第十九話 ハクの秘密
第十九部 ハクの秘密
静かだった。戦など、いったいどこの世界の話かと思うほど、穏やかで平和な時間が、ゆったりと流れていた。
「どうしたのハク」
急にハクがむっくりとからだを起こした。子どものおもりがよほど退屈で、ふて寝しているのだとばかり思っていた。
「おーい」
バタフライで向こう岸についたヒロを呼んだ。きょとんとして、ヒロが振り返る。
「次はぼくが相手です」
おもむろに袴をぬぐと、ふんどしひとつになり、肩をぐるんぐるんと回した。
「ハクは本当は真田様の子なんだよ。だけど、生まれてすぐ、能海坊様にあずけられたんだ」
かたやきまんじゅうを歯でくいちぎって、九兵衛が言った。
「え、真田様って、あの九度山にいる?」
と言いつつ、わたしもふたつ目のかたやきまんじゅうに手をのばした。かたやきまんじゅうというくらいあって、本当にかたい。まるで石。だけどかめばかむほどに味が出て、おいしいのかおいしくないのかやくわからない不思議な食べ物でもある。
九兵衛にきくと、作り方は、塩を混ぜた小麦粉を水でのばし、よく練って、それを小判型にして両面を焼いただけだという。日持ちがするので、修行者が何日も山にこもる際に、携帯食として持参するそうだ。
「うん。だけど、ハクがここに連れてこられたのは、まだ九度山送りになる前のころ。そのころの幸村さまは上田城の城主の御曹司で、でっかい領地をおさめるお殿さまっだんだ」
「なんでまたそれが、こんな遠く離れた小汚い神社へ」
「さあ。理由は知らない。でも、おとなはときどき、公にはできないどろどろした事情を抱えてしまうもんさ」
「へ、、へええ、、、」
「ハクは親のことは何も知らされずに能海坊様に育てられた。オレっちや、ほかの弟子たちといっしょに。それが二年前、突然、真田様から連絡があったんだ」
九兵衛は声を大にして、こぶしをつきあげた。
「息子よ、真田家の名のもとに、徳川に反発する地侍、西軍の残党で作る、隠れ里の豊臣軍を団結させて、指揮をとれって、感じ。
そのときハクは生まれてはじめて、御師の弟子にすぎない自分が、実は真田幸村の血を引くものだと知らされたんだ」
ひどいよね。かたやきまんじゅうを、がじがじしながら九兵衛はつづける。よくみると、前歯が二本抜けていた。
「ハクは親に甘えた経験もないのに、いまごろなんだよ、いったんはハクを捨てといてさ。オレっちには、徳川を打つ、憎む理由がある。大好きなかあちゃんを、とうちゃんを目の前で無残に殺された、根拠がある。だけど、ハクにはそれがないんだ。見ろよ、オレっちの顔の傷。これが証拠だ。これがある限り、忘れちゃなんないことがある。
けどハクにはそれがない。突然、親だからって、戦えって。なんだよそれ。ハクがかわいそうだよな」
九兵衛は池の方に目を向けた。ハクはヒロに何度目かの背泳ぎ競争を挑んでいる。大げさに水しぶきをあげ、だけどヒロの方がだんぜん速い。負けても負けても、ハクは意地になって、やめようとしないのだった。
「しかしまるでガキだね。こんなハク、はじめてみた」
いつも冷静で気高く、人を小ばかにしているようにも感じさせるハクにこんな幼い面があったとは、つきあいの浅いわたしですら驚きだった。
いや、つきあいが浅いからこそ、こういう生身の面がさらけだせるのかとも思う。過去も未来もけっしてまじわりあうことのない、行きすがりのわたしたちの前だから、安心して無防備でいられるのかと。
「ふたりとも、もういいかげんして、休憩したら」
エリカが池のかっぱのようなふたりに声をかける。
「そうだよ、おなかすいたよ」
「食べたら、平泳ぎとかいうので、もう一戦」
「えーっもうやだあああああ」
ヒロが悲鳴とともに、ぶくぶくと沈んでいった。
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