降臨の章18 護るということ
「いやあぁ!」
明日香の悲鳴が轟いた。
ハッとしてそちらを見やれば、全身真っ白な得体の知れない何体もの人影が前後左右から明日香を取り囲み、彼女を取り押さえていた。
彼女の目の前にいる一体が、右腕を大きく振り上げた。
右手がアメーバのように変化して、見る見る鋭利な凶器と化した。それで明日香を一突きに刺し貫くつもりであろう。
(……明日香ちゃん!)
瞬時に背筋が冷たくなった。
テレビや映画のフィクションでしかあり得なかった殺人が、今まさしく目の前で行われようとしている。
しかも、殺されようとしているのは――自分の級友である。
助けなければ、という焦りと恐怖感とがほんの僅かな一瞬の間に、彼女の心の中で混在した。
それらが溶解しあって生じる気持ちは、「どうしよう」である。つまりは躊躇いであり、我が身を省みることなく立ち向かう勇気を奮い起こすことができなければ、明日香は死ぬ。
(ああ、、どうしたらいいのよ? マジでヤバいったらないじゃない! 何とか、助けなくちゃ……)
助けなくちゃ、の先まで自分で意識できる人間などは恐らくいるまい。
でも無理、とか駄目、という内容になるのだが、自分で自分を正当化してしまう人間の心理というものは、いつもそこまで至らずに終わる。我が心の動向を最後まで観察できることこそ客観視と呼ぶのであり、巨視的に自分を省みることができたとき、それはほぼ自分自身の弱さ「臆病」に半ば立ち向かっていく決意がはっきり結晶した瞬間であるといっていい。
しかし、最も踏み込みにくい自分の心の弱さのフィールドというのは、時として色んな心の動きが引き金となり、一気に突っ込んでいく場合もある。
もう駄目、という状態に陥ろうとした瞬間、突然霞美の脳裏に昼間の出来事がフラッシュバックした。
『いっつも逃げ回っているくせに――』
映像の中の美菜が、自分を痛烈に非難しているシーンが、あたかも意志をもっているかのように、幾度もリピートされている。
何も出来ずに逃げ回ってばかりいる――その言葉が何度も反芻されていくうち、面と向かって美菜に痛罵された腹立ちやら、それに何も言えずにいた自分の不甲斐無さがむくむくと胸中湧き起こってくるのを感じた。どちらかと言えば、美菜にああまで非難された怒りの方が大きかったが。
色々な面で無難さを好む彼女は、今までこれといって他人と摩擦を起こすようなことは殆どというほどなかった。それは反面、自分に対する批判を恐れるがためであったといえるかも知れない。成績優秀で、常に褒められる場面ばかりだった彼女にしてみれば、マイナスの評価を受けるという事自体が、自分自身を真っ向から否定されるようで、我慢がならなかった。ただ、機会が稀少だっただけに、そんな感情が具体的に発動されることなく現在に至っていたのであった。
しかしながら、美菜はそんな霞美の胸中を鋭く抉ってしまった。
かなり感情的な怒りにまかせてしまったとはいえ、偶然かどうか、霞美のいわば弱点をとらえてしまったのである。音は大人しい霞美だったが、理不尽にそういう侮辱(と彼女は思っている)を受けることが、どこまでも許せなかった。道理を重んじる彼女らしいといえば、そういえるかも知れない。
こみあげてきた言い知れぬ怒りが、彼女を突如別人にした。
というよりも、この場合は底力を覚醒させたといっていい。
侮辱への怒りと明日香の危機とが絶妙のタイミングとなって、彼女を自分の弱さに立ち向かわせるきっかけとなった。
(……やってやろうじゃないのよ。このあたしが、臆病な弱虫でないってトコ、見せてやるわよ!)
瞬間、霞美はキレた。
眼前にいた白い化け物を渾身の力を込めて大きく蹴り飛ばすと、霞美は右腕をそちらにさっと差し向けた。
「……くおのぉっ!」
咆哮すると同時に彼女の右手に透き通った青白い光が生まれ、それは見る見る肥大化して霞美全体を包まんばかりに巨大になった。光は清らかなクリアブルーで、水面に光が反射して輝くように、立ち上る結晶が絶えずキラキラと閃いては部屋中を照らし出した。
――明日香を救わなければ!
彼女の胸中、ただそれしかなかった。
その必死な強い思いが、霞美にかつて駆使しえなかった強大な命術の発動を可能にさせた。
が、右腕が命術の強さに持っていかれそうで、放つタイミングが摑めない。
霞美はぐっと、左手で右腕の間接のあたりを支えるようにした。
雑念などなかった。
自分の放つ命術が明日香を巻き込んでしまうかどうかなど、思う余地すらなかったといっていい。
一瞬目を閉じ、再び開くと渾身の気合をかけた。
形相が、普段の霞美のそれと一変していた。
「いっけえぇっ!」
美しい青の閃光が部屋中を満たした。
彼女の腕を離れた巨大な光は途中で大きく捩れた後、たちまち巨大なウェーブと化して、津波が押し寄せるようにして幻魔衆の一団に襲い掛かった。
上から下へ、叩きつけるような一撃であった。
白ずくめの化け物達は押しつぶされるようにして上体をねじ曲げられ、圧力に耐え切れずに頭や背中から青い光のプレッシャーの浸食を受けて四散していった。
閃光が何度もフラッシュし、それを打ち放った霞美自身にはその様子がよく見えていない。
やがて数秒後、すうっと光が消滅し、あたりは元の薄暗い教室に戻った。
目が慣れない霞美は、はっとして明日香の姿を探した。
「……霞美ちゃん」
弱々しい明日香の声がした。
思わず駆け寄ろうとして、霞美は傍らにあった机にぶつかり、そのまま転んだ。
転んだ先に、明日香がいた。彼女は、屈み込んでいた。
「明日香ちゃん! 大丈夫なの? 怪我は?」
勢い込んで尋ねる霞美。我を忘れていたから、思わず口調が激しくなってしまっている。
「うん、ありがとう。大丈夫よ。でも……」
どこか様子が変である。
じっと凝視してみると、何と明日香は全身水を被ったようにずぶぬれになっていた。髪の毛や顔からぽたぽたと滴が落ちている。
「どうしたのよ? 何で、そんなにずぶ濡れ――」
とまで言いかけて、霞美は笑い出した。
「そっか。あたし、水の属性だものね。明日香ちゃんに怪我させなかった代わりに、水かけちゃったみたいなものか」
自分の迂闊さに腹を抱えて笑っている霞美の傍らで、びしょ濡れになったまま、明日香が情けなさそうな顔をして座り込んでいた。
可笑しくて苦しそうに、霞美は言った。
「じゃ、じゃあさ、明日香ちゃん、風の力を持っているんだから、それで、か、乾かせばいいんじゃない? あは、あはは――」
完全にテンションの狂っている霞美に、微妙な思いやりなどはあるはずもなかった。彼女はさらにのたうって笑い転げた。
「……霞美ちゃんの、馬鹿」
「浅香さん! そんな、ひどい……」
一部始終を見守っていた恵が、悲鳴を上げた。
酷性は落ち着いている。
「……何だかんだと言っても結局、人間は幾つもの逆境と向き合って耐え忍ぶことなど、不可能だ。どれだけ強がろうと、やがては押し流されて敗れ去っていく……。今の奴が、そのいい例だ」
望み通り涼輔を葬り去ることができたらしいが、彼は何故か僅かにも喜色を表に出さない。
幻影はすうっと消滅し、何物も映し出さなくなった。
そこには、元通りの異空の闇が続いているだけである。
ややしばらく、酷性はその闇を見つめていた。
(浅香さん……)
たった一つの希望から背を向けられた恵。
がっくりと全身の力が抜け、もはや何も思うことが出来なかった。
やがて、そんな彼女の心情を悟ったかのように酷性は振り返り、恵と向き合った。
「さて、目的は果たした。もう、双転の化身の気配は、この異空にはない。……お前も、いつまでもそのままでは辛かろう。そろそろ、消えてもらうことにしよう」
どこまでも抑揚のない声で、彼は言った。
恵は、ゆっくりと顔を上げた。
助かる見込みがないと判った以上、彼女にはあらゆる抵抗する意志が失せていた。今まさに殺されようとしているにも関わらず、不思議にも動揺が起こらなかった。
酷性が近づいて来て、すっと右手を彼女の胸に押し当てた。
「……私は、虐性のようなことはしない。苦しまないよう、一撃で死なせてやる。安心するがいい」
(……お姉ちゃん)
そう呟いたのか、心に思ったのか、判らない。
ただ涙が一筋、頬を伝って流れていった、
両腕を絡め取られている恵には、それを拭うこともできない。
「安らかに眠るがいい、付双の少女よ――」
そこまで言い掛けて、酷性は急に背後に視線を走らせた。
あろうことか、闇一面の空間に、一筋の線が入っていた。
「……何だと? これはまさか……!」
見ているうちに線は四方に広がっていき、まるで卵の殻が割れるようにして空間の欠片が一枚、はらりと剥がれて落ちた。
と、次の瞬間。
その一辺から白く輝く力強い光が漏れ出し、一呼吸おいてドンッ、という爆音と同時に空間が激しく弾け跳んだ。爆弾が爆発したように、といっていい。
そのあたり一面、細かな光の粒子が無数にきらきらと舞い散り、その眩しさゆえに視界が失われた。
「……?」
突如の異変に、恵もはっとしてそちらを見た。
やがて光の結晶が次第に消滅してうっすらと視界が開け――そしてそこには、眼球の化け物に斃された筈の涼輔が立っていた。
ポケットに手を突っ込んだまま、鋭い視線を酷性に送っている。
「あ、浅香さん!」
「……貴様、あの死地からどうやって……」
酷性は俄かに信じ難いというように声を出した。
涼輔は下からキッと彼を見据え
「……ああ。あれは確かに無茶振りだな。一瞬、どうしたものかと思ったさ」
言いながら、涼輔はゴキゴキと首をひねった。
「だけど、何度も同じ事言わせんじゃねェ」
言い終わるや否や、空間中を満たさんばかりに閃光が断続してフラッシュし、キキキキという耳障りな音が響き渡った。
数秒してそれらが止んだ後。
酷性と涼輔はお互いに、片手を相手に向け合っていた。
「……ただでは、退かぬか」
「ここは、俺の生命の中だぜ」首を軽くひねって「――お前の存在もな」
涼輔の姿がふっと揺らいだ。
「――ぐわぁっ」
間髪を容れず、ドカッという鈍い音と共に酷性の身体が激しく吹っ飛んでいき、今しがた涼輔が立っていたあたりへ転がった。
代わってそこには、涼輔がいた。
紛れもない彼の姿を認め、恵の表情が歓喜に溢れた。
「浅香さん! 無事だったんですね!」
嬉しそうな恵を眼にして、涼輔も自然、笑顔になっていた。
「おう、大丈夫さ。この通り、助けにきた」
「本当に、良かったです……」
そう言ったのは、自分の無事の保障に対してではない。
やられてしまったと思われた、涼輔の健在に対する安堵である。
ふと、彼女は自らの姿に気が付いた。
制服は無残に切り裂かれており、腹部や脚が露で半ば半裸のようになってしまっている。途端に羞恥心という日常の感覚が戻ってきて、恵は顔を赤らめて下を向いた。
「あの、あの、私……」
それを揶揄したりするような卑猥さが、この涼輔という男に微塵もなかったのが、恵にとって救いであった。
涼輔はつかつかと近寄ると、彼女を拘束している光鎖に手をかけた。
「よしよし。今、こいつをぶち切って自由にしてやるからね」
「――油断するなよ、双転の化身! 私は倒れておらんぞ!」
背後から、酷性の声が響き渡った。
刹那、四方に不吉な気配を感じ取った涼輔。
「――野郎!」
恵の視界は、強烈な光に奪われた。
「きゃあぁぁっ」
顔を背けて悲鳴を上げる恵。
ややあって、閃光はフェードアウトした。
と、彼女は急に手足の自由を感じた、今まで雁字搦めに彼女を拘束していた光鎖が解かれていた。
目の前に、先程のように涼輔が立っている。
だが彼はふらりと彼女にもたれるように倒れかかった。
「浅香さん?」
彼の身体を、恵は自由になった両腕で抱きとめた。
何となく涼輔の背中がぬるっとしたような気がして、彼女は自分の手の平を見やった。
真っ赤に染まっていた。
血が流れている。
涼輔の背中が一面ずたずたになっていた。
どころではない。
彼の腕や脚も、よく見れば血が飛んでいるではないか。
酷性が放った命術を、回避する間もなく自らの肉体をもって彼女を庇ったのである。
庇われたことよりも、血が恵を即刻動転させた。
「あ、浅香さんっ! 血、血が……」
恐らく生まれて初めて目の当たりにしたであろう凄まじい負傷の様に、恵は解放された安心感も忘れてすっかり度を失っていた。
が、あちこちの傷口からおびただしい血を滴らせながらも、涼輔は表情を変えない。
「よく、ある、こと、さ……」