笑った。
本当は言わなくても十分伝わっていたんだけど。
人の心の奥には、言葉にならないいろんな感情が潜んでいて、なかには、正面から向き合うにはあまりにもつらく消したいほど悲しい思いもあるけれど、だけどその底にはきっと、人を思う優しさや、自分を裏切らない誠実さや、命の尊さを知る謙虚さといった感情もいっしょに横たわっている。
それらを全部ひっくるめて、ひとりの人間なんだ。
わたしもエリカも。
もうだいじょうぶ。わたしは信じている。
「立てるか」
久保先生が言った。だいじょうぶです、と答えて立ち上がった。
「じゃあ、お地蔵さんのところまでみんなで戻るか」
遠くで救急車のサイレンの音が聞こえていた。
帰ったらお兄ちゃんのお墓まいりに行こう。そのとき唐突にそう思った。
お兄ちゃんの生きられなかった分と、わたしの分と、たして十倍したくらいの気持ちで明日から生きていくから。
お兄ちゃんはきっと笑って、がんばれよって答えてくれるだろう。
ハクとそっくり同じ、あのすべてを許す微笑みで。
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