仏間の子供-間宮響子-
その家には、仏間があった。
古い日本家屋には珍しくない。だが、その仏間だけは、最初から空気が違っていた。
依頼人の名は柴崎美雪。三十二歳。横浜市郊外に中古住宅を購入し、夫と六歳の娘・真帆と暮らしていた。
「娘が……夜中に、誰かと話してるんです」
喫茶店で向かい合った彼女は、冷めたコーヒーを一度も口にしなかった。
「最初は空想だと思ってました。でも……」
彼女の視線が、ふっと窓へ流れる。
「娘が言うんです。“仏間の子供が、寒い寒いって泣いてる”って」
間宮響子は黙って聞いていた。
黒いワンピースに長い髪。表情は静かだったが、その瞳だけは深い井戸のように暗い。
「家の間取り図は?」
美雪は鞄からコピーを出した。
響子はそれを見た瞬間、眉をわずかに動かした。
仏間だけが、妙に広い。
そして——妙に深い。
家の構造に対し、仏間の奥行きが合わない。
古い家には時折ある。増築や隠し収納。
だが。
響子の指先が、紙の上で止まった。
そこだけ、冷たい。
紙なのに、濡れた皮膚のような感触がした。
「……今日は家に戻らないでください」
「え?」
「娘さんも連れて、ホテルへ」
美雪の顔が青ざめる。
「そんなに危険なんですか?」
響子は答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら——“いる”からだ。
もう。
こちらを見ている。
夜十一時。
響子は一人で柴崎家を訪れた。
住宅街は静まり返り、遠くで犬が吠えている。
鍵を開けた瞬間、腐った畳の臭いが鼻を突いた。
違う。
畳じゃない。
湿った土だ。
雨の日の墓穴の匂い。
響子は靴を脱ぎ、廊下を進む。
家の中は妙に静かだった。
冷蔵庫の駆動音もない。
時計の針も動いていない。
まるで家そのものが息を止めているようだった。
仏間の前に立つ。
襖の向こうから、かすかな音がした。
ぺちゃ。
ぺちゃ。
ぺちゃ。
子供が裸足で歩く音。
響子はゆっくり襖を開けた。
誰もいない。
古い仏壇と、掛け軸。
畳。
その中央だけが、不自然に黒ずんでいた。
水染みのように。
いや。
違う。
響子はしゃがみ込む。
畳の目の隙間から、黒い髪が一本出ていた。
その瞬間。
畳の下から。
爪が、押し上げた。
ぼこっ。
響子は反射的に後ろへ跳ぶ。
次の瞬間、畳の下から“子供の手”が出た。
白い。
ふやけた指。
爪が剥がれ、皮膚が裂けている。
その手が畳を掴み、ゆっくり、ゆっくりと——。
何かが、出てくる。
響子は低く真言を唱えた。
空気が震える。
だが。
止まらない。
黒い髪。
濡れた顔。
異様に大きな目。
五、六歳ほどの男の子だった。
否。
“だったもの”。
顔半分が潰れていた。
土と髪と虫が、頬から零れている。
それが、響子を見上げていた。
「……みつけた」
声がした。
口は動いていない。
頭の中に直接、響く。
「やっと、みつけた」
響子の背筋を、冷たいものが這った。
この霊は——普通ではない。
怨霊ではない。
もっと古い。
もっと、人間に近い何か。
「お前は誰?」
男の子は首を傾げた。
骨が、ぼきり、と鳴る。
「ぼく、まだ、ここにいる」
その瞬間。
家全体が軋んだ。
天井裏を何十人もの足音が走る。
ばたばたばたばたばたばたばた。
響子は息を呑んだ。
いる。
一人じゃない。
この家には——大量の“何か”がいる。
仏壇の扉が、ひとりでに開いた。
中に位牌はなかった。
代わりに、小さな歯が大量に詰め込まれていた。
子供の乳歯だった。
黄ばんだ歯が、ぎっしりと。
その奥から。
誰かが笑った。
「お母さん」
女の声。
「お腹すいた」
男の声。
「まだ生きてるよ」
別の声。
仏壇の奥で、何十人もの子供が蠢いていた。
暗闇の中で、目だけが光っている。
響子は理解した。
ここは“供養”の場所ではない。
閉じ込めるための場所だ。
昔、この土地では飢饉があった。
子供を間引いた。
殺した。
土蔵に閉じ込め、飢えさせ、その骨を仏間の下に埋めた。
そして。
“残ったもの”だけが、生き延びた。
——何を食べて?
響子の脳裏に、映像が流れ込む。
暗い蔵。
泣く子供。
飢え。
骨。
噛む音。
柔らかい肉。
小さな指。
子供が、子供を食べている。
響子は吐きそうになった。
その瞬間。
背後で、声がした。
「せんせい」
振り返る。
真帆だった。
いや。
違う。
真帆の顔をしている。
だが、目が黒かった。
白目がない。
全身が泥で濡れている。
「どうして、ぼくだけ、ころしたの?」
その声は男の子のものだった。
真帆の口が裂ける。
耳元まで。
中から、小さな手が何本も出てくる。
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ひとりはいやだよ」
響子は叫ぶように真言を叩きつけた。
仏間の空気が爆発する。
子供たちの絶叫。
家鳴り。
電灯が弾け飛ぶ。
暗闇。
その暗闇の中で。
無数の子供の手が、響子の足首を掴んだ。
冷たい。
細い。
骨のような指。
「いっしょに」
「おなかすいた」
「せんせい」
「おかあさん」
「まだ、いたいよ」
引きずり込まれる。
畳の下へ。
土の中へ。
響子は必死に柱を掴む。
そのとき。
耳元で、誰かが囁いた。
「……お前も食べたんだろ?」
響子の動きが止まった。
一瞬だった。
だが、その“一瞬”で充分だった。
子供たちの手が、彼女を土の中へ引きずり込む。
最後に見えたのは。
仏壇の奥。
暗闇の中で。
子供たちに囲まれ、笑っている“母親”だった。
目がなかった。
口だけが裂けていた。
三日後。
柴崎家は空き家になった。
間宮響子も消息を絶った。
警察は失踪として処理したが、仏間だけは誰も近づかなかった。
理由は簡単だ。
畳の下から、声がする。
夜になると。
小さな子供の声で。
「おなかすいた」
「ねえ」
「次のおかあさん、まだ?」
―(完)―




