一
真冬の空気が、肺を痛めつける。
…苦しい、辛い。
「小僧!!!止まれぇ!!!!」
少し離れた所、いや、そう遠くない所から怒号が聞こえた。
誰が止まるものか。
止まれば、殺される。
その事実だけが、今年十三になる少年の細い足を動かしていた。
慣れ親しんだ山道を脱兎の如き速さで駆け下りる度、ガサガサと足下の落ち葉が鳴った。そして、その音を掻き消さんばかりに、背後から大量の足音が押し寄せる。
少年、梓乃はたった今、生まれて初めて一族の掟を破った。故に、こうして命を狙われている。
今この場で立ち止まり、謝って考えを改めれば、まだ父も他の大人たちも自分を赦してくれるかもしれない。
そんな甘い考えは、すぐ後ろから聞こえる罵倒で消え去った。
いくら梓乃が謝ったところで、あの暴徒の耳に届くとは思えない。
逃げ切れば、生き延びられる。
捕まれば、一巻の終わり。
実に分かりやすい。
…死ぬ訳にはいかない。
梓乃はまだ、死にたくなかった。
だから、無我夢中で走っている。
竹と竹の間を縫うように走り、高い大木の上を猿のように渡った。それでも、大人たちは執拗に梓乃を追いかけてくる。一族の中でも一等速いと言われる梓之の足も、先程の攻撃でズタズタに切り裂かれていた。
少しずつ、だが確実に、梓乃と追っ手の距離は縮まっている。
くそ、やられる…っ!
そして、とうとう後ろから追っ手の腕が背に触れた時。
突如、梓乃は皆の視界から消えた。
梓乃が立っていたすぐ目の前には、大きな崖がある。
その遥か下には、岩だらけの渓谷が広がっていた。
「飛び…降りたのか」
追っ手の内の誰かが、そう呟いた。その場にいる全ての者が、一人の男に指示を仰ぐように向き直る。男は唯一、他の者と違って黒装束を身に纏っていないし、見た目も一番老いて見えた。しかし、その至って普通の着物の下には、鍛え抜かれた鋼のような肉体がある。
雪のように真白な髪が、妙に不自然だった。いくら年老いているとはいえ、ここまで綺麗に白くなるものだろうか。
若い一人の男が、黒い頭巾を外す。出てきたのは、同じ白髪頭だ。
「まだ死んだとは限らん。運が良ければ、命拾いしておるやもしれん」
「しかし、小太郎さま。梓乃は…」
小太郎と呼ばれた初老の男は、その言葉が続く前に遮った。
「奴は最早、我が息子ではない。抜け忍は誰であろうと必ず処罰する…幼い頃から、そう骨に刻んで育てたというのに」
愚かな男だ、と。
息子とはもう呼べない少年に向かって、悲しげに小太郎は呟く。
梓乃は生きている、小太郎にはその確信があった。
忍びになるべくして生まれてきたような子だ。この程度で死ぬような器ではない。
「梓乃よ、お前がいくら人より抜きん出た忍であっても関係ないぞ。何があろうと、お前を生きてこの山からは出さん。父を、風魔小太郎を裏切った事を、後悔するがよい」
それだけに、息子・梓乃の裏切りは彼にとって大きなものだった…