降臨の章10 苦戦の因(二)
教室の二つや三つは、滅茶苦茶になったであろうか。
しきりと迫ってくる幻魔衆の追撃を、明日香と霞美は必死でかわしつつ、逃げ続けていた。
できれば、逃げるつもりはなかった。
が、やっとの思いで放った霞美の力を、幻魔衆の男は容易く防いで見せた。霞美特有のクリアブルーの光が敢え無く蹴散らされた瞬間、二人は戦う意欲を失った。
背後から連続で放たれる幻魔衆の攻撃をかわすため、二人は途中で左右の教室に飛び込んだ。
当然、授業の最中に見知らぬ生徒が乱入してくれば、教師や生徒が騒ぐ筈だが、その教室はまるで、全ての人間が蒸発してしまったかのように、誰の姿もなかった。
この教室だけではない。
学校全体、どこに行こうと、彼ら七人、それに恵と涼輔以外の人間の存在はないのである。
あるいは、学校を離れて街へ行っても、そうかも知れなかった。
が、逃げ続けている二人は、その理由やら理屈やらは何も認知していない。ただ、幻魔衆が姿を見せている間は他の人間は消え失せ、そして物理的な建設、移動、破壊、その他発生した諸々の事象についても、幻魔衆を撃ち倒して空間が元の世界に返れば、また何事もない状態に回復しているという、その結果のみを知っているに過ぎなかった。
この理由を彼女らが知るにはさらに時間が進まねばならないが、今はとにかくそれどころの騒ぎではない。
教室に入ると、最初二人は大急ぎで机を入り口に積み上げ、バリケードを築いた。こうすることで少しは接触を防げるだろうと思ったのである。
が、そのバリケードを力ずくで排除することも無くいつの間にか幻魔衆は二人のいる教室に侵入してきていた。彼らは空間を自在に移動できるだけに、物理的な障害は問題にならない――と、いうことまで推測している余裕はなかった。
明日香が慌てて入り口をこじ開け、霞美が椅子やら机をどんどん幻魔衆目掛けて投げまくる。
入り口が開くや、一目散で廊下へ駆け出す――というようなことを、彼女達は続けていた。
無論、二度目からはバリケードなど築かず、二人掛りで片っ端から椅子や机を放り投げるという作戦に変更されてはいたが。
このあたり、美菜が心配した程霞美も明日香も大人しくはなかった。
むしろ、二人共穏やかなだけに互いに呼吸が合い、また揃って優等生という要素もあるのかどうか、必死ながらも知恵を働かせるという作業を忘れなかった。
幻魔衆の放つは物理的な障害に遮断される――という点に目をつけていたからこそ、一目散に逃げたりせず教室に駆け込んでは足止めを食らわせていたのである。彼女らが駆け込んだ教室はどれも、大喧嘩が演じられた後のように散乱し、見るも無残な状態にしてしまってはいたが。
が、それも効を奏さなくなる時がきた。
教室が左右に無い、旧棟から新棟への渡り廊下に差し掛かってしまったのである。
しかも、二人は致命的な勘違いを起こしていた。
「あ、明日香ちゃん、あいつ、来てるかしら?」
長距離の障害物走を続けてきた霞美は、息が切れている。
明日香も、大分呼吸が苦しくなっていた。
「大分離したと思いますけど……。このまま、美菜さんか誰かと合流しましょう。みんな、下の階に向かった筈ですよ」
そうであろう。
そもそも、恵が校庭で襲われるのを目撃して、一斉に教室を飛び出しているのである。黙っていれば、恵の許へ駆けつけるつもりだという推測は、誰にでもつくことであった。
「わかった。じゃあ、新棟のそこの階段から下りよう」
「はい!」
打ち合わせつつ渡り廊下を一気に駆け抜けようとした、その時であった。
「……甘いなぁ、甘い。あんな事でこの俺から逃れられると、本気で思ったのか?」
薄暗い廊下の先で突然、ほんのり白く光が生じた。
そして、まるでCGでも使ったように人影がうっすらと現われ、それは瞬く間に実体化した。
「まさか!? そんなぁ!」
行く手に、幻魔衆が先回りしたのである。
戦う意志の持てない二人は、もと来た方向へ引き返すしかない。
「霞美さん! こっちです!」
疲れ果てて呆然となりかかっている霞美を引っ張って、明日香は逆向きに走り出した。
背後に大きな光の気配がある。
霞美は、このまま走り続けることの危険さを思った。
「明日香ちゃん、伏せて!」
叫ぶや、霞美はほぼ無理やり明日香を背中から突き倒した。
自分も、覆い被さるようにしてその後に転んだ。
直後、二人の上を、鈍いうなりを上げながら光の球のようなものが、目にも留まらぬ速さで通り過ぎた。
そのまま、突き当たりの壁に衝突し、キィン、という音を立てて火花と共に四散した。
当たればどうなるだろうなどと、考えている余裕はない。
すぐさま霞美は立ち上がると、明日香を助け起こしてまた走り出した。
廊下がやたらと長く感じる。
T字の突き当たりのところで左側へ慌てて曲がった途端、またも背後で光が弾け飛ぶ音がした。ほぼ、間一髪というところであったろう。
両側に教室やら教材室が並んでいる。
が、もはやそういう小細工が効かないことを、二人は思い知らされたばかりである。
やや、霞美が先行気味で走っている。
もう心臓が破れんばかりに苦しくなっていたのだが、呼吸を整えている余裕などなかった。立ち止まれば、背後から撃たれてそれまでなのだ。
少し先に、階段がある。
もうちょいだわ、霞美がちらりと思った途端であった。
「あっ!」
明日香が転んだ。
「……明日香ちゃん?」
霞美が急いで駆け寄っていく。
手を取って起こそうとすると、明日香は顔をしかめた。
「痛たたた……」
転んだ時に、足首を挫いてしまったらしい。
何とか立ち上がったものの、脚を引きずっている明日香は当然走ることができないでいる。霞美は焦ったものの、痛がっている明日香を急かす訳にもいかない。途方に暮れる思いだった。
明日香の脚は、相当痛むらしい。
それでも壁に支えかかりながら、
「霞美さん、先に、走ってください。このままじゃ、二人共やられてしまいます」
と、気丈なことを言った。
絶えず恐怖に支配されながらも、霞美としては、はいそうですかという真似などできる訳がない。動けない明日香を一人置いていったらならば、その後どうなるか、判り切った話である。
「あ、明日香ちゃん残してなんて行けないよ! 幻魔衆はもうすぐそこに居るんだから!」
彼女はちらと廊下の先に目をやって
「階段はすぐそこよ。痛いと思うけど、もうちょいだけ我慢してよね? ね?」
霞美も必死である。
何とか二人が助かる事を第一に考えている。
そんな思いは、明日香にも伝わってきた。
これ以上、先に行ってくれとは言えなかった。言ったところで、霞美は梃子でも行かないに違いない。
「……はい!」
精一杯のテンションで返事をして、明日香は前に進もうとした。
「……!」
やっぱり、痛い。
霞美が、脇から腕を取って支えるようにした。
その時。廊下の前方でバタバタと慌ただしい足音がした。
「――おい、大丈夫か?」
階段とおぼしき場所から人影が二つ吐き出された。
見れば、なんと隆幸と来未であった。
「来未ちゃん!」
途端に、霞美は迷子が母親に巡り会ったように、今にも泣き出さんばかりの表情になった。
ふと張り詰めた気が抜けてしまったのか、明日香がふらふらと床に座り込んでしまった。
駆け寄ってくる隆幸と来未。
「二人共無事で良かった! 気付いたら、いないんだもの」
来未が叫んだ。彼女は彼女で心配していたらしい。
「来未ちゃん達は大丈夫だったの?」
「そりゃあもう。富野君がいますから、ね」
来未は得意そうに片目を瞑って見せた。
が、すぐに明日香の異変に気が付いた。
「……風科君? 足をやられたのか?」
隆幸は、女の子にも君づけをして呼ぶ。
痛みをこらえながら、明日香は無理に笑顔をつくって顔を上げた。
「……いえ、転んでしまったんです。その時に……」
「大変、早く手当てしないと!」
来未が慌てたように言うと
「それよりも……幻魔衆が……」
「幻魔衆? 何よそれ? 近くに居るの?」
直感があったらしい隆幸が、何も聞かずに明日香らの来た方に向いて立ちはだかった。
彼の性格が冷静であるためなのかどうか、隆幸は感覚で幻魔衆の存在を探り当てるということができた。
もっとも、「近い」という程度でしかなかったが。
「……いる」
彼が低く呟いた。
息を呑む三人。
広く、薄暗い廊下に四人の呼吸だけが響いている。
前後を交互に確認する来未。
廊下にぺたりと座り込んで動けなくなってしまった明日香と、その傍に屈んで彼女を気遣っている霞美。
そして、一人廊下の真ん中に立って、幻魔衆の気配を窺っている隆幸。
ふと、霞美は彼の足元に、何かが滴っているのに気付いた。
よく見ると、血であった。
隆幸の右手から、ポタポタと一滴一滴、それ程大量の出血というようなものではなさそうであったが、 ともかくも怪我をしていることに違いは無かった。
「と、富野君? それ、血……」
霞美の言葉に、来未も明日香もはっとそちらを見た。
ずっと一緒にいた筈の来未も気が付かなかったらしい。
「やだ、富野君、それ……さっき、幻魔衆の――」
「……いや、今はいい。大した傷じゃない」
彼はそれきりまた、辺りの警戒に集中している。
が、三人にとっては衝撃であったと言ってよい。
これまで、血が流されたことなど、一度もなかったからである。
巨大な威圧となって襲い来る幻魔衆の力は、彼らの身体を容赦なく弾き飛ばす威力を持っていることを、経験上皆承知していた。が、触れたものを切り裂くという効果は、未知の事象に属していた。それが、今、隆幸の傷によって現実に起こった事を知った。
三人は戦慄した。
霞美は、ついさっきまで辛うじてかわしていたあの幻魔衆の力が、そういうものであったら……と想像して怖気がたった。
そして、隆幸が突如鋭く振り返った。
「こっちか?」
「……へ?」
三人がつられて、隆幸と来未が来た方向を見た。
全く、唐突であった。
廊下をすっぽり埋め尽くすほどの巨大な光の球が、四人に向かって走ってきていた。
速い。
しかも、彼等は不意を突かれている。
かわす間もなく、四人の身体は光に呑まれた。
「きゃああ!」
「うわっ!」
風洞実験室で強風を送られたようなものである。
得体の知れないプレッシャーが四人を押し倒し、そのまま身体をさらって廊下の向こうへと勢いよく跳ね飛ばした。
立っていた来未と隆幸はもちろん、低い姿勢でいた明日香と霞美ですらも、容赦なくその圧を受けた。
身体が断続的に、壁や床に叩きつけられる。
光はしばらく長い廊下を走り、反対側の、明日香と霞美が逃げ込んでいたあたりまで進んで、ようやく消滅した。
数十メートルはあろうか。
その距離を、四人は吹っ飛ばされたことになる。
あちこちをしたたかに打ちつけられ、転がされた挙げ句、やっとのことで四人は圧力から解放された。
「……う……」
半分意識が飛びつつ、何とか隆幸は上体を起こした。
少し頭がはっきりしてくると、全身の痛みが伝わってきた。
どこをどう打ったのか、全く定かでない。ただ、背中と脇腹がひときわ激しく痛んでいる。
「……畜生」
はっとして彼は辺りを見回した。
少し前の方で、明日香が仰向けに倒れて動かない。
後ろを振り返ると、やはり来未と霞美があちらとこちらに倒れていた。皆、気を失っているのか、起き上がろうとしない。
三人とも激しく吹っ飛ばされ、あられもない格好、姿になっていた。
が、隆幸には何の感慨もない。
頭が真っ白なのである。
ただ、生まれたての子牛のごとく、本能的に立ち上がろうとした。
無意識に、幻魔衆が近くにいるということに固執していた。
「……やれやれ、秘転の化身の力とはどんなものかと思ったが。こんなにもあっけないとはなぁ」
近くで、声がした。
見れば、もうすぐそこに、白いローブの男が立っている。
男は、足元に倒れている明日香に一瞥をくれると、彼女の身体を踏みつけた。
「逃げ回ってばかりで手を焼かせおって、この小娘が……八つ裂きにして命魔衆へ手土産にでもしてやろうか」
そのまま、足を上げて何度か明日香を足蹴にした。
(……女の子に……何て真似を!)
幻魔衆の行為を目にした瞬間、隆幸は全身の痛みも忘れて激怒した。
そうした汚れた行為が、断じて許せない気質の男であった。
「……この野郎! いい加減にしやがれ!」
怒りの咆哮が、廊下中に轟いた。
目が憎しみを帯びて、幻魔衆の男を捉えている。
「……ハッ」
男は鼻で笑うと、すっと右手を隆幸に差し向けた。
平たい光が一直線に飛び、彼の腹部を貫いた。
一瞬置いて、廊下に軽く血飛沫が舞った。
「……?」
全身から力が抜け、がっくりと膝をつく隆幸。
みるみる制服が濡れていくのが判った。
ややあって、光が貫いていった辺りに激痛を感じ、彼は前のめりに倒れて転がった。
「……弱い存在の分際で、黙って死ねばよいものを」
男の呟きは、果たして隆幸の耳に入ったかどうか。
次第に意識が遠くなり始めた。
頭がこの期に及んでも幻魔衆へ立ち向かおうとしているのだが、もはや身体中が彼の制御を離れてしまっている。
動かない。
(畜生……)
幻魔衆の男は、もはや彼に関心を示さなかった。
「……さて、一人づつ息の根を止めるか。もたもたしていては、双転の化身をあやつらに先に殺されてしまうからな」
言いながら、白い左腕で明日香の咽喉首を掴むと、ぐっと彼女の身体を持ち上げた。
意識を失ってはいるが苦しいという感覚があるらしく、彼女の顔が歪んだ。
「うう……」
男は、右手を明日香の胸の辺りに当てた。そのまま、何かしらの力をもって、彼女の胸を貫くつもりであるらしかった。
が、全く予期せぬことが起こった。
不意に、男は何者かに左腕を掴まれた。
「!?」
間髪はなかった。
目の前に眩むような閃光が溢れ――何が起こったのかを把握する間も与えられず、男は白い光に呑まれて一瞬で消滅した。
全身が細かな光となって分解されていくことすら、判らぬままであった。
そのほんの僅かな間の出来事を、隆幸はじめ、気を失っている三人の少女達の誰も知れる筈がなかった。
後で手当のために駆け付けてきてくれた恵の証言によって、驚くべき事実を知ることになるのである。