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降臨の章13 答え

 薄桃色の花びらが、ひらひらと落ちてきて胸の上に乗った。

 頭上で鮮やかに咲き乱れている桜の花を、もう、どれくらい眺めているだろう。

 それでも、飽きたとは全く思わなかった。

 むしろ、眺めていれば眺めている程、より一層の美しさとして心の奥に染み入ってくる。あらゆる人間の醜さも憎悪も哀しみも、ただ儚いもののように思えてくる。

 恵と逃れてきて知った、あのグラウンド脇の桜の綺麗な場所に涼輔はいた。

 ひょんなことから、言葉通り授業をさぼって桜を眺める羽目になってしまっていたが、彼は何とも思わなかった。むしろ、こうして好きなだけ桜を眺めていられるこの瞬間を、何よりも愛しく思った。

 ふと、今日が入学式であったことを思い出したりしたが、ここなら人目につく心配はなかった。新入生の親子などは絶対に来そうもない位置だったからである。運動部志望の子などが、自分が将来活躍するであろうフィールドを見にやってきそうなものだが、グラウンドへ通じる道というのはグラウンドの左側に辿り着くようになっていた。まさかこんな獣道、でもないが、を通って行くような新入生がいるとも思われなかった。

 あの時の事は、殆ど頭になかったといってもいい。

 いつまでも引きずって苦にするような神経は、涼輔にはなかった。

 また、何かを苦にする習慣も持っていなかった。

 ここにやってくるまでの様々を思う時、多少のことなど胸中に残さない自分になっていたからである。それを強さというのかも知れなかったが、涼輔自身、自分が強くなったとはどうしても思えなかった。

 ただ、醒めた目で物事を見るようになっただけだ、という気がしてならない。それでも、良かったのかも知れない。今までは。

 しかし、今日、彼は自分以外にも守らねばならない存在と出会ってしまった。恵はもちろんだが、彼女以外の連中にしてもそうだった。これまで無事でいたのが不思議なくらい、彼らは幻魔衆という存在を恐れ、かつ矛盾するようだが軽視していた。

 涼輔は、幻魔衆やこの不可思議な世界というものが一体何であるのかを悟った時から、その強さを得た。

 幻魔衆、そして彼らが生み出す異空という存在は、いうなれば我が生命に宿る生命悪の結晶だといっていい。具現化したものである。異空は、自分の生命の内側に存在する世界である。突き詰めれば、自分の生命と、自分の生命の内で戦うことだと考えて外れはない。でなければ、幻魔衆の出現中に他の人間達の姿が消えるという現象の説明がつかないのである。

 人は、自分と向き合わねばならない時、自分の影の部分を恐れ、恐れるがあまり侮って見せることもある。が、それは、そうしないと自分の弱さに負けてしまう恐怖を振り払えないからだ。

 だから、どうしても彼らにこの事態が一体何を意味しているのか、とにかく悟らせる必要性を感じていた。是が非でも悟らせなくてもいいといえばいい。ただし、強くならなければ、自らの生命悪に、自らの生命の内側で消し去られてしまうばかりである。

 そのことは、もはやその個人の生命というものが存在しなくなってしまうという事を意味する。とにかく打ち勝つ以外になかった。

 なぜ、そうした世界が生み出されることになり、彼らだけが引きずり込まれることになったのか、それは涼輔にも判らなかった。

 困ったことに、美菜や公司達は、その重みというものをまるで覚知していない。彼らの中で負担になりこそすれ、重大さを理解しているとはお世辞にも言えたものではない。

 覚知していないが故に、心が合わさっていない。本当の危機感を感じたならば、本気で一つになり、幻魔衆に立ち向かっていくことが出来るであろうと彼は考えていた。

 ただ、どうやって悟らせるか。

 口で説明することは、すぐにできる。が、耳で聞いたところで彼らは頭では理解するものの、結局幻魔衆がやってくれば怯えて自分しか見えなくなるのがせいぜいであろう。本当に自分の力を、命術をフルに発動して幻魔衆という自分の生命悪を完膚なきまでに叩き伏せられるようでなければならないのである。

 どうにも、至難なことのように思われた。

 彼以外、八人全員の勝利ということが条件なのだから。

 一人だって、幻魔衆にやられてしまっては意味がないのだ。

 よくは判っていなかったものの、どうやらそういう仕掛けらしいということを、涼輔は異空の中の味方である存在、遥空の者と思しき人物の声で聞かされていた。


(……やれやれ)


 正直なところ、途方に暮れる思いがせぬでもなかった。

 今までは、自分一人の身を守りさえすれば良かった。

 ところが、今日から自分も守らねばならない上に、他の八人の仲間がいる。が、仲間という存在の重みを受け止めねばならなくなった、ということでは、八人の立場と然程大差はない。要は、お互いに課題に直面している、ということになる。これまで意識しなくて良かったことを、意識しなくてはいけない、という要素も一緒である。

 そこまで思い至った時、涼輔は不意におかしみを感じた。

 よくよく考えてみれば、自分一人で物の判った振りをしてみても、結局彼らと土俵は変わらないのである。

 一緒にやっていく他、ない。

 彼自身気付いてはいなかったが、そういう客観性をして、あの時、あれ以上の無用の摩擦を回避したともいえた。対立が収拾つかなくなった時点で、違った切り口をもってその方向性を変えてしまったというのは、誰もが異論を出し難い、どこまでも客観的な態度でなくてはなし得ない。

 それはいい。

 ともかくも、一人利口ぶることから免れた涼輔は、何となく気持ちを軽くして草むらで寝転がっていた。

 若々しい青い匂いがする。

 もう少し経てば却って邪魔なくらいに伸びてしまうのであろうが、今のこの時期は丁度いい長さの草が、頭を動かすと視界に飛び込んでくる、

 程々、眠気がある。それに、腹が減ってもいる。

 桜の景色は美しいが、残念ながら空腹まで満たしてはくれない。

 涼輔は少し迷った。


(どうしよう。何だか、教室帰るのも上手くないし、かといって財布は置いてきちまったしなぁ……。みんな、あれからどうしただろうか)


 そんなことを考えていると、花びらが落ちてきて、彼の眉間の辺りにのった。

 手を上げてそれを除こうとした時、頭高に人の気配がした。

 首と目だけ動かして見ると、一人の少女が立っていた。

 恵であった。

 相当走ってきたらしく、肩で荒く息をしている。


「……あ、君か」


 もそもそと、涼輔は起き上がった。彼女に呼びかけようとしたが、きちんと名前を聞いていなかったことを思い出した。


「えーと、なんだっけ。……ごめん、名前聞いてないや」


 彼がきまり悪そうに言うと、恵はおかしそうに笑った。


「私は、恋泉、恵です。さっき、名乗ってなかったですよね?」

「恵、ちゃんか。どうしたんだ? 桜でも観に来たのかい?」


 また恵は笑いそうになった。彼の顔は真剣だったからである。 

 幾らこうも桜の木が沢山あるからといって、昼飯時にわざわざ花見にくる連中がいたものだろうか。自分が好きだからといって、恵もそうだと思い込んでいるのが可笑しかったのである。

 彼女は、彼の隣にちょこんと腰を下ろした。


「……違いますよ。浅香さんを探してたんです」


 妙な感じである。

 どうにも切実な危機感をもって彼を探していた筈なのに、会った瞬間には、もう彼ののんびりしたペースに巻き込まれてしまっている。

 涼輔は、きょとんとしている。


「俺を?」


 日差しが目に眩しい。恵は目を細めて景色を見つめながら、


「そうです。どこにいるのかと思ったんですけど、やっぱりここにいましたね。……ずっと、この桜の下にいたんですか?」


 と、言ってから「授業に出ないで」と付け加えた。

 涼輔は恵の顔を見て、にやりといたずらっぽく笑った。


「……言っただろう? ここで、ずっとそうしていたい気分だって。どうしても我慢できなくてね」


 彼の方から何か言い出すかと思って仕向けたつもりが、思わぬ答えを返されてしまった。ちょっと凄みの効いたユーモアではあったが、またしても恵は笑わされた。


「まあ。私にさぼりの疑いをかけておいて、実は自分でさぼっているなんて」

「はっはっは、そうそう、そうだった。ひどい奴だね、俺は。でもさ――」


 言い掛けて、真っ直ぐ前を向く涼輔。


「ここで、こうしていて良かったかも知れないよ。桜を眺めているうちに、きちんと整理ができてきた気がする」


 彼は、目を細めた、それは前髪で恵には見えなかったが。

 微風が、草むらを軽く薙いでいった。


「……お姉ちゃん、浅香さんに色々ひどいこと言ったそうですね」


 ぽつりと、恵が言った。


「……んー?」


 間延びした返事をする涼輔。


「明日香さんと、沙紀さんから聞きました。あの後、大喧嘩になってしまったって。それで浅香さんが、みんなに色々事情を聞こうとして、お姉ちゃんが――」

「ああ、あれか。俺の言い方が悪かったんだよ」


 さらりと、涼輔が言った。

 恵は、ちょっと拍子抜けがした。

 開き直ったというのではない。

 心底、素直にそう思っている、といった雰囲気である。

 が、言うべきことを言うために、涼輔の許へわざわざ来たのである。姉の態度を、詫びるために。 

 すうっと息を吸った恵の耳に、思いもかけない言葉が聞こえた。


「……むやみに謝っちゃいけない」


 強い口調だった。


「えっ?」


 はっとして、涼輔を見た。

 長い前髪の下から、じっとこちらを見つめていた。


「謝るってのは、本当に悪い時にするもんだ。……でも、今日の今回は、誰も悪かないんだ。ただ、みんな自分しか見えていないから、ぶつくさと文句が出ているんだよな。恵ちゃんは一生懸命だし、君の姉さんも必死だってことは伝わってきた。このあとを、上手くやればいいのさ」


 まるで、自分の心を読まれているかのようである。

 恵は、鼓動が高鳴っているのを覚えた。

 次に、何と言えばいいのであろう? 二の句が継げなかった。思わず、目をそむける恵。

 涼輔は、また前を向いた。

 そのまま、少しの間無言にしていたが、やがて喋りだしたときは、低い声の調子になっていた。


「……前に、よく謝る子がいた」

「はい?」


 突然違う話を始めたのかと思い、思わず恵は問い返した。


「いっつも謝るんだよな、ごめんなさいって。何にも彼女は悪くなくて、しょうもないのは俺の方なのにね。そんな事をやっているうちに、最後の最後でもやっぱり、ごめんなさい、だった」

「……」


 何も詳しい部分は語られていなかったが、恵には、彼が何を言わんとしているのかがはっきり伝わってきた。

 恐らく、思い出したくもない、辛い思い出なのだろう。

 いきなり突きつけられた彼の切ない過去の話に面食らいつつも、恵は胸が痛くなった。素直であるだけに、涼輔の心情がそのまま伝播してくるような気がして、彼女は表情を曇らせた。

 涼輔は続ける。


「ごめんなさいって言われたまま会えなくなってしまって、正直どうしていいか判らなくなった。その後、何かをフォローするチャンスなんて、一生ないんだからね。……って、別にその話はどうでもいいんだ。俺が言いたいのは思い出話じゃない」


 こちらを向いた涼輔の声音は、明るくなっていた。 


「むやみやたらとみんなに謝らせたり、俺が謝ったりすることがないようにしたいと思ったんだ、結論はね。……ま、そんなことがあったから、君が何か謝ろうとしているな、というのが判った」


 そこまで言った後、


「別に『命読』とか、そんな命術を身に付けている訳じゃないよ。あればあったで面白いかも知れないけどさ」


 と付け加えて、涼輔はさも可笑しそうにした。

 彼の辛い過去から導かれた哲学であるだけに、とてつもない重さが付加されている。そしてそれは、涼輔が自分自身に課した、強くあるための課題でもあった。自分のことだけを考えているのではなく、彼の周りにいる皆に辛い思いをもうさせないようにという、前向きに開かれた、彼としての課題。

 それでも重いことに変わりはない筈なのに、彼の口から聞かれた時、それは些かの悲壮感も含んではいなかった。

 涼輔が過去の一端を話して聞かせたことで、恵の胸中、別な思案が浮かび上がった。詫びる代わりに、そのことを話すべきだと思った。

 彼女は、涼輔の顔を見た。


「……実は、私、お姉ちゃんの本当の妹じゃないんです」

「え……?」


 一瞬のうちに、涼輔の表情が消えた。


「私が小さい時に、お父さんもお母さんも事故で死んでしまったんです。一人ぼっちになったんですけど、今のお父さんとお母さんが私の事、引き取って育ててくれて……。それでお姉ちゃんがいたんですけど、私を可愛がってくれたし、お父さんもお母さんもとっても優しくしてくれました。お姉ちゃんはいつも私の傍にいてくれて、私を守っててくれました」


 ちょっと辛そうに俯く恵。実の両親を失った時の記憶が微かに脳裏を過ぎり、何かがこみ上げてくるのを必死にこらえていた。

 涼輔は無言で聞いている。

 が、顔を上げた恵の話は、さらに続きがあったのだった。


「……あるときに、棚の奥から古い写真を見つけました。お父さんとお母さんとお姉ちゃんと、もう一人、小さな女の子が写っていたんです。誰なんだろうと思って。親戚とかにも私より小さい女の子はいなくて。……それで、思い切ってお姉ちゃんに訊いてみたんです」


 恵は、ちょっと言葉を途切らせた。


「お姉ちゃん、悲しそうに教えてくれました。妹がいたんだって。その子、病気で小さいうちに死んだそうです」


 遠くで、人のざわめきが大きくなり始めていた。

 入学式へやってきた新入生と父兄の数が多くなってきたのであろう。


「でも、お姉ちゃんはこう言ってくれたんです。恵にも妹がいる筈だったのよ、って。その時、判ったんです。本当なら、実の妹とかのことを隠したりなんかしないですよね。でも、私が色んな辛い思いしないように、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、死んだ実の妹の事なんか一言も喋ったりしなかった。本当は、思い出したりした時に、口に出したくなったこともたくさんあると思うんですけど……。その分、お姉ちゃんはすごく私に優しくしてくれてるんだな、って。だから――」


 その後は、続けられなかった。

 涼輔が手で、待ったをかけていたのである。

 恵の目にうっすらと涙が浮かんでいたということもあった。

 が、それよりも、彼には恵の伝えたい気持ちが判っていた。

 本当に、姉の美菜が好きなのである。

 好きであるだけに、不快な言動をして自分で皆から孤立していくような状態にたまりかねているに違いなかった。実はもっと優しくて理解のある人間なのだと、恵は言いたいのであろう。

 今の恵の話で、涼輔は十分に承知した。

 そして、美菜の哀れさを思った。

 妹に対する思いが深いだけにそれを周囲に訴えすぎるあまり、自ら泥を被ってしまっている。しかも、そのことによって一番心を痛めているのが、妹の恵なのであった。姉が好きであるだけに、何よりも辛いに違いない。

 以前から、そういう趣旨の諍いはあったのだろうと涼輔は推察していた。ただ、現われてくる幻魔衆の強さがそれほどでもなかったために、敢えて事が大きくならずに済んだのであろう。が、美菜としては妹を守る決心をしつつも、将来に向かって不安が大きかったに違いない。果たして、公司や沙紀などと協調して戦いつつ、かつ恵に危害をもたらさずにやっていけるのだろうかと。

 その不安が、今日、現実のものとなってしまった。

 もはや恐怖にも近い感情の中で公司らの能天気さを見てしまったとき、彼女は我慢がならなかったのである。しかも今日、恵を自分の手で助けられなかったことが、さらに彼女の焦りを掻き立てた事は間違いなかった。

 そこまで思い至った時、涼輔の胸中、ある方針が固まった。

 この先とるべき道は、恵が話してくれたことから明確になって彼の前に続いていったといっていい。もう、悩む必要はなくなっていた。

 ――信じる通りにやればいい。

 故郷で兄のように慕っていた青年がそういってくれたのを思い出し、今更ながら胸の内で何度も何度も反芻した。


「……わかった!」


 沈んだような表情をしていた恵は、その声に驚いた。


「え、何が……ですか?」


 見れば、涼輔の顔が活き活きとして輝いている。


「何だかやりにくい所へ来ちまったなあとは思ったけど、恵ちゃんが話してくれたから、俺がやるべき事がはっきり見えてきた。大丈夫だよ、お姉ちゃんもみんなも、必ず上手くいく」


 言い切っていた。

 目を丸くしている恵。


「大丈夫……って、浅香さん、何か方法でも思いついたんですか?」


 恵と話していたのは、ほんの僅かな時間に過ぎない。

 それだけのことでこうも自信を漲らせている涼輔が何とも不思議に思われたに違いない。

 そんな彼女の不安を打ち消そうとするように、


「何、方法じゃないよ。ここは半分、人間の、俺達の生命の中にあるんだ。目の前にある困難は全て、自分が創り出したものなんだ。幻魔衆ってのは、そういうものが人の形になって現われてきてるんだよ。知ってたかい?」

「……いいえ」

「目の前の困難に立ち向かおうとする時に、人間はもっとも力を発揮する。俺達はそれが具現化された命術を操って、幻魔衆と戦う訳なんだ。みんな、おっかなびっくりで腰が引けちまったもんだから、幻魔衆がやたら強く思えて仕方がない。そうじゃない。本気で叩き潰しにかかれば、幻魔衆なんか恐れることはない」


 初めて聞く幻魔衆との戦い方に、恵は固唾を飲んで聞いている。


「あと、大事な事は戦うためのやり方だ。こいつは、まあ、方法の話になるかも知れないけど。でも、どういう命術になるかなんてのは、結局自分が念じた通りになるだけのことだから、大して重要な話じゃない。要は何より、自分の生命力が強くあることだ」


 とまで言って、涼輔はいたずらっぽく笑った。


「ま、みんな実は何だかんだ言いながら、根性の据わった奴ばかりみたいだから、すぐに強くなるよ。伊達に俺達は秘双の化身とやらになった訳ではないみたいだよ。……ま、みんなが自分の強さに気付ければ、お姉ちゃんの不安も消える。一つ、俺に任せておいてくれないか」


 不思議なものである。

 これだけ涼輔に言い切られると、恵の中にわだかまっていた苦悩が霧消していくように思われた。今日、涼輔に出会ってからずっとこうである。彼の雰囲気は、常に恵の気持ちをとらえては巧みにそちらへ誘導していく。

 いつしか、恵も表情を明るくしていた。

 そんな彼女を見て、涼輔は


「よしよし、心配しなくていい。こうしてると頼りなく見えるけど、伊達に今まで戦ってきた訳じゃない」

「はい!」


 元気になって返事した恵の頭を、涼輔は思わず撫でてやった。

 ふとすると、まるで自分の妹のような錯覚すら出てくる。

 現に恵は、嬉しそうににこにこしている。


「さ、もうすぐ入学式だろ? そろそろ教室に集合する時間じゃないかい。戻った方がいいかも知れないよ」


 促され、恵はこっくりと頷いて立ち上がろうとした。

 その時、涼輔の腹が鳴っているのに気が付いた。


「まあ、浅香さん、お腹空いてるんじゃないですか?」

「ああ、まあね。でも、購買あるって聞いたし……」

「駄目です、あれは。とてもとても――」


 恵は、初めて見た購買のおぞましい様子を話してやった。しかも、すぐに売り切れて閉まってしまったと言うと、


「はーっ、北海道とは違うって訳か。甘かったか……」


 北海道の高校は、幾らでもパンなど余るほど売っているという意味なのかどうか恵には判らなかった。

 が、購買が閉まったと聞いて落胆している彼を見て、思わず笑ってしまった。笑いながら、沙紀はどうやってあの状態で買う事ができたのだろうとふと思ったりもした。

 が、ともかく涼輔である。

 立ち上がりかけてもう一度座ると、傍らの包みを取り上げた。

 恵自身、まだ昼食を摂っていないのである。


「何だ、まだ食ってなかったのか。長話しして悪かった」

「……浅香さん、半分、食べて下さい」


 言いながら、包みを広げて見せた。真新しい籐で編まれた入れ物に、サンドイッチが綺麗に並べられていた。女の子らしい昼食である。

 涼輔は、さすがに遠慮した。


「折角だけど、貰う訳には……。それに、しっかり食べとかないと、入学式って長いんだぜ? 途中で空腹になったら結構キツイぞ。思い出すと、寒気がする」


 実際に経験していた涼輔。シンとなった会場で腹の虫が鳴り響いて恥ずかしかったことなのだが、そこまでは言わなかった。

 が、恵はそれには乗らず、黙って自分で一つにかじり付くと、もう片方の手で一つを涼輔の口のところまで持っていった。

 とにかく食べろということらしい。

 それでもためらっていると、恵は更にぐいと押し付けてきた。


「これ、私が朝、自分で作って持ってきたんです。それでも食べられないですか?」


 普段の彼女からは想像もつかない押しの強さである。

 そう言われてしまっては、食べない訳にはいかないではないか。

 意外な恵の強引さに面食らいながら、


「あー……じゃあ、それなら」


 何も飲む物がない。


「ええと、コーヒー、買ってくるよ。俺ならすぐに――」

「いいえ。浅香さん、転移したまま逃げちゃいそうですから駄目です。私のジュース、半分飲んでいいですから」


 彼の腕をしっかりと掴んでいる。何だか、涼輔という人間の短所を見抜いているかのようであった。


「……」


 結局、涼輔は恵の昼食を半分引き受けざるを得なかった。

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