降臨の章2 決意、そして旅立ち
北海道の二月といえば厳冬真っ盛りであり、深い雪に埋もれている。
連日のように降り積もる雪をはねながら、人々は遅い春を待つ。
今日も空一面を重く覆い尽くしている雲から、絶え間なく雪が降り続いていた。時折風まじりに吹き付けるそれは、この上もなく肌に痛い。
ふと目を上げると、視野に広がるのは白灰に染まった世界。時に数メートル先も見えなくなる程に降雪の密度は濃い。
道のない斜面を、雪を掻き分けながら歩いて行く。
そこが勝手知った場所だからよいものの、初めての場所ならとても冬に踏み入れるべきではないかも知れない。
人が住んでいる地域からそう離れてはいないのだが、大量に降り積もる雪は景色を一変させてしまい、時に人間の感覚を狂わせる。迂闊に迷ったりすれば、山奥へ入り込んでしまって命を落とすであろう。
もう日は暮れかけていた。
次第に、という間もなく空が暗くなっていき、目の前の山林が闇に飲み込まれ始めた。
しかし、引き返すつもりもなかった。
ほんのもう少し進めば、確かにある筈だからである。
一本の桜の木。
それを最後に見に来たのは、一体いつだったろう?
その時は満開で、桃色に染まった梢をいつまでも見上げていたという記憶がある。
もう数ヶ月すれば、また同じように桜の花が咲き乱れるに違いない。
しかし、その頃にはもうこの場所に来ることはない。
淡々と暮らしていたところへもたらされた、思いがけない転機。
雪のない、遠くの都会に住む伯母から届いた一通の手紙。
今度の進級を機会に、こちらへ出て来てこっちの学校へ通わないか、とある。
突然すぎて、それがこの先の自分にどういう意味をもつものなのか、まったく見当もつかなかった。
手紙から視線を外しつつしばし沈黙していると、老いた祖母は彼に促した。
「……もし、嫌でないなら、話にのったらどうだね? このままここで暮らし続けても、何かためになるようなことがある訳でもないし。気分を変えて、新しい生活を始めてみれば、きっと将来にも悪くないと思うんだけど」
そうは言われても――と、考え込まざるを得ない。
この地に残しゆく祖父母のことが心配だった。
が、手紙が着いた翌日、伯母から直接電話がかかってきた。
思いついた限りのいくつかの心配を話してみると、それらについてはみな、伯母が先回りして手を打ってくれるという。すべての不安材料をあっけなく皆無にされた彼が沈黙すると、伯母はさも愉快そうに楽しそうに
「色々と辛いことがあったのは聞いているの。でも、そんな時だからこそ、新しい環境の中に飛び込んで気分を変えてみることが大事だと思うのよ。決して悪いようにはならないと思う。どうか、前向きに考えてみてもらえるかしら?」
伯母もまた、祖父母と同じ表現を口にした。
気分を変える。
今の自分に、一番必要なことであると言うのか。
まるで何事かの暗示であるような、そんな感じがした。
伯母は、彼が学校に行かず祖父母の農作業を手伝っているということを聞き知ってわざわざ声をかけてくれたようだが、しかしいきなり都会に出て来いとは、ずいぶん飛躍した話にも思える。伯母との付き合いは決して短くはないが、かといって今に至るまでそういう重大事を持ちかけられたことなど一度もなかった。
彼女は彼女で、何か感じるところがあったのだろうと彼なりに思うことにした。
ただ、好意はすごくありがたいものの、やはり躊躇う気持ちの方が大きいというのが正直なところだった。
数日というもの、彼は結論を控えたままにしていた。
ふと思い立って家を出たのは、そんな折である。
もう日も落ちかけていて降雪も大分強くなっていたが、今絶対に行っておかなければならないような気がした。なぜかはわからないが、行かなければ後悔してしまうような、そんな予感がしたのだ。
辺りは、風と木々のざわめく音しかない。
時々、遠くで鳴らされた車のクラクションが聞こえたりする。それくらい、一帯は静寂が支配するままになっていた。
仄かに青白く光る雪を一歩一歩踏みしめながら、木々に囲まれた山の道を登っていく。何も考えずに歩を進めているつもりが、いつしか、何度も同じ言葉を反芻してしまっている自分に気が付いた。
『……必ず、あなたを待っている人達がいるから――』
そう言ってくれた人には、もう二度と会うことはできなかった、
自分の力が及ばぬばかりにみすみす喪ってしまった――彼はずっとそう思っている。
彼女を喪った日から、彼はありとあらゆる未来への期待を止めた。
しかし、今度の伯母の申し出は、彼にその言葉をまざまざと思い出させていた。それというのは、決して思い出したくなるものではない。あの最後の微笑みが幾度となく浮かんできて、胸の苦しさのやり場がなかった。
ただの別れなら、性格的に淡白な彼はこうも苦しまなかったであろう。
まっとうに家族のいない生い立ちと、突然沸き起こった不可思議な環境の中で、唯一彼が心を許した存在だったからである。互いにまだ齢十六歳ながら、叶うことならこの少女と一生を共にしてもいい、ふとそんな思いにかられたこともある。
今の自分の全てを投げ打ってでも、守り抜きたかった。
が、必ず自分が守る、というその誓いは脆くも崩れ、そして残酷なことに――待っていたのは、彼女の身と引き換えに彼自身が守られてしまうという、皮肉きわまる結末であった。
その日以来、彼は人との関わりを絶った。
誰一人としてその哀しみに気付く者もなく、ただ安閑と日々を消していく連中とは顔を合わせる気がせず、学校には行かなくなった。
そんな彼の胸中を知っていたのかどうか、祖父母は何も言わなかった。
言わなかったのだが――彼らは代わりに、伯母と共に彼に新しい進路を示してくれたことになる。
喪った少女とかつて訪れた場所へ、今彼は近づきつつある。
あの日、満開の桜の下で、彼女は嬉しそうに微笑み、言った。
『……一緒に強くなろうね。私はずっと、傍にいるから』
が、一緒に強くなれずに、二人は永遠の別れを迎えた。
思い出などという感傷に浸るつもりは全くない。
ただ、この閉塞された状態の中で俄かに現れた一本の、しかも未知なる道へ進んでいいものかどうか、決意を固める前に確認しておきたかった。だから、彼は行くことを思った。
とりとめもない逡巡を繰り返すうち、登り斜面は平坦な地形へと変化した。
すっかり暗くなった小高い丘の中腹に現れた、ほんの少し開けた場所。
たった一本で佇むその木を、彼は目にした。
天に向かって伸びた葉も花もない枝には雪が積もっていて、あの艶やかだった日の面影は全くない。ただ、寒々しくそこに立ち続けているだけであった。
雪がすね上まで積もっている中を、傍まで踏み進んでいく。
ごつごつとした幹にそっと手を添え、しばらく梢を見上げていると、ふと彼はあれだけ降っていた雪が止んでいることに気が付いた。
振り返り見れば、周囲の森の向こう側、眼下に彼の住む小さな町の明かりが、はっきりと見えた。盆地状の町を囲むように山並みが黒く続き、その背後には夜空がどこまでも広がっている。
何を思うでもなしに濃紺の景色を眺めているうち、彼はふと気づいた。
「……」
あれだけ天を圧していた雪雲が嘘のように消え、この冬には珍しく満点の星が、まるで降り注ぐようにして瞬いている。近隣に大都市の明かりがないだけに、純粋な星明りのイルミネーションはこの上もなく美しかった。
胸中、静かに湧き起ってくる穏やかな感動を感じながら、ややしばらくその光景を眺めていた。
こじつけや縁起などに関心を持つことはなかったが、こうも一気に晴れ上がった夜空を見ていると、彼に対する何事かの答えを暗示しているように思われた。ぐっと見上げると、あの美しい桃色の花でこそないが、枝という枝に星の花が咲き乱れたようである。
彼は不意に、あの日見た情景を脳裏に鮮明に呼び起こしていた。
同時に思った。
(……行け、ってことか。俺に)
突然降り止んだ雪、そして雲を押し流しつつ一気に晴れてゆく空。
これが何かの暗示でないとしたら、どういう偶然だというのか。
今、彼を取り巻いている全てが、彼の背中を優しく、しかし強く強く後押ししているように思われた。
(そっか。あれは終わりじゃなかったのかもな。あれが始まりだったのかも知れない。……きっと、そうだ)
強くなれずに終わったのではない。
これから強くならなければならない。
(そういうことかも知れないな)
彼の決意は自然と、固いものとなっていた。
振り向いて後悔ばかりしていても、何も始まらない。
かつ、人は必ずしも一人で立ち上がらなければならないことなどないのだ。誰かが手を差し伸べてくれているなら、その手につかまってみてもいい。いつか、今度は自分が手を差し伸べてやればよいではないか。
結論は出た。
(……ごめんね、美紅ちゃん。俺、行くよ。まだまだ、ここで挫けて終わるわけにはいかないから)
心に深く決めた彼はすぐさま踵を返し、もと来た道を辿って丘を下ろうとした。
すると――また静かに、雪がちらつき始めた。
ふと気になって振り向くと、暗闇に例の桜の木が、ぼんやりと浮かんで見える。
またいつか、この場所に来る日はあるだろうか。
その問いに対する答えは出さぬまま、彼は一歩、また一歩と歩いてゆく。
その夜からひと月あまりが経ち――三月も終わろうとしている頃。
もう四月になるというのにまだ残雪は多く、吹き付ける風は冷たい。
駅前のバス停でぼんやりバスを待つ間、ふと目線を上げると、遠くに山並みが見えた。
毎日のように眺めていた、見慣れた景色。
が、明日からはもう、目にすることはないのだ。
彼は、新たな局面を求めて、これから長年暮らしてきた故郷を発とうとしている。
祖父母も、快く送り出してくれた。あとのことは伯母に頼りっぱなしになるが、それで良いと思っている。今の彼にできることは祖父母を養うことではなく、将来それができる自分になるために勉学に励むことである。伯母に伝えると、その通りだ、と太鼓判を押してくれた。
この先、何があるというのか、それは全くわからない。
が、解らなくてよいのかもしれなかった。
行く手に何が待っていようと自力で切り開いていくためにはどうすべきか、このひと月以上、彼は模索に模索を重ねてきたのだ。
明日からの新しい生活の中で、その考えの正しさを証明していこうと思う。
待つうちに、空港行きの路線バスが駅前ロータリーを回ってこちらへやってきた。
彼は、沸き起こってくる様々な思いを振り払うように、大きなスポーツバックをよっこらしょ、と担いだ。
(……じゃ、行くか)
バスに乗り込む。
座席に座って窓の外を見やれば、寒々しくはあったが、空は凛と晴れ上がっていた。
一人の少年の旅立ちから今、物語は始まる。