四
…あれからどれぐらい経ったのだろう。
休むことなく夜通し歩いてきたせいで、すっかり日にちの感覚がなくなっていた。
山の麓を出れば、人里がある。
流石に半分以上は下りてきたと思うが、麓に近付くにつれて足場が悪くなっていた。梓乃がいくら年の割に頑健な体をしているとはいえ、それはまだ完全とはいえない。
大人になりきっていない細い筋肉では、限界があった。
「くそ…っ」
気を失いそうになる度、歯を食いしばって耐える。
おちおち眠ってなどいられない。
父のことだ。
念には念を入れて、梓之の遺体が見つかるまでは捜索を続けるに違いない。
獣が落ち葉を踏みつけた音一つ聞こえただけで、梓之の神経はすり減っていく。
向こうは追跡の達人集団だ。そんな彼らに知られる訳にはいかなかった。
…まだ梓乃が生きているということを。
その為、跡が残ってしまう焚き火も出来ない。
焚き火が出来なければ、魚も肉も焼けないので、この間梓乃はまともな物を口にしていなかった。
地面に落ちている木の実や団栗だけで、腹が満たされるはずもない。
このままでは疲労よりも先に、飢えで倒れてしまう。
…そう思っていた矢先だった。
何処か近くから、女の歌声が聞こえたのは。
とうとう耳までやられたか。しかし、聞けば聞くほどその歌声は現実味を帯びていく。
ありえない、でも、もしかしたら。
ついに、山の麓へ辿り着いたのかもしれない。人里に紛れ込めさえすれば、確実に追っ手の目を撹乱出来る。
…逃げおおせることが出来るかもしれない。
束の間、それまでの空腹感が嘘のように消え失せた。半ば転げ落ちるように、梓之はその歌声のする方へ走る。
そして今…。
梓乃は大きな木の陰から、その様子を伺っていた。
一人の女が、こちらに背を向けて切り株に座っている。陣笠を被って大荷物を足下に置いている辺り、どうやら旅の者のようだ。
一気に肩の力が抜け、落胆した。
強烈な目眩が梓之を襲う。
思わずその場で悪態をつきそうになって、次の瞬間には肝がすくみあがった。
女が上体をゆらゆら揺り動かした拍子に、陣笠から零れ落ちた髪。
それに、目が釘付けになった。
…その女の髪は金と茶の間、黄金に輝く稲穂の色。
それは、この日ノ本の人間ではない証。
ーこの時代、国の外からやってくる異色の者たちは、さほど珍しくはなかった。
南蛮人と呼ばれる彼らは貿易や新しい宗教布教を目的に、日ノ本の各地に点在していたー
以前に一度だけ、梓乃も彼らを目にしたことがある。紅い髪をもつ彼らを、皆は"毛唐"と呼んでいた。あの時見た彼らが、果たしてその呼び名に含まれた悪意を理解していたのかは知らない。
とにかく、梓之が異人を見るのはこれが二度目であり、彼らが自分たちとなんら変わりのない同じ人間だという事も知っているはずだった。
しかし、その時の梓乃は普通の状態ではなかった。迫りくる追っ手に怯え、押し寄せる疲労に抗う彼の精神は、非常に不安定な状態だ。加えて襲いかかる極度の飢えは、梓乃の思考を完全に麻痺させる。
狐だ、俺は物の怪に誑かされてるんだ。
そう咄嗟に思っていた。
優しげな歌声が、挑発されているようにしか聞こえない。
見た所、良い着物を羽織っている。そして大荷物の上には、竹筒の水筒と笹に包まれた握り飯が置かれていた。
この数日間欲してやまなかったものが今、目の前にある。
…梓乃の喉仏が、ゆっくりと上下する。
歌さえも、もうこの耳には届かない。
異様に興奮して脈打つ鼓動が、聴覚を支配していた。
やめろ、という制止の声が頭の片隅から聞こえる。恐ろしいことをしようとしている自覚は、確かにあった。
しかし、恐怖と飢えに支配された梓乃は、何かに取り憑かれたように二つの刀を両の手に収める。
女は未だ梓乃の存在に気付いていない。
…奴は物の怪、奪って何が悪い?
残酷な笑みが、口元をひきつらせる。
理性を失った梓乃は、ただの獣よりタチが悪かった。
木陰から飛び出し、あっという間に距離を縮める。
後は右の刀を首元にあてて、横に滑らせるだけでよかった。
簡単なことだ。
女の瞳が大きく見開かれる。
あ、という言葉にならない声が聞こえた。
……ザシュッッッッ!!!
何とも言えない音を立てて、紅い血飛沫が吹き上がった。降り掛かる量に驚いてあげた悲鳴は、女の口から放たれた絶叫に掻き消される。
それと同時に、女の手から何かが放り投げられた。
それは白い包みで、地面に落ちた途端、聞き覚えのある声をあげた。
…赤子の泣き声だ。
温かな血が、梓乃を無理矢理正気へと引きずり戻す。
ようやく自分のしたことの愚かさに気付いた時には、全てが遅かった。
助けることも、その場を逃げることすら出来ず、放心して赤子の方を見やる梓乃の足を、女の手が掴む。
「や……め…て…っ…」
声にならない悲鳴をあげながら、梓之はその場に尻をついた。
血に塗れながら睨みつけてくる翡翠の瞳と、目が合った。最期に、渾身の力を振り絞ったに違いない。
そして、それっきり動かなくなった。
物の怪などではない。
…その日、梓乃は初めて人を殺した。