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孤高の鷹は、花を愛でる  作者: 刄津まゆり
少年と赤子
5/21

「う…あぁ…」



足首を掴んでいた手は、女が事きれるとすぐに離れた。

すぐに飛びず去ろうと思ったが、腰が立たない。



目の前に散らばる艶を失った亜麻色の髪も、まだ温もりを残した血も…全て現実だった。



飢えや渇きなどといった感覚は一切消え失せ、梓乃は自分のした恐ろしい行為を深く悔いた。



凄惨なその場に、不釣合いな赤ん坊の泣き声が響いている。


それは地面に放り投げられた痛みからくるものか。


それとも…。



答えは、赤子の姿を見れば一目瞭然だった。



小さな頭に生えるうぶ毛は、どう見たって黒には見えない薄茶色。


時折不安げに見開く粒らな瞳は、どこまでも透き通った翠玉のようだ。


死の間際に、やめろと自分を睨んできた瞳の色を、思いだす。

女の瞳も、美しい翠玉の瞳だった。


赤子はずっと泣き叫んでいる。

まだ生まれて間も無い、乳飲み子だ。


おくるみの中で小さな手足をばたつかせ、いくら母を呼んだところで、もう二度とその呼びかけに応じてはもらえない。



喉を嗄らしてまで泣く赤子の姿が、あまりにも哀れで、あまりにも罪深かった。


次第に喉を詰まらせたような咳をするようになり、ついに梓乃は赤子の側へ駆け寄った。



この哀れな赤子に、こんな自分が何かしてやれるとは思っていない。

ただ、いてもたってもいられなかった。



梓乃は血濡れた手のまま、冷たい地面から赤子を抱き上げる。


赤子が驚いてまた暴れださないよう、ゆっくりと立ち上がる。



赤子の驚いたように大きく見開かれた翡翠の瞳と、梓乃の黒檀の瞳が合わさった。



かちり、と。


梓乃と赤子の間で、何かが噛み合う。



「…うぅー」



赤子が、梓乃を見て笑った。

長い睫毛に朝露のような涙を光らせて、朗らかに笑う。



梓乃は、戸惑った。


「なんで…」



今の今まで泣き喚いていたのに。

寒くて辛くて、状況は何もかも最悪なはずなのに。




この世のものとは思えない程酷い有様の自分を前にして、どうしてこの赤子は笑いかけてくれるのか。



「あ…よせっ!」


赤子の手が、梓乃の顔に触れる。

慌てて離させたが、小さな紅葉のような手の平は、真っ赤に染まってしまった。



それが己の母が流した血だとは知らずに、 その手を口に持っていこうとする。


すぐに梓乃はその手を掴んで、自分の着物で拭った。


くすぐったそうに、きゃっきゃっと声を上げて笑う赤子。



…嗚呼。



純粋で愛らしく、そして無邪気だ。

その無邪気さが、尚更梓乃の罪の意識を強くさせた。



梓乃がこの場を去れば、非力な赤子のことだ。

飢えか寒さで、すぐに死んでしまうだろう。


あるいは、生きたまま山の獣に喰われるか…。

どちらにせよ、無残な最期を遂げることに変わりない。



なら、俺はどうするべきなんだ。



…この子が普通の赤子だったなら。


黒い髪で、黒い瞳をしていたなら、ここより安全な人里へ下りた時に、里の人間に託すことだって出来た。


…この子に、それはできない。


一目見ただけで、異人の子だと分かってしまう。

外国との貿易が盛んになってきたとはいえ、南蛮人を恐れる者はまだまだ沢山いた。


彼らの体は平均して大きく、根本的な容姿が違う。

皮肉なことに、その姿は絵巻物やお伽草子に出てくる”鬼”を連想させた。


恐れるだけならまだ良い方だ。

非力だと知った途端、恐怖が転じて蔑みを生み、排除したくなるのが人の理。



いっそ外の世界へ出る前に、この山中で死んでしまった方が、こいつの幸せなんじゃないか?




あまつさえ、そんな事を思ったりもした。


その刹那、頭の片隅に殺してしまった女が過る。

己の死の間際でさえも、我が子を身を呈してまで守ろうとした母親。

その姿はまさに、幼い頃から思い描くことしか出来なかった彼の母親像で。



事情は知らない。



忍一族の縄張りがあると有名なこの山に、わざわざ乳飲み子を抱えた異人の女が、何故。

何もかも分からなかったが、一つだけ、梓乃は決意をした。

その時、梓乃の葛藤をいち早く嗅ぎ取った赤子が、眉をへの字に曲げて泣きだした。



「うっ…あぁう…」


「ごめんな。…お前も、もう泣くなよ」


この子が自立して一人で生きていけるようになるまで。

…いや。



せめて、自分が追っ手に殺されてしまう、その日その瞬間まで。



俺が、こいつの面倒を見よう。

あの母親の代わりに俺が責任をもって、世間の目からお前を守ろう。



…それが、唯一の贖罪だと信じて。



母親を埋めてやりたかったが、時間がない。

これ以上この場に留まれば、その分追っ手との距離は縮まる。



放置された女の死骸を見て、追っ手はどう反応するのだろう。

その中にいる父は、嘆くだろうか。


忍びといえど、任務以外で人を殺めれば罰せられる。

人殺しの息子を、彼はやはり軽蔑するだろうか。


…違うな。


嘆かれようが貶されようが、最早関係ない。梓乃と父の間にあった親子の絆は消え、既に道は別れてしまったのだから。

自らの意思でこれまでの姓を捨て、今の自分がある。


俺はもう、以前の俺とは違うんだ…。


何もかも失ったと思っていたところに、この子と出会えた。

この腕に抱いた小さな命の灯火を、何としてでも失いたくない。


それはきっと、大罪を犯した自分が持てる、最後の希望だと思った。



それから程なくして、梓乃はその凄惨な場から背を向けた。

冷たい腕には、温かな赤子がいた。




十三年間過ごした山が、故郷が、どんどん遠くなって離れていく。

きっと、もう二度と戻ってくることはない。そして忘れることはないだろう。

赤子の母親の骸も、次第に周りの風景と同化して見えなくなる。


少年がそれらを振り返ることは二度となかった……


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