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降臨の章22 生還

 今度こそこれまでかと思った。

 涼輔は恵を助けに行ったまま、まだ戻って来ていない。

 まさに命を奪われようという土壇場ではあったが、不思議に美菜にはそれほどの恐怖はなかった。それがどういう精神の作用なのか、彼女にはよく解らない。

 ただ、これまでの自分の中の蟠りが涼輔の一喝によって綺麗に霧散していて、純粋に仲間を助けるべく傷つきながらも全力でここまで戦ったこと、そういう懸命な自分に初めて向き合うことができた満足が、心のどこかに清清しく広がっていたことは確かであった。

 捕えられた恵が心配ではあったが、恐らく――涼輔が約束を果たして無事に現界まで連れ戻して来てくれることであろう。

 もし、美菜が命を落としたことを知れば、恵のことである。生きていく何物も失ったかのように嘆き悲しむであろうが、その後のことは涼輔がしかるべくやってくれるような、そんな気がした。

 美菜は、がくりと全身の力を抜いた。

 その瞬間である。

 目の前を、さっと光る何かが通り過ぎていくのを見た。

 間髪をおいて、彼女は急に重力を感じた。

 一瞬、落下していく感覚があり、そのまま何か柔らかなものが崩れていく美菜の身体をしっかりと受け止めていた。


「……?」


 振り返るより早く、眼前の幻魔が突如絶叫していた。


「ぐっ、があぁぁッ、う、腕がぁぁっ!」


 上腕から先を失った幻魔が、左手で押さえながらのたうち始めた。

 何が起こったのか飲み込めずに呆然としている美菜。


「――大丈夫? お姉ちゃん」


 聞き慣れた声が、不意に耳元に届いた。

 はっとして首だけで振り向いてみると――恵の姿が目に飛び込んできた。

 彼女が、力の抜けた美菜の身体を懸命に、しかししっかりと支えていた。間違いなく、異空へ連れ去られてしまった筈の妹の恵であった。

 頭が回らずにぼんやりとその顔を見つめていた美菜。

 やがて事情が飲み込めてくると、知らず胸の奥から込み上げてくるものを感じた。何度も瞬きをしているうちに、その眼に涙が溢れ始めた。


「……恵、あなた、よく無事で……」


 自分の無事を歓喜している姉の涙を見て、思わず恵も涙ぐまずにはいられなかった。姉を支えている腕に、自然に力がこもる。


「うん。私よ、お姉ちゃん。もう殺されるかと思ったけど、浅香さんが助けにきてくれたの。だから、こうやって戻ってこられたの」


 そういう彼女の制服がずたずたになっていることに、美菜は気が付いた。腹や脚が露になっていて、こういう状況下でなければ、とてもではないが人前に出られる格好でなくなっていた。


「それ、制服……。ぼろぼろね」

「あ、うん、これ……」


 恵は恥ずかしそうに、ちょっと顔を赤らめた。


「幻魔衆に、こんなにされちゃった」しかし、すぐにパッと表情を明るくして「……でも、怪我していないし。傷の一つもないのよ? 浅香さんがずっとあたしのこと、庇ってくれたから……ね」


 ふと見ると、恵の背後に涼輔が立っていた。

 無事の再会を果たした姉妹を、静かに見守っていたのである。

 美菜の視線に気が付くと、彼は微笑して見せた。


「……よう」

「浅香……君」


 それ以上、あとから言葉が続かなかった。

 この男は、困難と思われた恵の救出を約束通り果たしてきたのである。にも関わらず、どういう気取りも驕りもなく、ただ笑顔を見せているだけである。

 何という奴なのか、とは美菜は思わなかった。

 余計な思念をさし挟む余裕すらない程に、恵が無事で戻ってきてくれたその喜びは大きかった。

 そんな歓喜は、怒り狂った幻魔の咆哮によって現実へと引き戻されていた。


「この、この、人間共がぁ! よくも、俺の腕を!」


 巨体の幻魔は、憎悪に満ちた視線を足元の美菜と恵に向けた。

 狂性というその名のごとく、平静を失った、人間の生命の乱れ狂える様をまざまざと象徴しているかのようであった。

 激しく身体を揺すり、掻き毟り、何度も地団駄を踏んだ。

 目の前で繰り広げられているその狂態に、思わず息を飲む恵。

 狂性は残った左腕をぐっと振り上げた。

 天井に向かって突き出された手の先には、数十センチにもなろうかという鋭利な爪が伸びていた。


「殺してやる! この、この、双転のォ――」


 そのまま、絶叫が最後まで轟くことはなかった。

 懐にすっと音もなく飛び込んだ涼輔が、一瞬にして下から上へ、零距離で命術を打ち放っていた。

 暗い廊下に、白く閃光がフラッシュする。

 力強い生命の一撃は無様な狂性の上体を微塵にふっ飛ばし、欠片も残さなかった。後に残っていた下半身も、見る見る細かな光の結晶と化して、宙に舞い上がって消滅した。


「……やかましいっての。目障りな奴だ」


 すぐ後ろに、美菜と恵がいる。

 涼輔の命術が炸裂した直後、微かに何かがふっと散った。

 それをまじまじと眺めていた美菜は、それが赤いものであることを確認した時、血だと知った。


「……」


 見上げた先に、涼輔の背中がある。

 制服が、ずたずたに裂けていた。

 はっとして恵の顔を見ると、彼女は悲しそうに表情を曇らせた。


「浅香さん、私を庇って……幻魔の命術を受けてしまったの」


 美菜は言葉を失った。


(浅香君、恵のこと、庇って――)


 得体の知れない感情が、美菜の心を貫いた。 

 口が利けなかった。

 少なくとも、これまで彼女が出会ってきた人間の中には決していなかった存在である。

 我を立てずに争いを収め、確信をもって一言を吐き、やると言えば傷ついてでもその通りにやってのける。なのに、何一つ功を誇ることなく、春のそよ風に吹かれているかのような涼しい顔をしている。守られたのが自分の妹であるというのもさる事ながら、目に前にいるこの少年の尋常ならぬ人間としての、もとい生命の強さの現証に、彼女はあらゆる反感と敵意を喪失していた。

 やや呆然としていた美菜は、彼に何か声をかけることを思った。


「……あ、あ、浅香……君?」

「……ん?」


 涼輔は、犬が呼び止められて振り返ったみたいな、他愛もない顔をしている。


「そ、それ、背中……。傷、ひどい、よね?」


 いっぺんに色んな事がありすぎて心地が定まらない美菜は、語調がおかしくなっていた。

 そんな彼女に、涼輔は


「ああ、これ?」


 ひょいと自分の背中を肩越しに一瞥して


「……油断した」


 情けなさそうな顔をして見せた。


「は……」


 大怪我を負った割にはあんまりにも悲壮感のない間の抜けた彼の仕草と言葉に、するりと心の間合いを盗まれた美菜。恵を庇ってそうなったくせにその事すら言わず、自分のドジにして片付けてしまおうとしている。途端、色んな思いが一気にぶち抜けて、美菜は思わず笑みを浮かべてしまった。


「ふっ……」

「へへ……」


 大した言葉こそなかったが、これが二人の和解しあった瞬間であることに気付いた恵。彼女もまた、ちょっと困ったような、それでも安堵したように笑顔を見せた。


「もう。任せてくれなんて、あんなに大見得切ったくせに」


 美菜はそっと俯いた。


「……ドジ」


 そのまま、堪えきれないようにくっくっと笑い出した。


「お姉ちゃんたら! 何てこと言うのよ!」


 怒った風を装いながらも、恵も可笑しさを隠せない。


「ドジ、か。ホントだよな」


 涼輔も笑い出し、とうとう三人とも笑ってしまった。

 あの川べりで恵が連れ去られた時はそれぞれがそれぞれの位置で辛い思いをしていたが、涼輔の一歩も退かない強靭さと、そして自分の心の壁を突き崩した美菜の勇気とが、こうして三人の笑いという形になって結実したのである。

 が、ひとしきり笑ったところで、恵がふと表情を消した。

 狂性を打ち破ったというのに、薄異空特有の、空間全体がくすんだような心地の悪さが、いつまで経っても残ったままなのである。


「浅香さん、今ので、終わりでしょうか? まだ、気味の悪い感じがするんです」


 修羅場を潜ってきて、恵にもそうした感覚が養われつつあるようだった。

 ようやく命の保証を得たばかりの美菜にはさすがにそれが解らず、答えを求めるように涼輔の方を見やっただけであった。

 彼は長く暗い廊下の先にじっと視線を送りながら


「……ああ、だな。とんでもないのがもう一匹、寄ってきやがってる」


 五感でも直感でもない。頭か胸中なのか、それも定かではない。

 とにかく、意識の中に何者かが「いる」ということだけが、明確に流れ込んできているのである。それは、期待で胸が躍るような感じは決してない。いかにもおどろおどろしく、ねっとりと絡みつくようで、ひたすらに嫌悪すべきものであるように、彼は感じた。ただの幻魔衆なのかといえば、これまでに出会ってきたそれとは、まるで別の気配であった。

 もう少し具体的に迫ってこないと、どこにどういう奴が現れようとしているのか予想が出来なかった。ただならぬ存在、としか言いようがない。


(こいつは……明らかに、ヤバい奴だな)


 長い前髪の下で、彼の表情がぐっと険しくなった。

 涼輔は、当然ケアしておくべき存在のことを思った。


「恵ちゃん、お姉ちゃんを連れて、ここから離れるんだ。どうも、とんでもないヤツがいるみたいだからね」


 彼の実力を知っている恵は「はい!」と素直に返事をし、姉を抱き起こそうとした。

 しかし、美菜は優しくその手を押さえた。


「恵。先に行って、公司君と沙紀ちゃんを手当てしてあげて頂戴。あの子達、かなりひどく怪我してたの。だから――」

「え? でも、お姉ちゃん……」


 ゆっくりと立ち上がり、振り向く美菜。

 その表情は、すっかりと穏やかで優しい姉のそれになっていた。


「あたしなら、大丈夫。あちこち打ったりしたけど、直接命術を受けたりした訳じゃないから。それに――」


 涼輔の背中に視線を向けた。

 乱刃でも浴びたように、縦横斜めお構いなしに制服が裂けていて、その下に着ている白い筈のTシャツがほとんど白くなかった。暗いためにはっきりとは見えなかったが、恐らくそのTシャツも切り裂かれていて、もっと言えば涼輔の身体自体がそういう状態になっているに違いない。

 といって、美菜の心はそれがぞっとするとか痛そうとかいう風に反応した訳ではなかった。

 大事な妹を救うために――という一点が、彼女の胸中を満たしていた。

 涼輔は身体を張って妹を助け、あまつさえ自分自身をも一度ならず救ってくれたというのに、一体、自分は何が出来ていただろう? と、美菜は自問した。今日という一日を振り返り見るとき、彼女は咆えてばかりで幻魔衆の一体すらまともに撃退できていないではないか。昼間は涼輔に対して感情的に逆切れしてしまったが、今度は、少なくとも今は、何よりも彼に報いるべく行動すべきことを思った。


(そうでなければあたしは――)


 単に、見栄とかギブアンドテイクのレベルではない。

 自分を盾にしてまで誰かを守り戦い抜く涼輔の姿勢が、美菜の心に明らかに作用し、衝動的に突き動かしているのである。

 そんな彼女の思いが、ごく自然にこんな事を言わせた。


「……浅香君、あたしも、手伝う。上手く手伝えるか解らないけど、でもさっきみたいにやれば、何とかできるかも知れないと思うの」


 脳裏に、あの川べりで力を合わせて涼輔を深異空まで転移させた情景がある。


「……」


 首だけを動かして、彼女をじっと見ている涼輔。

 もしかすると繰り返し「逃げろ」と言われるかも知れないと美菜は思ったが、案に反した。やがて彼は深く頷き、


「……頼む」


 と、言った。

 短い言葉ではあったが、その一言にやたらと重みがあるように、傍の恵は感じた。姉が今まで自分から誰かに助力を申し出たことなど、なかったように思われたからである。そんな姉が、進んで涼輔に協力しようとしている。そしてかつ、これほどの実力を持つ涼輔が、美菜の力を借りたいと言っている。それぞれ傷を負っていることが非常に気がかりではあったが、それでもこの二人が力を合わせることで、きっと大丈夫なのではないか、と恵は思うでもなしに思った。

 美菜もまた、涼輔が自分に居てくれと言ったことが、何より心地よく思っていた。

 涼輔の賛同を得た美菜は、恵に頷いて見せた。行け、という合図である。

 そのことを理解した恵もまた、こっくりと首を縦に動かし


「……じゃ、気を付けて、お姉ちゃん。浅香さん」


 くるりと身を翻して、長い廊下の向こうへ駆けて行く。

 公司や沙紀はさっき狂性の命術で吹っ飛ばされていたから、恐らくこの先に倒れているに違いなかった。

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