降臨の章8 差し伸べられる手
「幻魔衆!」
先ほどの恐怖がまたも恵を襲った。
しかも今度は二人。左右から無言でじりじりと彼女を追い詰めてくる。
右側の一人がすっと手を上げて恵に向けた。
と思う間もなく、目にも止まらぬ速さで光が放たれた。
光は手の平を離れるとまるで一本の巨大な矢のような形状に変化し、恵を狙って宙を流れた。
「きゃあっ!」
彼女は、辛うじて右に転がってかわした。
光の矢は背後の銅像に直撃し、ギィンという金属のような音と共に四散した。
が、安堵する間もなく、もう一人のローブの男が、既に恵をとらえていた。
男の手から、やはり光の巨大な矢が放たれた。
恵は尻餅をついている。
それに、地下の出来事に続いてまたも命を狙われているという激しい恐怖が甦り、動くことができなかった。自分の身体が震えていることすら、彼女は気がついていないのであった。
そうして、目の前に悪意に満ちた光の存在を感じた瞬間。
「――!」
まるで高速のジェットコースターにでも乗ったかのように目の前の景色が目まぐるしく流れ、はっとした彼女は、つい今傍に立っていた銅像が、はるか向こうにあることに気が付いた。
「……?」
理解できることではなかった。
どうやってあそこから、こんなところまで瞬時に逃げてこられたのだろう?
何十メートルもの距離である。
幾ら身体能力が優れていても、普通の人間ができる技ではない。
やや朦朧となりつつ、ふと自分の傍らに、その理由を見つけることができた。
あの、彼がいた。
朝、地下で襲われた彼女を突如救った、例の少年が。
相変わらず長い前髪の下から、じっと白ローブの男達を見ている。
(この人が……?)
力が入らずぺたりと地面に座り込んだまま、恵は少年を見上げている。
この少年が、彼女をここまで連れて逃げてきたというのか。しかも一瞬のうちに、である。
何だか信じられないようなありがたいような、不可解な気持ちになりながらも、恵は次にどうしたものやら見当がつかない。
第一、二度も助けてくれたとはいえ、彼は恵に一言も口を利いていないのである。敵なのか味方なのかそれ以外なのか、喋ってくれねば判断の仕様がない。まして、動揺しきっている彼女には。
彼の姿を認め、正体不明の男達は一瞬顔を見合わせた。
そしてすぐ、その片方の男が笑い出した。フードをすっぽり被っているから、顔の様子はわからない。
「……ククク、やはり出てきおったわ、双転の化身め。思った通り、仲間を捨てて置けぬようだな」
(双転の化身? 仲間?)
恵は不思議に思った。
ついさっき会ったばかりの、無口なこの少年が、姉や沙紀や公司と同じ、自分達の仲間の一人だというのだろうか。確かに、もう二度も自分の危機の場面で現れ、救ってくれているが。
彼女も今日始めてこの学校にやってきたばかりであり、この少年・浅香涼輔もまた転入してきた初日である。それを知らない恵は、いつものメンバーの他に、自分の知らない、同じ力を備えた者がこの学校に密かにいたのかと思った。
「先ほどはあやつめがしくじったが、今我々は二人、ああはいかぬと思え。ここで殺しておいてやる」
もう片方の男が笑いを含んだ声で言った。
男達は左右から涼と恵を狙っている。
右側の男が、すっと片手を差し上げてこちらに向けた。
手の平で光がフラッシュしたように見えた瞬間――巨大な光の塊が怒涛のように二人に殺到した。
厳密には、光などではない。
プレッシャーとでもいうべきなのか、恐るべき速さで進みながら空間を引き裂き、軌道にある物体を巻き上げ弾き飛ばし、一体に恐れを抱かせる禍々しさそのものであった。
その形状を一言で形容しうるのであれば、魔法とか術とか名付けられるのであろうが、そうした幻想的な表現が似合うような代物ではなかった。
邪、憎悪、殺意、憎しみ、恨み、あるいは哀しみ、そういった人間の心の裏側に象徴されるようなものに限りなく近い。
恵のような純粋な娘が芯から脅えてしまったのも、そういう何かを強烈に感じさせるからかも知れなかった。
が、この時恵の意識に残ったのは、素早く少年が左腕で自分を抱きかかえる瞬間だけであった。
あとは、何が起こったのか覚えていない。
目の前の光景がビデオテープの早送りのように流れ、はっとした時にはまた先ほどと違う位置に立っている自分を発見した。
それも、ほんの刹那である。
再び視界が大きく旋回し、彼女は自分の存在している位置を見失った。
荒波に揉まれている小船に乗っているようで、激しい目眩に襲われた。ただ朦朧とした意識の中でもはっきりしているのは、背中をしっかりと支えてくれている腕の力強さと、ごく近くにある少年の横顔であった。
恵は、無意識に彼の顔だけを見ていた。
そうすれば、空間を認知できない状態からくる、乗り物酔いに似た絶え間ない不快感から逃れられるからである。
ちょっと気を抜くと、振り落とされそうになる。
かつて姉と行ったテーマパークの、宙吊りになってぐるぐると振り回されるアトラクションをかすかに思い出していた。
あの時は構わず叫んだものだが、命を狙われているという恐怖感と、現実を離れた不可思議な感覚が、彼女を黙らせた。
彼女は、思わず少年の体に強くしがみついた。それしか仕様がなかった。
そんな状態がどれくらい続いたであろう。
大分長い時間だったように感じられるが、実際にはほんの何秒間かのことであったらしい。
突然視界がはっきりと定まり、かなり遠くに白い校舎が見えた。
頭がぐらぐらして、何が何だか把握できない。
「……?」
呆然としていると、少年の体から声が響いてきて恵ははっとした。いつの間にか、彼の胸にぴったりと頭をくっつけてしまっていたらしい。
「……大丈夫かい?」
驚いて顔を上げると、少年がこちらを見ていた。
前髪で顔半分が隠れていて、表情がよくわからない。
「……」
言葉が出て来ない。
いつまでも抱きかかえていては失礼だと思ったのか、彼は恵を下ろそうとした。
背中に回された腕の力がふっと緩み、足の裏に地面の感触が伝わってきた。
無意識に自分の脚で立とうとはしているが、膝に力がなかった。
支えを失った途端、恵はそのまま膝から崩れかけた。
「おっと?」
外された左腕が、再び彼女の背をとらえる。おかげで、恵が倒れてしまうことはなかった。
「……」
彼女は、少年の顔を見た。
どうも、名状し難い表情をしていたらしい。
少年が口元だけで笑った。
「ジェットコースターに3回も乗ったようなカオしてるよ。……まァ、無理もないかなァ。あんなに絶え間なく狙われたんじゃな」
声が低くて静かではあったが、調子がこの上なく優しかった。
姉のそれと、どこか似ていた。
ようやく、言葉を発せるだけの心地が戻ってきたような気がして
「あの、あなたは……? どうやって、ここに……?」
「俺かい。浅香涼輔っていうんだ。今日この学校にきたばっかりだよ。いきなり転移を使ったから、びっくりしてしまったかも知れないね」
「今日……この学校に……?」
頭がまだ元に戻っていないから、言われたことを単純に反芻している。
涼輔は、辺りをしきりに見回した。
「だから、この学校の造りがよくわかんないんだ。よけているうちにこんな所まで来ちまったけど……随分広いんだね、この学校は。みんな迷わないのかね?」
校舎と、直結している体育館がぐっと後ろに見え、前を向くと緩やかな草むらの傾斜が下り、その先でだだっ広いグランドに続いている。無理をすればサッカーの試合を二ついっぺんにできそうな広さがあり、周囲をぐるりとフェンスに囲まれている。
フェンスの向こう側は、ややおいて川が流れている。
校舎正面が東を向いていてそれに平行しているから、川は西から東か、あるいは東から西へ流れていることになる。地形が全体に平坦だから、そこまではわからなかった。彼らが逃れてきたのは、北側にあたる。
河川敷に沿って、桜の並木が果てしもなく続いている。
と思えば彼らが立っているグランド脇の土手にも桜が何本もあり、さらに校内の敷地にも無数の桜の木が植わっていた。
ちょうど桜の時期だから、どちらを向いても一面柔らかな桜色が目に映る。学校の関係者によほど桜の好きな人間がいたのかどうか、よくわからない。
ただ、涼輔はその趣向がすごくいいと思った。
生まれ育った北海道でも桜くらいは咲くが、春の気候が不安定だから、一気に満開になることなく、何となく咲いて散っていく年もある。それに、町全体が桜色に染まるくらいの桜の木が植わった町など、北海道にはない。
住んでいた場所に近くには桜の木が余りなく、わざわざ奇麗に見ることができる所まで行っては眺めていたことをふと思い出したりした。
だから、この町といい、学校がすぐ気に入った。
二人のすぐ傍にも、桜が立っていて、七分咲き程度に咲いている。早咲きしてしまった花びらが時々、ひらひらと彼らの周りに舞っている。
うららかさに惹かれてつい眺めてしまい。彼は喋ることを忘れていた。
そんな場違いなことを思っている彼の心証など、少しばかり安堵したに過ぎない、張り詰めた気持ちの恵に理解できる筈がない。
無言でいる彼を見て、何か予感でもあるのだろうかと、また不安になり始めた。
「あ、あの……どうかしましたか?」
その声で我に返った涼輔。
「……あ? いや、どうもないよ。すごく桜が綺麗なところだなと思ってね。毎年こんなに桜がすごいのかい、この学校は?」
恵はちょっと拍子抜けした。
こんな時に、風景に見入っている人がいるだろうか。
どうも涼輔の妙な調子に乗せられてしまいそうになり、
「……私も、今日が初めてなんです、この学校」
と答えた。
まだ動揺が収まらないから、気の利いた台詞が出てこない。
涼輔はちょっと背が上だから彼女を見下ろしながら
「へぇ。じゃ、君は今日入学する新入生なのか。何であんな所で本なんか読んでいるのかと思ったよ。俺はまた、さぼっているのかと」
「あの、別に私はさぼったりしません」
「ああ、真面目な感じだもんなァ。ごめんごめん。……まあ、もっとも」
彼は咲き乱れる桜に目を移した。
「こんないい所なら、さぼって一日中桜を眺めていたい気分だよ、俺はさ」
本当に好きらしく、そのまま何も言わずに遠くの桜並木をじっと見ている。
そしてぽつりと呟いた。
「……本っ当に、綺麗だ。すごくいい」
彼のことはまだまだよくわからなかったが、恵は浅香涼輔という人間に対しては、ちょっと心を許す気になった。
言葉は端々がいい加減だが、物静かでいて、伸びやかさがある。
その上、何でもかんでも本心で喋っているあたり正直そうで、彼らくらいの若者にありがちな狡さや見栄が欠けらもない。
第一、桜が好きだからといって馬鹿みたいにいつまでもぼんやり眺めているこの穏やかさは何であろう。そこらにいる男子とは全く違う、公司や隆幸とも違う印象を恵は受けた。
彼女もつられて傍らの桜を見上げていたが、思い出してはっとなった。
つい今しがた、幻魔衆に狙われていたところではないか。
そんなこともふと置いておかせる程に、この浅香涼輔という男の雰囲気は変わっていた。卓抜した彼の能力を間近で目にした、という安心感もあるにはあったが。
「あ、あの、浅香……さん?」
「んー?」
彼は実に間延びした返事をした。
恵は真顔に戻って
「幻魔衆、大丈夫でしょうか? 私、何が何だかわかんなくて覚えていなんですけど……もう、いなくなったんですか?」
「いや、いるさ」
何事もないように、普通に答える涼輔。
恵はぎょっとした。
「あの、あの、私達、狙われていますよね? 今こうしているうちに、後を追ってきていると思うんですけど……」
彼女の話し方は、いかにも遠慮がちである。
自分では何もできないという辛い引け目が、全体に表われているのであった。
が、涼輔はそれ以上に見抜いているところがあったらしい。
さっきのように、また口元だけで笑って見せた。
「まぁ、心配にはなるさなぁ。さっきの奴等、結構しぶとい連中みたいだからな。朝の奴といい、ね。……それにしても汚い手を使うよなぁ」
地下での悪夢が恵の脳裏に甦る。
あの瞬間も、突如どこからともなく現われて救ってくれたのが涼輔であったことを、恵は思った。
「浅香さん、そういえば……さっき、地下でも助けてくれたんですよね? 私、すっかり動転してて、何もお礼言ってなかったですけど……。どうもありがとうございます」
彼女は、深く頭を下げた。真面目な恵にすれば、正直な気持ちである。
顔をあげると、春風に吹かれて涼輔が微笑んでいた。
ちょっとない程の、清らかな笑顔であった。
「……間にあって、本当に良かったさ。それでいい」
ちょっとだけ北海道訛りのあるさり気ない一言であったが、心の底から出て来たような深さが込められている感じを、恵は受けた。
つり込まれて一緒に微笑みそうになったが、自然と顔が笑えない。むしろ、こわばっているのが自分でも判る。
それにしても、彼のこの余裕は何なのであろう。
確かに二度も救われたとはいえ、幻魔衆を完全に退けきった訳ではない。地下でのことにしても、涼輔が攻撃を防ぐ力に歯が立たず、幻魔の方から手もなく退却しただけのことである。
公司や沙紀がやっとのことで幻魔衆を退けてきたことを知っている恵には、今の状況が極めて危険であることに変わりないのを次第に感じ始めた。
さっきだって、涼輔は恵を庇って逃げただけではないか。
そうした彼女の気持ちは雰囲気で伝わっていてもよさそうなものだが、涼輔が同調している様子は余りない。
それよりも、この桜の景色がよほど気に入っているらしく、またそちらの方をじっと見ている。
恵の不安は再び大きくなった。
「あの、あの、浅香さん、幻魔衆が私達のこと、探していると思うんですけど……どうしたらいいでしょう?」
じれったくなって、少し口調が強くなった。
自分で戦えない恵には、どうしたらいいでしょう、という訊き方しかできない。何かしらの力を持っている彼と一緒に動く以外にないのである。というより、彼に頼らなければ命を落としてしまうことになる。それが恵の焦りになっていた。
しかし、涼輔は思うように反応してくれない。
「ああ、そうだね――」
彼が間の抜けたような返事をした瞬間。
すっと左腕が上がるのと、彼らの傍に白い、透明な光のウォールが突然現れたのとは、殆ど同時であったろう。
キュンッ、という甲高く鼓膜を衝く音と、二人を包む白い強烈な閃光。
「きゃっ!」
思わず、恵は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
一瞬で音も光も消え、その跡を見ると壁ができた部分を境目として、人が二、三人も埋まりそうな規模で地面が大きく抉られていた。乾いて硬くなっていた筈の土が削られたように半円上に無くなっている。一瞬の間に、できたものである。
恐る恐る頭を上げた恵が目にしたのは、左腕を上げたまま無言で立つ涼輔と、その地面の状態と――十数メートルも距離があろうか、再び姿を見せた幻魔衆達であった。
今度は二人ではない。三人いた。増えている。
それが校舎の地下で恵を襲った奴であることを、彼女はすぐに知ることになる。
「……見つけたぞ、双転の化身に付双の娘。よくもここまで逃げてきたものだな。しかし、先ほどのようにはいかんぞ」
白いローブの男達は、二人の前、左右と取り囲むように立っている。喋ったのは中央、二人の前に立っている男である。
恵は、気の遠くなるような思いがした。
二人の幻魔衆ですら涼輔は攻撃をかわしてばかりだったのに、今は更に三人になっている。
だが、涼輔は特に表情を変えることもなく、首をしきりとひねってはゴキゴキと音を立てている。それは今朝、地下でも見せた仕草なのだが、動転していた恵が気付いている筈がない。
「今度こそ、討ち洩らすなよ。しくじっては、命魔衆の歴々に面目が立たぬわ」
右側の男が、あとの二人に呼びかけた。
彼らが一斉にローブの下から腕を上げ、涼輔と恵に向けた。
中央の男が答える。
「……面目どころではないぞ。消されてしまうわ」
三人の手に光が生じた。
怖気が立つ恵。あれを一度に放たれたら、どうなってしまうか。
「……」
それでも、涼輔はどうとも反応を見せない。
ばかりか、彼は遠くの校舎の方をしげしげと眺めているだけである。
今度こそ半泣きになりつつ、やっとのことで恵は叫んだ。
「浅香さん!」
直後に、先ほどとは比べ物にならない、凄まじい閃光が辺りに満ち溢れ――眩さと恐怖とで、恵は気を失いかけた。
ドンッ、という表現で彼女の耳には聞こえた。
その、爆音としか言いようのない音によって、彼女の意識は途絶えることから免れた。
純白といっていい程の白い光がすうっと薄れ、再び視界が元に戻ってきた時、そこに白いローブ姿の幻魔衆の姿は一人としていなかった。
すぐ傍に相変わらず立っている涼輔。
いつの間にか、彼の右腕はつい今しがた幻魔衆達がいた方向に向けられていた。そのまま、ゆっくりと腕は下ろされた。
「……?」
恵には、訳がわからなかった。
幻魔衆達がどうなったのか、そして涼輔が何をやったのか。
時間が止まったように、何もかもが動かない。
やがて、静かに風が彼らに吹いて流れ――涼輔がそちらを向いたまま、小さく呟いた。
「逃げたりなんか、するかよ」
続けて
「……遠慮なくぶっ放せる場所を探していただけさ」
傍らの桜の梢がざわめいて、花びらが鮮やかに舞い落ちた。