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第一話 わたしはだれ

 第一部 わたしはだれ。

 

 誰かの悲鳴ではっと目がさめた。

 ここはどこだろう。

 樹木がいっぱい生い茂っている。

 重なり合う小枝や緑の葉っぱ。そのすきまをぬって届く太陽の光がとてもまぶしかった。

 山だ。それも深い山の中。

 そんな深い山々にはさまれた、V字の底のような部分にわたしはいるのだった。

 小鳥のさえずりと川のせせらぎ以外なにも聞こえない。

 さっききいた悲鳴の主は誰?

 夢だったのだろうか。思いだしただけで背筋が凍る。断末魔の叫びというのはきっとああいう声をいうに違いない。

 おずおずとからだを起こした。

 すぐそばを川が流れていた。岩にあたって砕ける水しぶきが綿雪のような渓流で、まるでカレンダーの中の風景写真を見ているようだった。

 その少し先に滝が見えた。岩をまっぷたつに割って、そのあいだをまっさかさまに流れ落ちている。

 とても静か。

 ここはどこ。

 なぜわたしは、こんなさびしい山の中にひとりでいるんだろう。

 なにひとつ思いだせない。

 なのに、いまいち考えようという気力がわいてこない。頭の芯がちりちりして、からだもだるい。ひどく疲れていた。そのせいかもしれない。

 そばにあった、大きな岩にからだをあずけた。おとながしゃがんだくらいの大きさで、もたれかかるのにちょうどよかった。

 せせらぎに耳をすましていると、自分自身が川の一部になって、とけて流れていくような錯覚に落ちた。ふわっと意識が遠のいて、やがてまた眠ってしまった。

 

 次に目をさましたときには、からだがだいぶ回復していた。

 太陽はすでにはじけるような輝きを失い、そのかわりに山全体をどっしりした厚みのあるオレンジ色で包んでいた。

 山は日が落ちるのが早いという。

 記憶は戻っていなかったが、とにかく下山しなければと思い起き上がった。

 どっちへ行ったものか。

 ぐるっと見回したが、道らしい道はどこにもみあたらなかった。山の斜面はどこも急で、樹齢千年を越すような巨木にみっちりとおおわれていた。とても登れそうにない。

 川にそって下ることにした。

 どんな川だって最後には絶対海にたどりつくのだし、というそんな軽い気持ちだった。


 しばらく行くと、また滝の音がかすかに聞こえた。

 もうこれで四つ目。

 どうしてこんなに滝ばかりあるんだろう。

 滝といっても、高さ何十メートルもあるような崖を、ドドドドッと落ちるようなものはないので、今のところは、こけむした巨岩に足をすべらせないように注意してなんとかおりられてはいるけど、いつなんどき、にっちもさっちもいかないような、ばかでかいやつが現れるんじゃないだろうかと、気が気じゃない。

 四つ目の滝は双子だった。

 滝に双子という言い方は変かもしれないけど、そっくり同じ形の小さい滝がふたつ隣り合わせに並んでいた。

 ふたつだから、遠くからでもあんなに大きな音がしたのか。

 近づくにつれどれほど大きな滝なのかとどきどきしていただけに、実物を見てほっとするのと同時に、拍子抜けした。

 手をつかわなくてもかんたんに降りることができた。

 歩きだして小一時間はたっただろうか。時計がないのでわからないが、心なしか小石の角がとれて丸みを帯びてきているような気がする。

 山をおりるまでに、あとどれくらい時間がかかるんだろう。行けども行けども樹木は自然のままの密に生い茂って、杉やヒノキなどが植林された形跡はどこにもなかった。

 もしそういう場所を見つけたら、そこから林道に入れるかもしれないと期待してまっているのに。

 双子滝の河原で休憩をとった。

 手ですくって川の水を飲んだ。冷たくて硬い感じのおいしい水だった。

 滝つぼは絵の具を何色も混ぜたような複雑な緑色をしていて、中に手のひらくらいのアマゴが何匹も泳いでいた。

 ふと奇妙な気持ちになった。広さといい環境といい、キャンプをするのにこんなに恵まれた場所はほかにないのに、そこには、人の気配どころか、テントを張った痕跡さえもないのだ。

 不安がざわざわとはいのぼってきた。

 そのとき、遠くに水のはねる音を聞いた。はっとなった。しゃばっしゃばっと、人がつま先で水をけりあげながら歩く音。

 すぐにわかった。実際に姿を見たわけじゃないけど、それがクマでも水鳥でもなく、人間であることが。

「助かった」

 思わず叫んで、わたしはころがるように駆けだしていた。

 




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