降臨の章15 信じる気持ち、合わせる力
「――おい、大丈夫か!」
激しく上体を揺さぶられる感覚、そして何度も呼びかけてくる声。
意識をわずかに取り戻した美菜は、うっすらと目を開けた。
何者かが、自分を抱きかかえて、懸命に呼んでいる。
背後に見える空が赤い。
逆光でその人の顔はよく見えなかったが、どこかで聞き覚えのある声であった。
美菜は本能的に自力で起き上がろうとする。
が、意識がはっきりとしてくるにつれ、全身にはしる痛みが耐え難かった。吹っ飛ばされた時に切れたのか、口の中で血の味がする。口の端に、僅かに血が流れていた。
「痛た……」
草むらの上に、やっとのことで上体を起こした。
すぐに脳裏に恵の顔が浮かんだ。
助けに行かなければならない。
さもなくば、恵は五体をバラバラにされて殺されてしまうのである。幻魔衆は、間違いなくそれをやるであろう。しかも、恵の苦痛を楽しむように、残虐に、ゆっくりと。恵の悲鳴が聞こえてくるような気がして、美菜は背筋が冷たいものが流れた。
「……恵……」
恵のことだけを考えている美菜は、傍にいる人物に対して何ら注意を払っていなかった。全身に傷を負い、そのために心が多少平静さを失っていた。
「――一体、どうしたんだ? 恵ちゃんは?」
頭の上から大きな声がした。
うつろに見上げると、顔がすぐ近くにあった。
涼輔であった。
「幻魔衆に奇襲されたんだろう? 急いだけど、途中邪魔されて間に合わなかった。……で、恵ちゃんは? 連れ去られたのか?」
明らかに、焦っている。
「……」
この人に、何をそんなに焦る理由があるのだろうと、美菜は胸中のどこかで冷静に思った。その裏側では、恵、恵と騒がれているのが、どうにも鬱陶しかった。
横からでしゃばられている様で、無性に腹立たしい。
美菜は相手にせずに、立ち上がることに集中しようとした。
が、思うように力が入らない。
尻餅をついていた。
「おい、頼む! 教えてくれないか。恵ちゃんは、異空まで連れ去られたのか? それともどこ――」
「うるさいわね!」
美菜はついカッとして、咆えてしまった。
「あなたには、何も関係ないでしょ! 恵のことは、あたしがどうにかするから放っといて! それよか、逃げて回っている明日香ちゃんとか霞美ちゃんの心配してあげたらどう? また苦戦してあなたの助けでも待っているんじゃないの」
たたみ込む様に言ってしまった。
だが、涼輔に悪態をついたところでどうなるのであろう。
幻魔衆は異空に来いと言い残した。
しかも、美菜ではなく涼輔に。
美菜が自力で異空に転移するなど、どう考えても不可能であった。
それが判っているのに、自力ではどうしようもない筈なのに、わざわざ涼輔に向かって文句を言ってしまった虚しさが、美菜の胸中に満ちていた。
それでも、我の強さも手伝って、美菜は黙り込んでいる。
どうにかして異空へ行く方法を考えようと思った。
が、転移も全く使えないのに、異空へなど行く術が思いつく筈もない。焦りだけが前のめりして、美菜は泣きたい気持ちになった。
そんな彼女を、涼輔は少しの間じっと見つめていた。
やがて背後から話し掛けた時、彼の口調は静かではあったが、強い意志と、そして怒りが込められていた。
「……朝から、あの子は狙われていたんだ。地下の図書室へ行こうとして一人でいるところを襲われ、そして校庭で一人いるところを襲われ、今また襲われて、ついに連れ去られた。なんでだと思う?」
美菜は背中で沈黙している。
涼輔は続ける。
「幻魔衆の奴等、俺達双転の化身を誘き寄せて消すつもりだったのさ。そのために、戦うことのできない恵ちゃんを何度も襲ったんだ。恵ちゃんを狙えば、必ず俺達が出てくる筈だからね。図書室で恵ちゃんを助けた時から、どうもそんな気がしてたから、今日はあれからほとんど授業には出ないで、気配を窺っていた。結果的に、不意を衝かれてしまったけどね」
思わず、美菜は振り返った。
地下で襲われた一件を、恵は「自力で逃げ切った」と言った。
が、涼輔はたった今「助けた」と言った。
それ以前に、恵が図書室へ行く用など本来涼輔が知る筈がないのに、知っていたというのはどういうことなのか。
前髪の下から、涼輔の目がまっすぐ美菜を捉えている。
問いもしないのに、その疑問の答えを涼輔は語りだした。
「何で知ってる、って顔してるよね? 恵ちゃんが地下で襲われたことだって、俺にはすぐ判った。幻魔衆の気配を感じるくらい、俺には朝飯前だからさ。――というか、あの子を一人で誰もいない、いつ襲われてもおかしくない場所に行かせてるのが信じられなかったよ。まあ、危機一髪助けられて良かったけどな。……それよりも恵ちゃん、俺が助けに来てくれたとか言ったら、君が気にすると思ったんだろう。だから、君には黙っていた。そういう事になる」
涼輔の物言いが半分以上気に食わなくはあったが、反論するだけの強い理由がなかった。
朝、同じ空間にいながら妹の危険を何も感じられずにいた自分に対して、涼輔はいち早く察して恵の許に駆けつけていたのである。実力の差とはいえ、姉である自分が何もできなかったというのでは、責められても仕方がないような気がした。
さらに話を続ける涼輔。
「その事は別にどうでもよくて」
と、前置きを入れつつ、美菜の背中に向かって喋りだした。
彼が一番美菜に言いたい事は、もっと別にあるのだった。
「どうぜ奴等のことだ、俺をどこか、そうだな……異空か、異空まで誘き出してそこで討ち取るつもりだろう。……だが、俺が行かなければ、今捕らえている恵ちゃんを殺す、と。恐らく、そんなことを君に告げていったと思うが。そうじゃないか?」
いちいち、涼輔の言う事は図星をついている。
内心で驚きつつ、美菜は返事をしない。
が、無理に無表情を装ってみても、彼女の切ない雰囲気がそうだと言っているらしい。涼輔はそれとなく了解し、言葉を続けた。
「俺に来いというなら、行ってやるさ。それで恵ちゃんを助けてこようと思う。だが」
声の調子が優しくなったように、美菜の耳には聞こえた。
「幾ら俺が転移を使えるとはいっても、今すぐに異空まで飛ぶだけのことは出来ないんだ。負の生命力によって創られた空間に飛び込んでいくには、それをぶち破るだけの生命力がまた必要になる。つまりは、君の協力がないと、恵ちゃんを助けに行く事ができないんだ。悔しいけれども」
美菜には、初めて聞く話である。
そもそも、今自分達が巻き込まれてしまっているこの不可思議な現象の根拠も理由も原理原則も、知るべき拠り所が全くなかったからである。
浅香涼輔という、今日やってきたばかりの少年が、何故こうまで様々な事柄を承知しているのであろう。見知らぬこの世界の創り主が贔屓でもしているかどうか。さすがに、美菜はそういうことについては考えたりしないものの、やはり大きな疑問であった。
その疑問をして、涼輔の主張を受け入れさせなくもあったし、何より、午前中の腹立ちが収まってはいなかった。
「……」
沈黙で返答する美菜。
構わずに涼輔は、なおも続ける。
「俺が転移に集中している間、君からも俺に向けて命力を集中していて欲しい。そうすれば、より強い力で異空の壁を貫いて、恵ちゃんのいる異空まで飛ぶ事ができるだろう。……頼む、力を、貸してくれ」
言葉は穏やかだが、態度には必死さがにじみ出ている。
美菜は一瞬たじろいだ。
が、戸惑いとわだかまりが、彼女に拒絶の態度を強要した。
「そんなの、あなたが勝手に考えたことでしょ。私には何の関係もない事よ。私は私で、恵を――」
「あの子が、殺されてもいいのか!?」
涼輔の一喝が炸裂した。
その怒りの凄まじさは、美菜を凍りつかせた。
「君は異空ってものを知らないから、そういう強情を張っていられるんだ。俺がなんでこんなに焦っていると思っている? 異空とは停滞する人間の進歩なき生命の状態だ。この現界でこうしている間に、異空では何倍もの速さで時間だけが流れている。……判るだろう? 今も、恵ちゃんが恐ろしい思いをしながら助けを待っているんだ。こんなところで諍っている様な時間なんか一秒だってないんだ!」
その切るような一言一言に、激しい衝撃を受けた美菜。
知らなかったとはいえ、自分がためらっている間にも恵の命の危険が刻々と予想外の速さで進行しているのである。そうと知った瞬間、美菜はもはや自分の我に捉われているべきではない事を思った。
それに、恵を救わんとしている涼輔は、あたかも自分の妹か娘であるかのように、余りにも必死だった。
何故そこまでに強い思いがあるのか、今の美菜にはわからない。
とはいえ、理由など見えなくても、涼輔の懸命な言葉に偽りなど微塵もないことくらい、さすがに美菜には伝わった。
その彼の純粋な必死さが、美菜の不必要な自尊心を猛烈に突き崩しつつある。
ふと、恵の顔が浮かんだ。
これ以上、彼の申し出を拒否する理由はなかったし、拒否してはならないと思った。命を奪われる恐怖に耐えながら、健気に自分を信じて待っているであろう恵の辛い胸中を想像した時、美菜は泣き出したくなるのを懸命に堪えた。
美菜はくるりとむこうを向いたまま、うなだれている。
あたかも、背中が「恵を助けて」と訴えているかのようであった。
言うべきことを言った涼輔。後は、美菜の反応次第である。
美菜がこのまま協力を拒み続けるだろうと思ってはいなかったが、それでも自分一人でやらねばならなくなった場合の困難をふと思った。無事に、恵のいる空間まで転移できたものか、どうか。
今、二人は幻魔衆の創り出した薄異空にいる。自分の意志のみで自分が望む位置まで身を移す事の困難なことは、これまでの彼の経験が十分に語っていた。
ただし、今この時点で違っているのは、自分一人が逃れればいいということではない。他の人間の命が懸け物になっている。
しくじれば取り返しのつかない事になるだけに、涼輔にしても必死にならざるを得なかった。ただし、ここで美菜の協力さえあれば、成功する可能性は飛躍的に高上する。この生命の世界とは、そういうところである。
二人の間に、やや長いこと沈黙が流れていった。
やがて、彼女は自らの口から、ぽつりと言った。
「……本当に、恵のこと、助けられるの?」
小さく振り向いたその目が、悲しそうに潤んでいた。
本当は妹が心配で、たまらなかったのであろう。
そういう意味では、美菜はただの優しい姉であったに過ぎない。
涼輔は受け止める様に力強く頷き、そして言い切った。
「俺なら、助けられる。絶対に。信じてくれていい。……だから、頼む。力を貸してくれ」
賭けるしかない。
涼輔しか、異空に飛んで恵を連れ戻せる者はいないのである。
こぼれそうな涙をそっと拭うと、美菜は大きく頷いた。
この瞬間、彼女の中で何かが大きく弾けた。
「……そこまで言うならいいわ。信じる。あなたに賭けるしかなさそうだもの」
「済まない。一人で何ともならないのは情けないんだが」
心底済まなそうに頭を掻く涼輔。
それが彼の率直な仕草であるのが可笑しかった。美菜は涼輔の持つ雰囲気に、あっという間に引きずられている。
よくよく見ていると、若者にありがちな芝居じみた言動というものがまるでない。実は憎むべき存在では決してないのだと、思わずにいられなかった。むしろ、軽くからかいたいくらいの愛嬌がある。
「自己嫌悪なら後にして欲しいわね。今は時間がないんでしょ? それで、あたしはどうすればいい?」
「うん、あのね――」
涼輔は、手っ取り早く美菜にその方法を教えた。
即席の考案である。
要するに、美菜と涼輔の命術が調和し、その力が相乗して生命力が倍化した状態になった瞬間、涼輔が転移を発動して異空へ行くというものである。転移も命術である以上、その力の強弱によって行けそうもない場所へも飛べるのではないか、と涼輔は考えていた。ついでに言えば、恵を念ずる思念の強さも重要であるならば、美菜の力を借りるのがベストであるといっていい。
涼輔の話を聞きながら、美菜が疑問を挟んだ。
「……どうして、そんなこと知ってるのよ? あたし達の誰も、そんなこと知らなかったし、出来なかったのに」
「いずれ、話すことになると思うよ。まぁ、やるしかなかったんだ、ここに来るまでに色々あって」
「ふーん……」
要領を得なかったが、今は突っ込んで聞いていられなかった。
時間はない。
二人はすぐ、転移の発動に取り掛かった。
「……じゃ、頼む」
「……ええ」
右手を軽く胸の位置に置き、静かに思念を集中する涼輔。
ほどなく、彼の周囲を青白い光が包み始めた。
傍らにいる美菜は、その光にそっと両手を添えた。
じんわりと手の平が温かく、そして柔らかい。
(この人の生命力って……)
内心で驚きつつも、美菜は目を閉じて両手の平に自分の全意識を集中させた。
たちまち彼女の足下からも薄く光が立ち上り、それは見る見る大きくなって美菜の全身を包んだ。
(……この人の力になって、恵を……)
念じた途端、美菜の光は彼女の両腕を伝って涼輔へと流れ始めた。流れたというよりも、光と光が繋がった、といった方がいい。
美菜が発したその力は、白く、眩い光となって涼輔の全身を包み込んでいく。それはやがて涼輔から放出されている光と調和し、一体化し、一層その輝きを増し始めた。
そうして光の強さが最大限になったと思われる頃、涼輔はちらと美菜の方を向き、
「……そろそろ大丈夫なようだから、行ってくる」
「絶対に、絶対に、あの子のこと、助けてよね」
泣きそうになりながら哀願すると、
「任せておいてくれ。恵ちゃんには、傷一つ、つけさせやしないさ。……それと、さっきから気になってるんだが」
涼輔は、遠くを見るような表情をした。
「学校の方でやたらやばい気配がしている。皆のところへ、行ってやってくれないか。怪我しているから、無理に、とは頼めないけど」
ふと美菜に一瞥をくれると、その姿が痛々しい。
激しく打って痛むのか、右手でそれとなく左腕を押さえたりしている。制服もぼろぼろで、いたるところが擦り切れたり汚れてしまっている。それでもとどめを刺さずに幻魔衆が去っていったところをみれば、幻魔衆の中で相当な焦りが生じているという想像がつく。
どういう事情なのかは涼輔にも判らなかったが、今日という日を境にして急速に攻勢を強めてきた以上、涼輔と他の八人との合流がよほど幻魔衆にとって好まざる事態であることだけは確かなようであった。
顔や足まで傷だらけになっている美菜。
涼輔は早いとこ恵を連れ戻さねば、と心のどこかで思った。女の子がこれでは、余りにも無惨過ぎる。薄異空の状態で、他の人間が誰もいないのは多少幸いといえば幸いだったかも知れない。
が、美菜は気丈に答えた。
「判ってる。すぐに行くから。……その代わり、早く戻ってきてよ? あたし、あんまり長く保たないわよ?」
「……すぐに戻る。だから、一寸の間だけ、保ちこたえてくれ」
そう言って頷くと、彼の姿は光の中に溶け込むようにして消えていった。
間もなくその大きな白い光も、天空へ立ち上るようにして、下の方から上に向かって消滅していった。
涼輔を見送った美菜。
少しの間、ぼんやりと立っていたが、
「……あたしも、やること、やらなきゃ」
呟くと、痛む脚を引きずりつつ、学校へと引き返していった。
気持ちの上で、涼輔に頼りっぱなしという訳にはいかないような、そんな気がしてならなかった。
それでも美菜自身、先ほどよりもずっと心が軽くなっていることには、まだ気がついていないのであった。