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降臨の章23 忍び寄る影

 その足音とともに消えていく恵の背中を見送っていた涼輔と美菜。

 二人は再び無言で、奇怪な気配のする方を見やった。

 恵がさらわれ、涼輔が異空へ飛び、美菜が沙紀と公司を助けに戻り、そんな色々があってかなり時間が経過したように美菜には思われた。

 が、ずっと薄異空の状態が続いているから、彼女と恵が川沿いの道を歩いているあの時間から止まったままなのである。しかし、今の美菜にそんな知識はなく、薄異空状態で空間自体が妙に澱んだようになっているから、時間が経過したように錯覚しても、無理はなかった。

 しばらく沈黙が続いた。

 ややあって、ちょっと焦れたように、美菜が口を開いた。


「……ねぇ、浅香君。ほんっとうに、まだ幻魔衆がいるの?」


 彼女にはまだ、幻魔衆が忍び寄る気配がいまいちつかめない。

 質問に答えず、なおも前方に注意を払っていた涼輔。

 やっと振り向くと


「……なんか、よく解らない。向こうのほうに一匹いるのは確かなんだが」


 彼はそこで首を傾げた。


「その周りに、何かがうようよしていやがる。それが実体なのか単にそいつの生命力の余波が放出されただけのものなのか、はっきりしないんだ」


 と、解説してもらったところで、美菜にはどういう意見も呈しようがない。


「ふーん……」


 感じたままを伝えただけだが、正直なところ、こんな得体の知れない気配は涼輔にとっても初めてであった。幻魔衆との戦いは多くの場合、一対一とは限らない。大抵は彼ら本体が作り出した人形のような手下「核徒衆」や、あるいは命幻術という「迷い」「惑い」を具現化した術の効果によって、何体もの幻魔衆を相手にしなければならなかった。涼輔がさっき倒した狂性などは生命の「個」としての働き故に単体であったが、虐性や酷性などはそういった命幻術をもって彼に挑んできた。

 とはいえ、術の使い手そのものははっきりしている訳だから、彼らの存在を明確に認識できればそれまでなのだが、まるで何体もいるかのような、かといって一体かも知れないというあやふやな状態は、経験豊富な涼輔のデータの中にもなかった。

 例えるなら、中に一人しかいないといわれた部屋に入ろうとして、何人もの人間がいるかのような気配を感じてしまうことに近いかも知れない。一人だと言われているのに、実は大勢がいそうだと疑ってしまったら、誰だって気味悪く思うものである。

 程なく、疑問の一端は氷解した。

 虐性、狂性など倒した筈の幻魔衆、それに二人が知らない他の幻魔衆の姿が幾体も、暗い空間にじんわりと明確に現れだしたのである。あたかも、CGで編集された映像のようである。おかしいのは、そのどれも身動き一つせず、亡霊のようにすうっと、その場に佇んだままでいる。悪口やら挑発を投げかけてくるものもない。


「……あ、あれ! またあいつがいるじゃない!」


 狂性の姿を認めた美菜が声を上げた。

 が、すぐに様子がおかしいことに気が付き


「何で黙っているのよ? さっきは、あんなに咆え狂っていたのに」


 そのことよりも、姿を現出し始めた幻魔衆の一団に、どれも確実な気配がしないことを涼輔は奇異に思った。気配が無、つまり、姿があるだけで生命の働きや意志が全くないというに等しい。


(わざとやっている訳でもないだろうに。……それとも、奴らのそもそもはとっくに消滅しているから、姿だけで核徒衆に成り下がったとでもいうのか?)


 それらはやがてくっきりと実体化したかと思いきや、一斉にふっと消えた。

 刹那、涼輔は周囲に強烈な悪意を感じて取った。

 言うなれば、敵意、憎しみ、恨み、そして殺意。どれ一つとして、真っ当な生命の働きではない。

 囲まれる危険性を、彼の鋭い感覚が察知した。


「こいつは――!」


 咄嗟に身を翻して美菜に飛びつくと、一気に意識を自分の外に弾き出した。

 途端に二人の姿がふっと揺らぎ、一呼吸おいて廊下のずっと先で再び実体化した。

 ほとんど同時に、彼らが今しがたいたポイントで、青白い光がまるで巨大な打ち上げ花火の様に猛烈に爆発した。

 ドドドドという爆音が轟き、普請全体が振動した。

 それらが止むと、煙のようなもやのようなものが立ち込め、視界を奪った。


「……へ?」


 何が起きたのか理解できず、呆然としている美菜。

 彼女から手を離しつつ、涼輔は今いた方向を向きながら静かに身構えた。


「……いきなり、ごめん。だけど、余裕がなかった」

「あ? ……うん、ああ、そう、いうことね」


 美菜の頭の中で、たった今起こった幾つかが、やっとつながり始めた。

 涼輔が予告なしに彼女を抱き抱え、しかも突如転移をかましたことを謝っているのだと気が付くまで、やや間が要った。

 が、それらは殆どどうでもよかった。

 涼輔の直感と機動力がなければ、さっきの時点で彼女は殺されていたのである。それに、本来の美菜は、細かい事をとやかく言う趣味もなかった。


「……ありがと。また、助けられたね」


 礼を言いながら、自分で自分が可笑しくなっている。簡単に誰かに礼を述べられるような自分ではなかった筈なのである。場合が場合だったからかも知れないが、今の彼女の心中では、これまでと明らかに違う作用が起きていた。


「……礼する程のことじゃないさ。次は、俺が助けられるかも知れない」


 そんなことがあるのだろうかと、美菜は何気なしに思った。

 涼輔はまたも、廊下の先をじっと注視している。

 見えない向こう側で、いかにも凶悪な本能だけが蠢いている気配がある。

 彼は頭の片隅で、今の幻魔衆らがもしかすると単なる「影」なのではないかと思った。影は意志を持たない。その代わり、本体と同じ動きをする。その本体が各幻魔衆のそれぞれでないとすれば、本体は別にいるということになる。当然、明確な存在はその一体のものしかつかめないであろう。

 影を消し去るには、影を狙っても意味がない。

 影を作り出す存在を打ち消すしかない。


(……親玉見つけて、吹っ飛ばすしかないか)


 独り、合点する涼輔。

 頓悟した瞬間、彼は再び迫り来る邪気を感じていた。

 執念深く、しかも念入りに、二人を追い詰めてきているようである。

 蜘蛛の巣のように、それは彼らにまとわりついて離れないのであった。


「……しつこいっ!」


 またも美菜を連れて回避しようと試みる涼輔。

 一瞬、深異空で恵を抱えて転移した時のことが脳裏を過ぎり、そこで彼ははっと気が付いた。


(これって、もしや――)


 が、そんな閃きが涼輔に転移の発動を遅らせた。

 美菜を抱き抱えてその場から消えようと意識を集中させかけた瞬間、あろうことか視界に暴性の姿が飛び込んできた。

 目と鼻の先である。

 既に、囲まれていた。


「……ちっ」


 咄嗟に、転移は諦めた。間に合わない。

 視野の片隅で、幻魔衆、否「影」の生み出した命術の鈍い光を認めつつ、涼輔は美菜もろとも、わざと背中から倒れようとした。重力に引かれて倒れかけながら、巧妙にも彼は思い切り床を蹴って勢いをつけ、より遠くへ倒れこもうと試みた。

 抱えられている美菜には、涼輔の意図が解らない。


「あ、浅香君? 何を――」

「――くっ、かわしきれない!」


 すぐ傍に、影奴が殺到していた。

 無言、無表情で音もなく接近してきて、それぞれがすっと腕を振りかざした。

 たちまち、あちこちに鋭利な刃が何本も生まれた。この状態で振り下ろされたならば、間違いなく涼輔も美菜も膾斬りにされるであろう。


(……まずったか!)


 計算違いを悟った涼輔。

 仕掛けておいて急に中断した転移の命術が、完全に解放しきれていなかったのである。

 涼輔の命術の発動とその転換があまりにも早過ぎた。自分達を空間的に跳躍させるために集約していた生命力がそこに残留していて、物理的な運動に干渉してしまっていたのだ。

 そのせいで、思い切り背後にすっ飛ぼうとして床を蹴ったにも関わらず、殆ど功を奏さなかったのである。むしろ、背後にゆっくり倒れていくという、スローモーション状態にすら陥っている。

 正面百八十度、直近はほぼ幻魔衆の姿しか見えない。

 それだけ、もうすぐそこまで迫ってきている。


「……!」


 さすがの涼輔も、ここにきて焦らざるを得なかった。

 が、それは彼だけのことである。

 その腕に抱き抱えている運命の女神がどういう判断を下すかということにまでは、計算が及んでいなかった。幾多もの過去の戦いが全て単独で立ち向かわねばならなかったが故のいわば習慣のようなものであり、少しでも自分以外の何かに頼る思想があったならば、今日の彼はなかったといっていいかも知れなかった。

 今の彼の幸運は、その傍にいたのが恵ではなく美菜であった。

 その運命の女神は、ついこの瞬間まで、涼輔のなすがままに任せていた。が、ただの素人ではない証拠に、この娘は自分の周りで進行しつつある事態をきちんと認識していたのである。

 倒した筈の幻魔衆がなおも出現して襲ってきつつあり――触れ合わんばかりのすぐ隣で、涼輔が「かわしきれない」などと口走っている。

 彼女自身、冷静になれていた訳ではなかったがそれでも、今は二人とも非常に危険な状態におかれていることだけは、把握した。

 涼輔が焦りかけたのとほぼ同時に、咄嗟に右腕を幻魔衆の一団へ差し向けた美菜。

 向けるが早いか、ありったけの念を手先に込めた。

 たちまちのうちに右手に眩い光が宿り、そして右腕全体へと伝わっていった。

 こぼれ散った光がちらちらと乱れ飛び、ラメの粉末が吹き散らされて宙で輝いているようである。二人は上から下に沈みつつあるから、光の粒は左右へ大きく振りまかれ、その様子はあたかも白い翼を広げたようである。


「……ってぇ!」


 一瞬の気合で、光は放たれた。

 廊下全体を呑み込むほどに肥大化したそれは、驚異的なプレッシャーをもってあやふやな存在の「影」達を一撃で微塵にふっ飛ばし切り裂いた。

 勢いは留まらず、壁や廊下や天井を真っ白く染めながら、神速をもって突き進んでいく。ずっと前方まで光は駆け抜けていき、やがて「ゴォン」という唸りと共に、一際激しい閃光が起こった。稲妻のように二、三度ピカピカとフラッシュを繰り返し、光はすうっと終息した。

 あっという間に辺りは、元の闇にフェードインしていく。


「……うわっ!」

「きゃっ!」


 自ら創り出した転移の呪縛に捕らわれていた二人は、美菜の命術の発動によって解き放たれた。

 途端、慣性と重力の法則が忠実に作用し、二人の身体は一気に後方へ吹っ飛んだ。ついでに、美菜が術を撃った反動も付加されていたのである。

 暗い廊下を派手に滑り転がった二人は、すぐには起き上がれなかった。

 危機一髪を回避したばかりで、全身に力が入らない。

 涼輔も美菜も負傷している身である。


「……あ、あのさ」


 ややあって、天井を見つめたまま、涼輔が口を開いた。


「……な、何?」


 鼓動の高まりが収まらない美菜。


「……言った通り、だっただろ?」

「え? 何が?」


 一足先に、やっとのことで美菜が上体を起こした。


「俺が、助け、られたでしょ?」


 何か予感でもあったのか、この男はそんなことを言った。

 自分の功は億尾にも出さない反面、他人のそれには誠実であろうとしているらしい。

 が、美菜は大して気にする風もなく


「何とか、ぎりぎり」


 微笑して


「……でも、お互い様でしょ?」


 少しも恩を着せるようなところがない。そういう部分では、この二人は限りなく似ているのかも知れなかった。

 首だけで美菜の方を見ている涼輔。

 何か言いかけようとしたが、黙って身体を起こすことに意識を集中した。彼といえどもダメージの大きさはカバーしようがなく、やっとのことで立ち上がった。

 ぺたりと床に座り込んだまま、美菜はその様子をじっと見ている。

 ふと、彼の背中が接触した部分の床に延々と血が付いているのが目に入った。

 今さらどうすることも出来ないが、余りにも痛々し過ぎて、美菜はその様を正視できなかった。辛そうに表情を曇らせたが、幻魔衆の気配が気になっている涼輔には、そんな彼女の変化などは解らない。

 その時。

 闇の先から


「――ォオオオオォ……」


 という、低い唸り声のようなものが聞こえてきた。

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