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第二話 記憶喪失

第二部 記憶喪失


 その人を見てはじめて、わたしは、自分が身につけている服が学校の体操服であったことに気がついた。

 襟ぐりと袖ぐりに青のラインが入った白のシャツに、紺色のクォーターパンツ。シャツの右胸には、学校の校章らしき、「中芦」のマークがプリントされている。靴はアシックスの完全白のスニーカー。靴下も完全白。

 まったく、同じスタイル。たぶんわたしと同じ中学校の生徒。

 なにをしているんだろう。反対岸の急な崖を向いて、枯れ枝のようなものを拾い集めている。作業によほど集中しているのか、わたしがうしろに立ってみているのにもまったく気づかなかった。

「すいません」

 できるだけ驚かせないように、やんわり声をかけたつもりだったが、ひどくこわがせてしまったようだ。振り返った顔が恐怖に凍りついていた。

「驚かせてしまってごめんなさい」

 あやまりながら、心の中ではほっとしていた。その人が女子生徒だったからだ。背が高く上半身ががっちりしているので、顔を見るまでは、てっきり男子生徒だと思いこんでいた。

 だけど、どこかで見た顔。

「ム、カゴ? あんたしゃべってんの」

「は?」

 次の瞬間、彼女の手から小枝がすべり落ちた。

 そのあと、狂ったようにわめきながら、岸に向かって駆けてきた。だけど必死にもがいても、流れのある深みでは思うようには前に進めない。もどかしくてたまらないという感じで、彼女はどぶんと頭から突っ込んだ。

 そしてあっというまにクロールで岸までたどりつくと、全身ずぶ濡れなのもかまわずに、わたしに抱きついてきた。

 からだに触れた瞬間、彼女は「ああ」という吐息をもらした。それっきり、何も言わず、黙ってわたしのからだを抱きしめつづけた。人の体温が恋しくてたまらなかったのだという感じで、吸盤のように肌をぴったりと押しつけてきた。

 しばらくして彼女がわたしからからだを離した。顔をあげたときには、さっき張りついていた恐怖もすっかり消えていた。

 わたしたちは並んで河原にすわった。

「よかったムカゴ。生きててほんとによかった。声も戻ったね」

 彼女はまずそう言った。小麦色に焼けた顔。真っ白い歯がこぼれた。

 生きててよかった? 声が戻った?

 意味がわからない。ムカゴというのは、わたしのあだ名? 

「ねえ、ここ、どこだかわかる? あれからもう丸一日たつのに、誰も助けにこないなんて変じゃない? 何かおかしいんだよね。風景がほんの少し違うっていうか。あたしたちいったい、どこまで流されちゃったんだろう。ムカゴ、ひとり?」

 わたしがうなずくと、彼女はためいきをついた。

「あたしはこんなとき、あまり動きまわらない方がいいと思う。雪山で遭難したときも、助けが来るまで、その場でじっとしてるって言うじゃない」

 遭難? 

「遭難したの、わたしたち?」

「は?」

 彼女はぎょっしたようにわたしを見て、目の前でひらひらと手を振った。

「もしかして、あなた、だいじょうぶ?」

「なにもおぼえてないの」

 正直に答えた。わたしがおぼえているのは、目がさめてから山を下り、今ここにいる。そのたった数時間のことだけだ。

「からかってるとか、まさかそういうことないよね」

「うん」

 彼女は絶句した。

 わたしを見る目のたまだけが、そわそわと落ち着きなく動きまっている。

「まさか、自分の名前とかも」

「うん」

「住所、年齢、家族構成」

 左、右、左、質問に一回ずつ首を振った。 

「きっと、橋から落ちたときに、どこかに頭をぶつけたんだ」

「橋から落ちたの、わたしたち」

 わたしの質問に、彼女は一瞬言葉を失ったようだったけど、すぐに気を強くしてわたしの手をとった。

「だいじょうぶ、すぐに助けが来る。信じよう」

 彼女の声は勇気と希望にみちあふれていた。自分だって不安がないはずはないのに、そんなのおくびにも出さずに。とても強い人だと思った。

 しっかりと包まれた手があたたかい。

 だけど本音を言うと、わたしはたぶん、この人が心の中で想像しているほどには、記憶を失ったことをつらいと感じていなかったし、何が何でも助けがほしいと思っているわけでもなかった。

 彼女が時々瞳の中に浮かべる同情の色にも、妙に違和感をおぼえ、そんな自分が不思議でならなかった。

 片山大子。

 それが彼女の名前だった。

 大きい子と書いてヒロコと読むのだそうだ。

「名は体を表すって本当でしょ。みんなにはヒロって呼ばれてるの。よろしくね」

 と言ったあと、これって春にしたのと同じ自己紹介だよ、と彼女はおかしそうに笑った。

 わたしたちはクラスメイトなのだった。

 芦原市立芦原中学校三年四組。

「それで、あなたの名前は向井和子。みんなにはムカゴって呼ばれている。とても無口でおとなしいっていうか、実は誰とも口をきかないんだ。だから驚いてる」

「わたし、なぜしゃべらないの」

「なぜって、本人に聞かれても」

 ヒロは困ったような顔をして、「あたしが知ってるのは、小学生の時からずっとそうだったらしいっていうことだけ」

「へえ」

 自分のことなのに、赤の他人のことを話しているような強い違和感。しゃべらないで、どうやって自分の気持ちを人に伝えていたんだろう。理解できない。

「変な人だね」

 わたしが言うと、ヒロは少し間をおいてから、爆笑した。

 ヒロは、最初のうちわたしが「ヒロ」と呼びかけるたび、いちいちわたしの顔をのぞここんで、目を丸くしたけど、たくさん話すうちに、慣れてそんなこともなくなった。

「ねえヒロ、わたしたちいったいどうしてこんな山の中にいるの?」

 わたしがたずねると、ヒロは、「お滝まいり」の途中でわたしたちが巻き込まれた、八月二日の事故について語ってきかせてくれた。

「お滝まいりというのは、毎年夏休みに芦原中の三年生だけが取り組む、神庭山登山行事のことで、途中に点在するいくつもの滝に、高校受験合格を祈願しながら登るのでお滝まいりと呼ばれているんだ。

 朝早く学校を出て、サンショウウオセンターがある五合目まではバスで登り、そこからは徒歩。渓流ぞいのけわしい山道には、神さまが宿っていると言い伝えのある滝が大小二十四あって、そのひとつひとつに手を合わせながら進んでいくんだ」

「へえ」

「なんか思いだした?」

 ううん。ぜんぜん。つまらない行事もあったもんだと思っただけ。

 ヒロはがっかりした様子。

「あわてずあせらずあきらめず」

 どこかで聞いたことのあるようなセリフを、ひとりごとのようにつぶやく。

「それで」

 話をうながす。ヒロは続けた。

「あたしたちは同じ班だった。サンショウウオセンター前のお地蔵さんに集合したあと、予定どおり午前九時にスタートした。

 一つ目は風車の滝という名前のついた、落下する水が途中で回転してるように見える滝。スタンプを押し、みんなでおまいりした。そして次のポイント、竜眼滝をめざしたんだ。つり橋をわたった。その下は深い渓谷だった」

 なんか思いだした?

 今度は目だけで訴えてきた。いいや、と首を振った。

「そのあと、なんだよね」

「なにが?」

「橋が突然燃えだしたの」

「え?」

 一瞬耳を疑った。

「うそ」

「うそじゃない。本当に燃えたの。突然。わたしは班の一番先頭を歩いていた。すごい炎で、そのあと谷底にまっさかさま」

 ふいに、荒縄で編まれたつり橋が燃えながら谷底に落ちていくイメージが頭の中に浮かびあがった。大きな岩に頭をごつんとぶつけて。

 痛いっ、という感じまでしたけど、想像の域は出ない。

「まったくおぼえてない」

 わたしが言うと、

「うらやましい」

ヒロが冗談っぽく笑った。

 そんな目にあって、おかしくならないのもつらいもんだなと思った。

「わたしたち以外にも、橋から落っこちた人っているの?」

 たずねると、えーっと、と言いながらヒロは指を折った。

「エリカでしょ、花田でしょ、それに政治」

「みんな同じ班だったんだ。あと、そこにたまたま久保先生もいた。なぜかは知らないけど、先に橋をわたっていたあたしたちを、血相変えて追いかけてきて、何か叫んでいて、そのあと突然橋に火がついたの。

 ちょうど久保先生とあたしたちの間で、ぐわっと火柱が立ったという感じで、あとはもう何がなんだか」

「わたしたち以外の人はどうなったの」

 ヒロは足もとの小石をひとつつかんだ。

 うつむいて無言で握りしめている。

「人間だもん。死ぬことだってあるよね」

 ヒロがつぶやいた。少し考えたが、どう考えても、わたしの質問に対するまともな答えとは思えない。

「はっきり言って」

 わたしが言うと、ヒロはわたしの目を見つめた。

「でも、驚くよ」

「絶対驚かない」

 きっぱりと答えた。

「わかった。じゃ、いっしょについてきて」

 ヒロが立ち上がって手を伸ばした。その手をつかんで、わたしも立ち上がった。


 




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