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仏間の子供-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/05/14

 その家には、仏間があった。

 古い日本家屋には珍しくない。だが、その仏間だけは、最初から空気が違っていた。


 依頼人の名は柴崎美雪。三十二歳。横浜市郊外に中古住宅を購入し、夫と六歳の娘・真帆と暮らしていた。


「娘が……夜中に、誰かと話してるんです」


 喫茶店で向かい合った彼女は、冷めたコーヒーを一度も口にしなかった。


「最初は空想だと思ってました。でも……」


 彼女の視線が、ふっと窓へ流れる。


「娘が言うんです。“仏間の子供が、寒い寒いって泣いてる”って」


 間宮響子は黙って聞いていた。


 黒いワンピースに長い髪。表情は静かだったが、その瞳だけは深い井戸のように暗い。


「家の間取り図は?」


 美雪は鞄からコピーを出した。

 響子はそれを見た瞬間、眉をわずかに動かした。

 仏間だけが、妙に広い。

 そして——妙に深い。

 家の構造に対し、仏間の奥行きが合わない。

 古い家には時折ある。増築や隠し収納。

 だが。

 響子の指先が、紙の上で止まった。

 そこだけ、冷たい。

 紙なのに、濡れた皮膚のような感触がした。


「……今日は家に戻らないでください」


「え?」


「娘さんも連れて、ホテルへ」


 美雪の顔が青ざめる。


「そんなに危険なんですか?」


 響子は答えなかった。

 答えられなかった。


 なぜなら——“いる”からだ。

 もう。

 こちらを見ている。




 夜十一時。

 響子は一人で柴崎家を訪れた。

 住宅街は静まり返り、遠くで犬が吠えている。

 鍵を開けた瞬間、腐った畳の臭いが鼻を突いた。


 違う。

 畳じゃない。

 湿った土だ。

 雨の日の墓穴の匂い。


 響子は靴を脱ぎ、廊下を進む。

 家の中は妙に静かだった。

 冷蔵庫の駆動音もない。

 時計の針も動いていない。

 まるで家そのものが息を止めているようだった。


 仏間の前に立つ。

 襖の向こうから、かすかな音がした。

 ぺちゃ。

 ぺちゃ。

 ぺちゃ。

 子供が裸足で歩く音。

 響子はゆっくり襖を開けた。

 誰もいない。

 古い仏壇と、掛け軸。

 畳。

 その中央だけが、不自然に黒ずんでいた。

 水染みのように。

 いや。

 違う。

 響子はしゃがみ込む。

 畳の目の隙間から、黒い髪が一本出ていた。

 

 その瞬間。


 畳の下から。

 爪が、押し上げた。

 ぼこっ。

 響子は反射的に後ろへ跳ぶ。

 次の瞬間、畳の下から“子供の手”が出た。

 白い。

 ふやけた指。

 爪が剥がれ、皮膚が裂けている。

 その手が畳を掴み、ゆっくり、ゆっくりと——。

 何かが、出てくる。

 響子は低く真言を唱えた。

 空気が震える。


 だが。

 止まらない。

 黒い髪。

 濡れた顔。

 異様に大きな目。

 五、六歳ほどの男の子だった。

 否。

 “だったもの”。


 顔半分が潰れていた。

 土と髪と虫が、頬から零れている。

 それが、響子を見上げていた。


「……みつけた」


 声がした。

 口は動いていない。

 頭の中に直接、響く。


「やっと、みつけた」


 響子の背筋を、冷たいものが這った。

 この霊は——普通ではない。

 怨霊ではない。

 もっと古い。

 もっと、人間に近い何か。


「お前は誰?」


 男の子は首を傾げた。

 骨が、ぼきり、と鳴る。


「ぼく、まだ、ここにいる」


 その瞬間。

 家全体が軋んだ。

 天井裏を何十人もの足音が走る。

 ばたばたばたばたばたばたばた。

 響子は息を呑んだ。


 いる。

 一人じゃない。

 この家には——大量の“何か”がいる。


 仏壇の扉が、ひとりでに開いた。

 中に位牌はなかった。


 代わりに、小さな歯が大量に詰め込まれていた。

 子供の乳歯だった。

 黄ばんだ歯が、ぎっしりと。

 その奥から。

 誰かが笑った。


「お母さん」


 女の声。


「お腹すいた」


 男の声。


「まだ生きてるよ」


 別の声。

 仏壇の奥で、何十人もの子供が蠢いていた。

 暗闇の中で、目だけが光っている。


 響子は理解した。

 ここは“供養”の場所ではない。

 閉じ込めるための場所だ。


 昔、この土地では飢饉があった。

 子供を間引いた。

 殺した。

 土蔵に閉じ込め、飢えさせ、その骨を仏間の下に埋めた。

 そして。

 “残ったもの”だけが、生き延びた。

 ——何を食べて?

 響子の脳裏に、映像が流れ込む。


 暗い蔵。

 泣く子供。

 飢え。

 骨。

 噛む音。

 柔らかい肉。

 小さな指。

 子供が、子供を食べている。

 響子は吐きそうになった。

 その瞬間。

 背後で、声がした。


「せんせい」


 振り返る。

 真帆だった。

 いや。

 違う。

 真帆の顔をしている。

 だが、目が黒かった。

 白目がない。

 全身が泥で濡れている。


「どうして、ぼくだけ、ころしたの?」


 その声は男の子のものだった。

 真帆の口が裂ける。

 耳元まで。

 中から、小さな手が何本も出てくる。


「ねえ」


「ねえ」


「ねえ」


「ひとりはいやだよ」


 響子は叫ぶように真言を叩きつけた。


 仏間の空気が爆発する。

 子供たちの絶叫。

 家鳴り。

 電灯が弾け飛ぶ。

 暗闇。

 その暗闇の中で。

 無数の子供の手が、響子の足首を掴んだ。

 冷たい。

 細い。

 骨のような指。


「いっしょに」


「おなかすいた」


「せんせい」


「おかあさん」


「まだ、いたいよ」


 引きずり込まれる。

 畳の下へ。

 土の中へ。


 響子は必死に柱を掴む。

 そのとき。

 耳元で、誰かが囁いた。


「……お前も食べたんだろ?」


 響子の動きが止まった。

 一瞬だった。


 だが、その“一瞬”で充分だった。

 子供たちの手が、彼女を土の中へ引きずり込む。

 最後に見えたのは。

 仏壇の奥。

 暗闇の中で。

 子供たちに囲まれ、笑っている“母親”だった。

 目がなかった。

 口だけが裂けていた。




 三日後。

 柴崎家は空き家になった。

 間宮響子も消息を絶った。

 警察は失踪として処理したが、仏間だけは誰も近づかなかった。


 理由は簡単だ。

 畳の下から、声がする。

 夜になると。

 小さな子供の声で。


「おなかすいた」


「ねえ」


「次のおかあさん、まだ?」



 ―(完)―

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