第二十六話 オン マリ シエ ソ ワカ
第二十六部 オン マリ シエ ソ ワカ
はっと我に返った。
うとうとしている耳もとで、風船をぱんと割られたような感じ。
そうだ影。あわてて周囲をみまわした。影なんかどこにもない。あいつに足首をつかまれたと思ったのに。どこかに引きずり込まれるようないやな感触だけが生々しく残っている。
「ちょっとだいじょうぶ」
ヒロがかけよってきた。
「なにやってんの」
「わ、わたし」
「呼んでるのにかたまって動かないから、立ったまま気を失ってんのかと思った」
「影、さっきの声」
「なにいってんの、早く。こっちよ」
強引にヒロに腕をひっぱられた。見ると、沼から少し離れた雑木林の中に、エリカと花田が立っていた。
「急いで」
「だって」
「ハクがあそこで待ってろって言ったでしょ」
ハク。名前を耳にしたとん、さっきの声がよみがえった。
ソロエナラベテ イツワリサラニ タネチラサズ イワイヲサメテ ココロシズメテ
あの不思議な呪文。心の奥にじかに響いて、得体のしれないどろどろの影を追い払った。
ハク、ハクはどこ。
「ハクならあそこよ」
ヒロの腕がまっすぐに沼の中央をさした。のどがひくっとなった。水草にびっしりと埋めつくされた沼の上にハクが立っていた。両手の中指と薬指をあわせて手を組んだ姿勢で、まぶたをしっかり閉じ、その顔は九兵衛たちの方に向けられていた。
オン マリ シエ ソ ワカ オン マリ シエ ソ ワカ
ハクのくちびるが動いている。声は風のように細くかすかだけど、繰りかえしそう聞こえる。オンマリシエソワカ。
九兵衛と三人の男たち。にらみあったまま微動だにしなかった均衡がいつしか崩れていた。鼻の曲がった男は鎖鎌をぶんぶん振り回し、九兵衛の距離は確実に縮まっていた。
「九ちゃんが」
「だめ。ここはハクにまかせるの。早く」
服をひっぱられ、引きずられるようにみんなのもとに連れていかれた。
「おまえら、逃げるなよ ひいっひっひっ」
政治が石をつかんで放り投げた。両足をばたばたさせ、腹を抱えて笑ってる。政治は完全に狂ってる。いつから狂ってたんだろう。
がしゃっと音がした。はっとして見ると、九兵衛の左の鎌に、鎖が巻きついていた。鼻の曲がった男が、鎖をぎりぎりとたぐりよせる。九兵衛が引きずられる。九兵衛が鎌から手を離した。男がよろめいた。その一瞬のすきに、九兵衛はジャンプして、男の背後にまわった。九兵衛が鎌を振り上げる。しかし男の動きの方がほんの少し早かった。太い鎖が、ぶうんと音をたて宙を舞った。
「九ちゃん、危ない、うしろ!」
エリカが叫んだ。ぎりぎりのところで、九兵衛が飛んだ。鎖の先についた鉄のかたまりが、ずしんと地面にめりこんだ。九兵衛が体勢を整える。両手で鎌をしっかり握りしめ、低く身構えた。
ハクは目をつむり、ひたすら真言を唱え続けている。密度の濃い空気がハクを取り囲んでいるのを感じた。この世界にみちているあらゆる気、あらゆるエネルギーが、ハクのもとに集まっている。
そのとき、ごごごごご、と猫がのどを鳴らすような音とともに、かすかなな振動が足もとから伝わってきた。
「じ、地震だ」
花田が騒ぎ出した。
「見て」
と言って、ヒロが顔を上に向けた。はるか頭上のイワコトサキ岩がぐらぐら揺れていた。エリカがひっと叫び、それっきり言葉を失った。
もしあのままころがり落ちてきたら、あの巨大なイワコトサキ岩は沼に突っ込む。
まさか、それがハクの唱えている真言の狙いなのでは。
鎖鎌のたび重なる攻撃に、九兵衛の息があがってきていた。鎖の片方には鎌、もう片方には鉄の玉。その両方がクロスして同時に飛んでくることもあった。得意のジャンプも目に見えて反応が遅くなり、鎖に足をとられるのは時間の問題かもしれない。しかも、そのうしろには、ピンポン球の男と、刀男のあとふたりも控えている。
あやふやだった思いが、確信につながっていく。
男たちと政治は、切り立った崖を背にしている。だから、その上のイワコトサキ岩がぐらついていることを知らないし、まさかそんなことになっているとは夢にも思ってないはずだ。
ハクの額に大粒の汗がびっしり浮かんでいる。それが、遠く離れているわたしにも見える。
「わたしたちも祈るのよ。ハクに力をかすの」
見よう見まねでハクがしているのと同じ形に手を組んだ。人さし指以外の感覚が驚くほど鈍く、右と左の指がこんがらがる。もどかしくいらいらしていると、「これからどうすんの」、ヒロが言った。しっかり組めてる。身体能力の差をこんなところでも痛感する。
「オン マリ シエ ソ ワカよ。イワコトサキ岩に全神経を集中させて」
「わかった。オン マリ シエ ソ ワカね」
ヒロは一度だけ繰り返し目をつむった。
オン マリ シエ ソ ワカ オン マリ シエ ソ ワカ オン マリ シエ ソ ワカ オン マリ シエ ソ ワカ
花田の声がヒロの声にかぶさって、そのふたりの声に、さらにわたしの声がかぶさる。閉じたまぶたの裏側に、正確に言うと、目と目の間にある部分に、不思議な形に組んだ自分の手が浮かんでいて、その指の先の一点を、わたしの中にあるもうひとつの目が見つめていた。
いつしかわたしは、イワコトサキ岩の中に入り込んでいた。イワコトサキ岩の中はがらんどうで、暗く、まるで宇宙に浮かんでいるようだった。わたしは、オン マリ シエ ソ ワカと唱えつづけた。わたしは、宇宙のひとかけらだった。
来る、はっきりそう感じた。かっと目をみひらくと、今まさにイワコトサキ岩が、高さ数百メートルの崖の上から、ころげ落ちようというところだった。
次の瞬間、大地をまっぷたつに引き裂くような轟音が、耳をつんざいた。イワコトサキ岩がころがり落ちてきた。バキバキと樹木をなぎ倒し、大地を踏みつけ、一直線に政治たちのいる方に向かう。なぜかそれが、怒り狂った鬼が山を駆け下りている姿とだぶって、ぶるぶるっと震えがきた。
横で見ている花田の口が顎が外れたのかと思うほど、だらしなくひらいている。
高くはねながら、ハクが沼から戻ってきた。来るとすぐ、わたしと花田を両腕に抱え、高く飛んだ。二、三度衝撃があって、気がついたときには、木の上だった。そおっと下をのぞくと、樹上を見上げているヒロの顔が粒のように小さくて、あわてて木の幹にしがみついた。
「ここから動かないで」
ハクが言った。反対側から幹にしがみついている花田の歯ががちがちとなっている。動けといわれても、わたしたちには絶対無理。
ヒロは? と思って下を見ると、すでにその姿はなかった。いつのまに飛んだのか、別の木のほぼ同じ高さの枝にしっかりと立っていた。すごい。完全にわざを身につけたのだ。ヒロがどうって感じで親指をたてた。
沼の方で悲鳴が聞こえた。九兵衛に気をとられていた男たちが、ようやく自分たちに向かってころがり落ちてくる巨岩に気づいた。だけどもう間に合わない。九兵衛は、あわやというところで跳躍し、ころがり落ちるイワコトサキ岩をさけて、そのあと別の木の上に逃れたが、逃げ場を失った政治と男たちは、あわてふためき沼に飛び込んだ。
「政治!」
ヒロが叫んだ。
「うわあああああ、助けてくれー」
びりびりとしびれるような政治の絶叫が、木の上にいるわたしの足もとまではいあがってきた。
その瞬間、ヒロが飛び降りた。
「だめっ、間にあわない、ヒロもいっしょに死んじゃう」
ヒロが空中でくるっと一回転した。いまにも泣きだしそうなわたしに、Vサインをして見せたように思ったのは、目の錯覚だろうか。
「死もまた生。最後まで自分らしくあるのが、生きるものの務め」
その声にはっとなってハクを振り返った。すべてを許す微笑みで、ハクがわたしにうなずいた。
うん、とわたしもうなずいた。
オン マリ シエ ソ ワカ
木の上で、腕をいっぱいに広げた。わたしは宇宙のひとかけら。たったひとりのわたし。
オン マリ シエ ソ ワカ
ヒロのあとを追って、わたしは飛んだ。宙をまっているとき、イワコトサキ岩が沼に突っ込むのが見えた。どおんという衝撃音とともに、突然大地震に見舞われたように神庭山全体が揺れた。視界が激しくブレた。
目をあけてもとじても同じだった。暗くて長いトンネルをどこまでも落ちていくような感覚だけがあった。
わたしはせいいっぱい、腕をのばした。
「この手をつかんで。みんなで、生きて帰ろう」
1