三
忍びとして生きる道を捨てた、というよりそこから逃げた、という方が正しい。
風魔一族。
ここいらの人間は皆、梓乃の一族をそう呼んでいた。
伊賀にも甲賀にも属さず、成人すれば皆髪を白く染める異端の忍び。
梓乃は、その頭目の第一子として生まれた。
幼い頃はまだ良かった。無知故に、ただ与えられるものだけを吸収し、大人たちから植え付けられた都合の良い嘘を、真実だと信じて疑わなかった。
自分も大きくなれば父のような、一族を率いる立派な頭目になれるのだという、漠然とした自信もあった。
だからこそ、血を吐くような厳しい修練にも耐え抜いてこられたのだ。
しかし
生まれて初めて山から出た外の世界は、梓乃が想像していたものと至極かけ離れていた。
同じ大名に仕える身でも、『武士』と呼ばれる者たちと自分らの身分階級があまりにも違うということ。暗殺や夜討ち、諜報といった役目を主に担う自分たちは、世間からは『非人』『穢多』などと呼ばれ、侮蔑されていること。
そして何より傷付いたのは、一族の大半の者が梓乃を次期頭目に望んでいないという事実だった。
梓乃には一人、年の離れた異母弟がいる。
当時、どんな身分であろうと一人の男が数人の女を妻に持つ事は可能だった。
弟の母は、いわば父の正妻。引き替え梓乃の母は一族の者ではない妾、しかも故人だった。
父がどちらを次期頭目に望んでいたのかは知らない、だが梓乃の心を折るにはそれだけで十分だった。
いくら実力をつけたって無駄だ。
たとえ頭目になれた所で、俺は一生卑しい身分のままなんだ。
一度折れた心は、忍びとしての道を受けいれられなかった。
羨ましかった、何も将来を案じなくていい、武士の子らが。
逃れたかった、このどうしようもなく無意味な自分の定めから。
…受け入れることと違って、投げ出すことはとても簡単だ。
皮肉にも、今まで培ってきた実力は、足抜けの際に十分役立ってくれた。
実力が無ければ、自分は間違いなくあの場で死んでいただろう。
だが、崖から落ちた後はどうだ?
どう考えても、絶望的なあの状況で…
運が良かった、だけで片付けるにはあまりにも違うのではないか。
運命か何かが、自分をどこかへ導こうしている。
梓之にはそう思えた。