降臨の章21 反撃
「あ、浅香さん、あの、あの、あたしーー」
半泣きで狼狽している恵。
涼輔は長い髪の毛の下で、うっすらと笑ってみせた。
「……なに、心配いらないさ……」
気丈に言ってみせたものの、実のところ身体のダメージは相当に効いていた。
傷口から吹き出る血と共に力が抜けていくようで、ふとすると目の前がかすんでくる。不思議と痛みは感じなかったが、このまま酷性との戦いが長引けばやがては強烈な痛みが全身に襲いくるだろう。
動転している恵に、命復の命術でも、という発想が出てくる筈もなかった。
もっとも、こんな邪な異空の中ではどれだけの効果も期待できない。
が、涼輔は自分の判断にいささかの後悔もしていない。
現に美菜との約束通り、こうして恵を傷一つつけずに解放することに成功している。
あとは、あの幻魔・酷性をぶっ飛ばしてこの忌々しい異空を脱出すればいいのである。もっとも、酷性はそう簡単に消えてくれないが。
こうも負傷してしまうと、涼輔にもやや不安はある。
しかし、恵の前でそういう不安の欠片も見せる訳にはいかない。そうすれば、心の奥底から優しいこの娘は、庇われることしかできない自分自身を強く責めるであろう。
涼輔はゆっくりと身体を起こすと、恵の目をじっと見つめた。
すっかり動転している彼女の眼には、涙が浮かんでいる。
「……恵ちゃん、いくぞ。振り落とされないように、しっかりと掴まっててくれよ。あいつ叩きのめして、さっさとここを出よう」
「はい」
返事したものの、恵はどうしたらよいかわからない。
次の瞬間。
彼女は涼輔の背後から迫り来る強烈な悪意を感じ取った。
あっという間もなかった。
気が付くと彼女は涼輔に左腕で抱き抱えられ、今しがたいた演台状の場所から大きく離れた位置に移動していた。背中に、彼の腕の感触がある。強く力のこもったその温もりに、涼輔の必死な何事かが込められているようであった。
「……逃げ場はないぞ双転の化身! この深異空から脱出することは叶わぬぞ!」
はっとして恵は涼輔の横顔を見た。抱き抱えられているから、驚くほどすぐ傍に彼の顔がある。
彼もまた、ちらりと恵に視線を落とし
「心配いらないよ、恵ちゃん。あいつさえ消えてくれれば、こんな異空ぐらい、どうにかなるんだ」
軽く微笑すらしている。
何がなんだか理解できることではなかったが、この状況下で、涼輔のいささかの不安も感じさせない確信に満ちた態度は、彼女にとって救いであった。
無意識のうちに、彼女は涼輔の身体に両腕でしっかりとしがみついていた。
そんな恵の頭を右手で優しく撫でてやる涼輔。
「よしよし。絶対に大丈夫だ。ここは俺に任せておいてくれ」
「はい!」
すっかり安心した恵は、無邪気に微笑んでいる。
二撃目がきた。
かわすと同時に次が飛んでくる。
まったく、酷性の攻撃は息をつかせる間もないのであった。
それでも涼輔にはいささかの緊迫感もなかった。今度こそ自分の手で恵を助け出すことが出来、そしてその彼女は間違いなく今、自分の腕に抱きかかえている。もはや、何の躊躇すら要らないのである。
そして――ここは彼自身の、或いは恵の生命が創り出した、彼等自身の生命の空間なのである。
転移と異現次跳躍をフルに駆使して散々にかわしまくる涼輔と恵。
彼らを狙って放たれる命術も、命中したように見えても、それは全て二人の残像なのであった。
が、正確に言えば、残像でも何でもない。
翻弄されている酷性には、二人の実像をとらえることが出来ないのであった。涼輔の生命力だけでなく、彼を心の底から信じる恵の力とが相乗しあって、戦いは予想外の展開を呈していた。
あれだけ冷静を保っていたさしもの酷性も、次第にイラつき始めた。
「逃げて回るのが双転かァ! 私は、私はここにいるのだぞ!」
「はっ! 勝手なことばっかり言いやがって」
涼輔は小さく毒づいた。
「……あんなにねちねちと汚い小細工しやがったクセに、何言ってやがる」
うんうんと彼の胸で頷く恵。
「そぉですよ。私、聞いてました。そもそもがぜぇーんぶ、浅香さんとお姉ちゃんを罠にかけるための作戦だったんです。さっきだって、後ろから浅香さんのこと撃ったじゃないですか」
怒っている。
すっかり元気を取り戻した様子の恵に、涼輔はただただ安心した。彼女も、今日はいいだけ彼の転移や異現次跳躍に付き合っただけあって、すっかり抵抗がなくなったようである。
が、酷性を翻弄してばかりもいられない。
現界では、美菜が一人死闘(ではないかと涼輔が思っているだけだが)を続けているのである。さっきの気配では、かなりの多数かつ強力な幻魔衆の群れが、学校の方に押しかけてきているようであった。こちらはこちらで涼輔を仕留めようと画策されていた以上、現界でも美菜や他の連中を亡き者にするための計略がめぐらされているに違いない。
すっと振り向きざま、向かってきた鈍い黄色の光を受け止めるように右腕を差し向ける。
左の腕で、抱き抱えている恵を自分の背後に隠すようにした。恵は彼の背中におぶわれるように、後ろから首に抱きついている。
「――じゃあ、そろそろ」
涼輔は一瞬、右腕に全霊の気合を込めた。
「てぇっ!」
ほの暗い深異空に、白いフラッシュが断続的に眩しく閃く。
彼の展開する光壁と、酷性の命術が、激しく競り合っているのである。
均衡する二つの光は押しつ押されつしながら、まるで意志をもった生き物のように実体をもって激しくうねっている。
そこでどちらが凌駕され駆逐されそうなものだが、生命力の突っ張り合いは簡単には果てなかった。むしろ、次第に輝きが増し始め、衝撃する光が青白いスパークとなって散り始めた。鉄の溶接の、あの閃光が巨大になったようなものである。
「……フ、フ、フハ、フハハハハ――」
徐に、酷性が笑い出し始めた。
「いい、いいぞ、双転の化身! さすがは全異空最強の実力の持ち主ということだ! 虐性や暴性如きの雑魚では、到底敵せずとて、当然だな! この私でこそ、お前の相手が務まるというものだ! さあ、もっと来い! 私の力は、奴らの比ではないぞ!」
気持ちが高ぶり出した酷性の言葉に、涼輔は妙なものを感じた。
さっきの命幻術といい、彼がこれまでに倒した幻魔衆の恨みや怨念の結晶だと酷性は言った。そして、他の同胞よりも我が身を高しとするこの言動。どうも、今相手にしている幻魔衆・酷性は、どこか従来の幻魔衆とは異なり、非常に歪んだ何かの生命の化身ではないのか、という気がした。
そういう生命の働きはどの人間にも持ち合わされているものであり、それが極端に全面に出されてくると人と人の協調は崩され、時には傷つけ合い殺し合いとなり、更には国家間の殺戮にすら発展することがある。
単なる一生命悪の結晶体だと思っていた酷性とは、実はさらに根の深い何事かを秘めた、もっと悪質な生命の作用ではないのか――涼輔は思った。
思った途端、彼はその表情から一切の余裕を消し去った。
「……あいつ、危険だな。正気じゃないぞ」
「はい。仲間が浅香さんに倒された時も、全然慌てていませんでした」
彼の耳元で、恵も同意した。
後ろから抱きついているような体勢だから、自然と彼女の頭が涼輔の頭の傍にあるのである。
それまで白く光っていた涼輔の生命力が、突如青白く輝き始めた。
彼は自分で展開した光壁をそのままそこへ置き去りにして、ひとっ飛びで酷性の間合いへ飛び込んだ。
光速、というべきか、青い光が彗星のごとく走ったようで、力と力の押し合いに夢中になっていた酷性は、その異変には気が付かなかった。
後ろ盾を失った光壁は、ほんの僅かに持ちこたえた直後、黄色い光に圧倒されてぐっと歪み、そのまま貫かれて四散した。が、並みの強度でなかった証拠に、押した筈の酷性の命術も軌道を狂わされ、あらぬ方向に湾曲して突き進み、やがてコントロールを失って床に落ちた。
酷性が涼輔の異変に気が付いたのは、それからのことである。
その時には既に、涼輔の生命力が一気に解き放たれる直前だった。
「――何ィ、いつの間に?」
「お前がよそ見している間だよ」
間髪を容れず、涼輔の右手が床を打った。
彼の右手を介して放たれた超強力な生命力は酷性の足元に蓄積されるや、天に向かって爆発的に吹き上げた。
あたかも、巨大な光の円柱がそこに現出したようである。
密度の高い光に包まれた酷性は、驚愕の表情から、やがて恐怖、苦痛、苦悶、地獄へと形相を変化させていった。
全身余すところなく、涼輔の命術が作用しているのである。
「ぎ、ぎぃえぇぇぇ――」
生きたまま業火に焼かれる野獣のような耳障りな絶叫を上げ、酷性はのたうち回って苦しんでいる。
逃れようにも、涼輔の放った青い力は酷性の身体を幾重にも包み込み、そこから絶え間なく侵食しているのである。
青い炎に焼かれた酷性の身体が少しづつ光の粒子となって昇天していくにつれ、どこからともなく地鳴りが始まった。遠くで始まったそれは次第に大きくなり、涼輔と恵の足元も派手に揺れだした。
古代神殿のように林立していた、クリスタルのような円柱もがらがらと崩れていき、床に落ちては四散し、欠片が細かい光となって消えていく。
「あ、浅香さん? これって……」
初めて体験する異空の崩壊に、恵はおろおろしている。
彼の左脇腹にしがみついている彼女の頭を優しく左腕で包み込みながら
「……異空を創り出した主が消滅すれば、異空もまた消え去るのさ。もう少しすれば、ここは無に帰して、何もない状態になる」
涼輔はちょっと笑って
「今日、俺達の生命に蟠っていた悪い何かが、きっとあいつだよ。みんなが力を合わせ始めたから、その悪い物が、今まさに消滅しようとしているんだろうな」
偽らざる、今の彼の正直な心境だった。
脳裏に、にこやかに握手して彼を歓迎すると言ってくれた隆幸や、最後は彼を信用して力を貸してくれた美菜の、妹を案ずる不安げな顔がちらりと過ぎった。
「ひ、ひ、ひ、ひぐあぁぁ――」
悲鳴だけは派手に上げつつも、もはや酷性の姿はほとんど光の中に消え去ろうとしていた。影のように、黒く彼の輪郭がぼんやりと外側から見えるにすぎない。
異空の振動は最大限に達し、そのうちガラス板を敷き詰めたような床が、合わせ目からどんどん崩れ出した。
見渡す限りが奈落に消えていくかのようなその様は、まるで飲み込まれそうな感覚を与え、恵はすっかり怯えてしまっている。
「あ、浅香さん……」
こうなれば、異空の消滅は早い。もたもたしている時間はなかった。
彼はがっちりと、恵を抱き抱えた。
「じゃ、帰るよ。しっかり摑まっていてくれ」
そうして転移を発動すべく、思念を集中させようとした時である。
「……双転の化身よ……この、深異空から、出られると思……ってか……」
どこからともなく、酷性の、息も絶え絶えな声がした。
「浅香さん……?」
恵が不安そうに見上げたが、涼輔は顔色も変えない。
「何、入ってきたんだから、出るのに造作もないさ」
そうして今一度思念を学校に集中し、彼等は真っ暗な異空から姿を消した。
すっかり失われようとした異空に、最後に酷性の声が響いた。
「……このままには……済まさんぞ……双転の……化身……」
まるで、餓鬼の泣き声のようにも聞こえた。
「――貴様ぁ!」
右腕を鋭い剣のような形状に変化させ、幻魔衆の男は突進してきた。
が、その程度の攻撃には、もはや隆幸は何の用意も必要としなかった。
斬り合いになれば、彼の得意分野なのである。
間合いがぐっと縮まり、幻魔衆の男は力任せに右腕を左袈裟に振り下ろした。
が、その不恰好な腕と一体化した剣は虚しく空を切り――右へ一歩踏み出す程度でかわしてしまった隆幸の鋭い地精刀が、あっと言う間もなくカウンターを入れるように幻魔衆の首筋に突きつけられていた。
男の表情が、見る見る恐怖に染まっていく。
「あ、あ、あ、ああぁ――」
隆幸の冷たい視線が、幻魔衆の男をとらえている。
「……終わりだ」
一瞬、というだけの間もあったか、どうか。
幻魔衆の男の恐怖に引きつった首が飛び、右袈裟と左袈裟、横一文字に胴体が割れた。
恐るべき早業である。
目に慣れない、例えば明日香などが見ても、何が起こったか理解できなかったであろう。
屈みこんだ隆幸の背後で、声も立てずに幻魔衆は切り口から光の結晶となって宙に四散していき、やがてその姿は完全に消えて失せた。
「――さて、と」
隆幸は疲労しきった身体を起たせた。
(彼の言う通りだったな。こっちの生命次第で、幾らでも強くなれるんだ)
ふと見ると、窓の外が真っ赤な夕陽に染まっていた。




