五
「う…あぁ…」
足首を掴んでいた手は、女が事きれるとすぐに離れた。
すぐに飛びず去ろうと思ったが、腰が立たない。
目の前に散らばる艶を失った亜麻色の髪も、まだ温もりを残した血も…全て現実だった。
飢えや渇きなどといった感覚は一切消え失せ、梓乃は自分のした恐ろしい行為を深く悔いた。
凄惨なその場に、不釣合いな赤ん坊の泣き声が響いている。
それは地面に放り投げられた痛みからくるものか。
それとも…。
答えは、赤子の姿を見れば一目瞭然だった。
小さな頭に生えるうぶ毛は、どう見たって黒には見えない薄茶色。
時折不安げに見開く粒らな瞳は、どこまでも透き通った翠玉のようだ。
死の間際に、やめろと自分を睨んできた瞳の色を、思いだす。
女の瞳も、美しい翠玉の瞳だった。
赤子はずっと泣き叫んでいる。
まだ生まれて間も無い、乳飲み子だ。
おくるみの中で小さな手足をばたつかせ、いくら母を呼んだところで、もう二度とその呼びかけに応じてはもらえない。
喉を嗄らしてまで泣く赤子の姿が、あまりにも哀れで、あまりにも罪深かった。
次第に喉を詰まらせたような咳をするようになり、ついに梓乃は赤子の側へ駆け寄った。
この哀れな赤子に、こんな自分が何かしてやれるとは思っていない。
ただ、いてもたってもいられなかった。
梓乃は血濡れた手のまま、冷たい地面から赤子を抱き上げる。
赤子が驚いてまた暴れださないよう、ゆっくりと立ち上がる。
赤子の驚いたように大きく見開かれた翡翠の瞳と、梓乃の黒檀の瞳が合わさった。
かちり、と。
梓乃と赤子の間で、何かが噛み合う。
「…うぅー」
赤子が、梓乃を見て笑った。
長い睫毛に朝露のような涙を光らせて、朗らかに笑う。
梓乃は、戸惑った。
「なんで…」
今の今まで泣き喚いていたのに。
寒くて辛くて、状況は何もかも最悪なはずなのに。
この世のものとは思えない程酷い有様の自分を前にして、どうしてこの赤子は笑いかけてくれるのか。
「あ…よせっ!」
赤子の手が、梓乃の顔に触れる。
慌てて離させたが、小さな紅葉のような手の平は、真っ赤に染まってしまった。
それが己の母が流した血だとは知らずに、 その手を口に持っていこうとする。
すぐに梓乃はその手を掴んで、自分の着物で拭った。
くすぐったそうに、きゃっきゃっと声を上げて笑う赤子。
…嗚呼。
純粋で愛らしく、そして無邪気だ。
その無邪気さが、尚更梓乃の罪の意識を強くさせた。
梓乃がこの場を去れば、非力な赤子のことだ。
飢えか寒さで、すぐに死んでしまうだろう。
あるいは、生きたまま山の獣に喰われるか…。
どちらにせよ、無残な最期を遂げることに変わりない。
なら、俺はどうするべきなんだ。
…この子が普通の赤子だったなら。
黒い髪で、黒い瞳をしていたなら、ここより安全な人里へ下りた時に、里の人間に託すことだって出来た。
…この子に、それはできない。
一目見ただけで、異人の子だと分かってしまう。
外国との貿易が盛んになってきたとはいえ、南蛮人を恐れる者はまだまだ沢山いた。
彼らの体は平均して大きく、根本的な容姿が違う。
皮肉なことに、その姿は絵巻物やお伽草子に出てくる”鬼”を連想させた。
恐れるだけならまだ良い方だ。
非力だと知った途端、恐怖が転じて蔑みを生み、排除したくなるのが人の理。
いっそ外の世界へ出る前に、この山中で死んでしまった方が、こいつの幸せなんじゃないか?
あまつさえ、そんな事を思ったりもした。
その刹那、頭の片隅に殺してしまった女が過る。
己の死の間際でさえも、我が子を身を呈してまで守ろうとした母親。
その姿はまさに、幼い頃から思い描くことしか出来なかった彼の母親像で。
事情は知らない。
忍一族の縄張りがあると有名なこの山に、わざわざ乳飲み子を抱えた異人の女が、何故。
何もかも分からなかったが、一つだけ、梓乃は決意をした。
その時、梓乃の葛藤をいち早く嗅ぎ取った赤子が、眉をへの字に曲げて泣きだした。
「うっ…あぁう…」
「ごめんな。…お前も、もう泣くなよ」
この子が自立して一人で生きていけるようになるまで。
…いや。
せめて、自分が追っ手に殺されてしまう、その日その瞬間まで。
俺が、こいつの面倒を見よう。
あの母親の代わりに俺が責任をもって、世間の目からお前を守ろう。
…それが、唯一の贖罪だと信じて。
母親を埋めてやりたかったが、時間がない。
これ以上この場に留まれば、その分追っ手との距離は縮まる。
放置された女の死骸を見て、追っ手はどう反応するのだろう。
その中にいる父は、嘆くだろうか。
忍びといえど、任務以外で人を殺めれば罰せられる。
人殺しの息子を、彼はやはり軽蔑するだろうか。
…違うな。
嘆かれようが貶されようが、最早関係ない。梓乃と父の間にあった親子の絆は消え、既に道は別れてしまったのだから。
自らの意思でこれまでの姓を捨て、今の自分がある。
俺はもう、以前の俺とは違うんだ…。
何もかも失ったと思っていたところに、この子と出会えた。
この腕に抱いた小さな命の灯火を、何としてでも失いたくない。
それはきっと、大罪を犯した自分が持てる、最後の希望だと思った。
それから程なくして、梓乃はその凄惨な場から背を向けた。
冷たい腕には、温かな赤子がいた。
十三年間過ごした山が、故郷が、どんどん遠くなって離れていく。
きっと、もう二度と戻ってくることはない。そして忘れることはないだろう。
赤子の母親の骸も、次第に周りの風景と同化して見えなくなる。
少年がそれらを振り返ることは二度となかった……