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おさな妻

作者: 高岡啓次郎

10年前に会った少女がおさな妻に……その変わりようにたじろぐ私。10年の間におきた変化。たくましく生きようとする若い母を描く。

おさな妻          


高岡啓次郎


小さな顔に、母親ゆずりのパッチリとした瞳をもつ少女は、小学生にして周りから抜きんでるほど背の高い女の子だった。

細い足が一緒に遊ぶ近所の男の子たちの胸の高さまである。そのことを恥ずかしがるように、ときどきわざと身を屈め、縄跳びや鬼ごっこに興じる姿は可憐そのものだった。女の子の半分ほどしかない弟が、姉にまとわりつくようにじゃれついていたのも実に印象的な光景だった。

私は塗装工事に携わっている最中、なんども子どもたちに声をかけた。屈託のない笑顔で受け答えをする女の子が、利発な目をクリクリさせて照れていたのはつい昨日のようだ。


十年ぶりに私が少女を見たのは、秋がすっかり終わった十一月の末だった。同じ家の塗り替えに従事していた私は、女の子の変わりようを見るのをどこかで楽しみにしていた。

工事を初めて何日か経ったとき、別のところに住んでいるらしい彼女は軽自動車を運転して母親と祖母が住むこの家にやってきた。

一階が祖母で、二階に母親が住む実家というわけだ。運転席からおりてきたとき、顔立ちに残る幼いころの面影で、私はすぐにあの子だと気づいた。当然ながら、彼女はもはや女の子と呼べる年齢ではなく立派な大人の女性になっていた。スラッと伸びた身長は予想どおりといってもよかったが、子どものころのような目立つほどの長身でもなかった。

「すっかり大人になったね。おじさんを覚えているかい?」

 私が尋ねると、彼女はコックリとうなずき、前髪の間から瞳をキラキラさせて微笑んだ。化粧っけのない素顔のままの彼女は、襟の大きな黒いジャケットのポケットに寒そうに手を入れながら、母親の住む二階の階段を軽やかな音をたてながら上がっていった。


「そろそろお茶にしませんか?」

 一階に住む祖母が声をかけてくれた。寒いから中に入ってくださいという。私は祖母が開けてくれたベランダの大窓をまたいて部屋に入った。すすめられた席につきながら、いま二階のお嬢ちゃんに会いました。すっかり大人になりましたねというと、

「あの子は、もう二人も子どもがいるんだよ」

 祖母はいくぶんため息まじりに言って、急須(きゅうす)に湯を注いだ。

「信じられない! もうお母さんですか?」

「そう、上の子は三歳になる。高校を卒業してすぐ結婚し、近くのアパートに住んでるの」

私はただただ驚いて、出された和菓子にかじりついたままポカンとしていた。どうにも実感がわかなかった。今ごろは大学生か、どこかのOLにでもなっていると勝手に想像していたからだ。

「ストレスがたまって大変みたいで」と祖母は言った。

「といいますと?」

 話を聞きたい私がさぐりを入れると、今回の工事の依頼主である祖母は、何の警戒心もなく話しだした。

「まだ二十一歳で二人の子持ちだよ。本当は遊びたい年ごろだからねえ。同じ年代の友だちとは話も合わないらしいよ。働いている友人たちは自由なお金や時間がたっぷりある。でも自分はダンナの世話と子育てで全時間を費やしている。辛いときもあるみたいよ」

「そうかもしれませんねぇ」

私は祖母がいれてくれた茶をひとくち飲んでから、話にあいづちを打った。しかし考えようによっては早い結婚にも良い面はあるはずだ。私は思いついた考えを告げてみた。

「でも、早く子どもを大きくするのも悪くはないですよね?」

「おっきくなったら楽になるだろうけど、しばらくは大変だねえ。しょっちゅう子どもを預かってくれって来るのよ。それでいて自分はいつまでも携帯いじっているから私ときどき怒るの、そんな時間があるんなら子どもを自分でみなさいって」

 祖母は苦笑を浮かべてそう言った。うつむきかげんの表情はまだ若々しい。六〇代なかばの年齢にして、孫はおろか、ひ孫までいる自分をどこかで自嘲しているようにも見えた。「子どもが大きくなるまでしばらくは大変だ」という言葉のなかには、頻繁に子守を頼まれる母親や自分のことも含んでいたに違いないと私は思った。

「ごちそうさまでした。仕事に戻ります」

 そういって私がソファーから立ち上がると、祖母は人のいい笑顔を見せ、寒くて大変だろうけどよろしくお願いしますと言った。


 昼休み、私は近くにあるわが家に帰り、妻に午前中のできごとを話した。かつて二度ほど仕事をしたとき、妻も一緒に手伝っていたので覚えているか訊いてみた。

「上代さんの女の子を覚えているかい?」

「ええ、あの背の高い子でしょう? いつも外で遊んでいたわね」

「そう、今日あの子に会ったんだよ。すっかり大人になっていた。十代で結婚したらしく、もう二人も子どもがいるんだってさ。俗にいう‘おさな妻’というやつかな」

その言いかたは幾ら何でももう古いでしょう。そう言って妻は笑った。でも私は、あえてその古い言いかたが、どんな呼び方よりその若い彼女にピッタリくるような気がした。年齢的には必ずしもそうとはいいきれないが、家の周りで遊んでいた幼い少女の印象があまりにも鮮明、かつ昨日のことに思えたからなのだ。

再び現場に戻って仕事をしていた私は、夕方になってから学生服をまとった男子高校生と階段の踊り場で遭遇した。二階に住む息子に違いないと私は思った。

私がコンニチワというと、五分刈りの頭をコクンとさげ、細い体に似合わない低い声で挨拶を返した。あれがあのときの男の子かと私は気づいたが、むこうは初対面のようなハニカミを見せて家に入った。明らかに覚えていないといった表情だった。身長はどちらかといえば低いほうで、姉がもつスラリとした体形はなかった。

あのとき七歳ほどだった男の子は今では一七歳くらいだろう。高校一年か二年という年齢だ。

そのとき私は唐突に、そういえば子どもたちの父親はどうしただろうと思った。工事に入って四日になるが、以前なんども見かけていた彼らの父親に会わないことに気づいたのだ。私は、この辺りを毎年なんども車で通る。いつも日曜などに大きなワゴン車が停まっていたはずだが今はない。二階に住む彼らの母親が運転する黒い軽自動車だけがときおり横づけされていた。ダンナさんはどこかへ単身赴任しているのか。私は勝手にそんな想像をめぐらしていた。

母親はどこかへ勤めに出ているように見えた。以前とくらべて少しも歳をとらないように見えるが、考えたら四十の半ばを越えているはずだった。壁の色あわせのときに会話をかわした母親は、顔こそ昔のままの童顔だが、目に以前のような光がなく、声にもなぜか生気がなかった。グリーンの壁を望んでいるのは分かったが、自分がお金を出さないせいもあるのか、何でもいいと言って二階に上がっていくのだった。朗らかで笑顔がひときわ明るかったイメージからすれば、とても元気そうには見えなかった。

 まもなく私はその理由を知ることとなった。翌日のお茶の時間に祖母が訊きもしないのに話しだしたのだ。

「娘のダンナが家を出ていってしまったのよ。詳しくは言えないけどね」

 祖母は、今まで何度も仕事を頼んでいる私に、なんの警戒心もなくそう打ち明けたのだ。私はどう言葉を返したらいいのか分からず、お茶を口にふくんで話の続きに耳をかたむけた。

「わたしは立ち入らないようしているの。若い人たちの考えは良くわからないからねえ」

 そう話す祖母は実に思慮深いまなざしをしていた。何もかもを分かっているように私には思えた。まして出ていった娘婿は、九十歳を過ぎて施設に入った母親の空き家に住んでいるという。娘をほったらかして出ていった婿を、自分の母親の家に住まわせることを許した彼女を私はある種の敬意をもって見つめてしまった。娘夫婦がいつかやり直してほしい。そのためには出ていった婿さんを近くにつなぎとめておきたい。冷却期間をおいて元のさやにおさまるかもしれない  。そんな望みをかけていたのかもしれない気がした。そのために、別れてしまえば他人になってしまう娘婿に、帰るための一本の糸を垂れていたのではないかと私には思えるのだった。


 翌日の午後、母親とそっくりの黑い軽自動車を運転して‘おさな妻’はやってきた。あいさつをかわしたあと、彼女は私に尋ねた。

「おじさん、ベニヤ板のうえにペンキは塗れるの?」

「ああ塗れるよ、何色に塗りたいの?」

「しろ」

「そうかあ、塗るなら水性ペンキのほうがいいよ。吸い込まないできれいに塗れるからね」

「そうなの……」

「ベニヤを持っておいで、おじさんが時間あるとき塗っておいてあげるから」

 彼女はちょっとためらった表情を見せたが、すぐに目を輝かせ、いいですかと言って再び車を出した。一時間もしないうちに彼女は戻ってきて何枚かのベニヤ板を車からおろした。何枚あるのかと私が尋ねると三枚ですと彼女は答えた。

 ふろしきを広げたくらいの大きさの四角いベニヤがおろされた。白く塗って台所の壁に貼るのだという。

私は言った。「おじさんはいま高いところで仕事をしているから塗るのは明日でもいいかな? それとも今自分で塗ってみるかい?」

「はい、自分で塗ります」

 間髪入れずに彼女はそう答えた。

「そういうの、わたし好きなんです」とも言った。

「そうかあ、じゃあ自分でやったほうがいい。今おじさんが用意してあげるから」

「すみません」

 私は駐車場のアスファルト上にブルーシートを広げ、その上に三枚のベニヤ板を並べた。白いアクリルの水性ペイントは常に車の中に持ち歩いているので、ものの数分で準備はととのった。

「さあ塗ってごらん。ペンキを刷毛の先端につけて、缶の縁でいちど叩くんだ。ペンキが垂れないからね。それからこうやっておおらかに動かすんだよ」

彼女は利発な瞳を大きくあけてハイとうなずき、さも楽しそうにペンキを塗りはじめた。見るとなかなか手つきがいい。教えたとおり、おおらかに刷毛を動かしている。

「うまいじゃないか。その調子その調子」

私は足場の上から声をかけた。下を向いた彼女の表情は見えないが、生き生きとした動きからは、その表情も想像できた。一枚を塗り終えたころ私は言った。

「一回塗ったら一休みしてお婆ちゃんの所でお茶でも飲んでなさい。そうすれば上塗りをかけるのにちょうどいいから」

 私が上から声をかけると首をコックリとあげ、幼さが残るやえ歯を見せて笑った。私は若くわかくして家庭に入った彼女が急にたくましい母親に見えてきて、ある種の感動をおぼえながらその後の作業にいそしんだ。その間に、いくらもしないで彼女は三枚のベニヤを塗り上げた。

午後から私が再び現場に戻ったとき、ベニヤはきちっと上塗りが施され、白い肌を陽に美しくさらしていた。ちょうど祖母の玄関から出てきた彼女は、きれいに塗れたねという私の言葉にこぼれるような笑顔を浮かべて礼を言い、かかった塗料代を払おうとした。世間知らずのおさな妻だと思っていたら、がいして礼儀正しいことをいうではないか。私はすぐに言葉を返した。

「とんでもない。ずっと昔からお世話になっている大切なお客様だよ。他にも塗りたいものがあったら持ってらっしゃい」

彼女は静かにうなずいた。予報では夕方から嵐になるという。雨の当たらない場所に白いベニヤを一緒に運び、私は作業に戻った。


 二日間の嵐は台風並みの被害を各地にもたらした。現場の足場は

大丈夫かなと気にはなったが、雨天ならではの雑用におわれて時は

過ぎた。

 三日目は嘘のような穏やかな日となった。私は壁が乾くよう、少

し遅い時刻に現場に出て作業を開始した。

まもなく、おさな妻の運転する軽自動車が入ってきた。すぐに三

歳だという元気な男の子が車から飛び出てきた。

続いて運転席から出てきた若い母親を見て私はドキッとした。きのうまでとは見違えるような装いと、整った化粧をしていたのだ。

彼女はすぐに足場の上にいる私に気づき、妖艶ともいえるような大人の微笑を浮かべて先日の礼を述べた。私は幼かった女の子の変わりように、あらためて不思議なたじろぎを感じ、足場の上でフッと息をはいた。

最後の日、二階にいたおさな妻の母親が珍しく私に声をかけた。

今日は朝から工事依頼主の祖母は留守だった。

「コーヒーをたてましたから飲んでください」

 彼女がそう言ったのは、今まで一階に住む母親にまかせっきりにしていたのを埋め合わせようとしたのかもしれない。私はたじろいだが、玄関から見える茶の間のテーブルの上にコーヒーカップと菓子がすでに置かれ、湯気が薄暗い部屋の空気の中で白んでいる。私は遠慮なくお邪魔して、コーヒーを口にした。

「娘さんは器用にペンキを塗りましたよ」

と私がいうと、母親はそのことを知らなかったらしく、むかしのように屈託のない笑顔を見せてくれた。ダンナさんとはどうなっていますか  。そんな訊けるはずもない質問を私が想いの中でしていると、窓からそそぐ西日が彼女の頬を赤く照らした。そのとき彼女の眼じりにクッキリと浮かびあがった皺を、私はどこか哀しい気持ちで見つめた。

 私がその母親を見たのはそれから二か月が過ぎた真冬のさなかだった。評判のいいフライ屋に久々の外食に出かけたとき、走り回って働く彼女の姿があった。まだ勤めたばかりなのです、と彼女は言って気丈な笑顔を見せていた。

その娘である‘おさな妻’と再会したのは、さらに数週間あとだった。マーケットで、荷物も持たずにまっすぐ歩いてきた彼女に私はすぐに気がついた。コンバンワと声をかけると、向こうもすぐに気がついたようだった。

「こないだ夜遅くお母さんと会ったよ。フライ屋さんで頑張って働いているんだね」

 私がそう言うと、彼女は無言でうなずいた。

そのときの彼女の表情には、自ら若くしてなった母としての顔と、ひとりぼっちになった自分の母親を気遣う娘の顔の両方をにじませているように見えた。静かに微笑しながらおじぎして去っていったおさな妻のうしろ姿は、どこか哀しいまでに凛としていた。       

                           了



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