第2話:領地のお掃除と、勘違いの英雄
ルーフェウス辺境伯領の朝は早い。
北方に位置するこの領地は、常に魔の森から溢れ出す魔物との戦いの最前線だった。
だが、当の嫡男アルスは、そんな緊迫感とは無縁の、実にあっけらかんとした顔で自室の窓を開けた。
「ふあぁ……。今日もいい天気だなぁ。バルドさん、おはようございます!」
庭で素振りをしていた老騎士バルドが、アルスの声に即座に反応し、深々と頭を下げた。
「おはようございます、アルス様! 今日も一段と瑞々しい魔力を放っておられますな。昨日の石ころをマカロンに変えた御業、一晩中思い返しては涙が止まりませんでしたぞ!」
「あはは、バルドさん、大げさだよ。ただのちょっとした手品みたいなものなんだから」
アルスは本気でそう思っていた。
昨日の【万物創造】の神託。周囲が「伝説だ」「神童だ」と騒いでいたが、アルスにとっては「ちょっと便利な道具」が手に入った程度の実感しかない。
そんな平和な朝食の席で、父であるグランツ辺境伯が、珍しく苦虫を噛み潰したような顔で報告書を睨んでいた。
「……父上、どうしたんですか? せっかくのキノコのマリネが冷めちゃいますよ」
「ああ、アルスか。……いや、大したことではない。北の防衛線に、例年より少し早い『魔物の大移動』の予兆があってな。一万を超えるオークの群れがこちらに向かっているらしい」
「一万……! 閣下、それは一国の騎士団が全滅しかねない規模ではございませぬか!」
給仕をしていたバルドが顔を強張らせる。
グランツは重々しく頷いた。
「ああ。私も出陣する。アルス、お前は母上と一緒に地下の避難所に入っていなさい。……お前のその、尊いギフトを失わせるわけにはいかないからな」
父の言葉には、息子への深い愛情と、武人としての悲壮な決意が籠もっていた。
アルスはそんな父を見て、首を傾げた。
(一万のオーク……? そんなに大変なのかな。なんだか、お庭に生えた雑草を放置して、根っこが広がっちゃったみたいな話に聞こえるけど)
アルスの感覚は、すでに【万物創造】というギフトの影響で、常人とはかけ離れたものになりつつあった。
彼にとって、世界の理は「書き換え可能な情報」に過ぎない。一万の魔物も、彼にとっては「画面上の汚れ」と同じようなものだった。
「父上、僕も何かお手伝いできることはないかな?」
「気持ちだけ受け取っておこう、アルス。お前はまだ五歳なのだ。……いいか、絶対に外へ出てはいけないぞ」
そう言い残し、グランツは重厚な鎧を纏って、騎士団と共に砦へと向かった。
数時間後。
アルスは屋敷の屋上から、遠く北の空を眺めていた。
空はどんよりと黒ずみ、地響きのような唸り声がここまで届いてくる。
「うーん……。父上たちが一生懸命戦うのはカッコいいけど、あんなに土煙が舞ってたら、お洗濯物が汚れちゃうよね。母様が大切にしてるシーツが台無しになっちゃう」
アルスの心配は、戦況ではなく、家の家事事情だった。
彼はそっと、空中に指を滑らせた。
【万物創造】の権限を意識する。
(えーと……あの黒い塊(オークの群れ)を、全部消しちゃうのはちょっと可哀想かな。あ、そうだ。あの子たち、みんなお腹が空いてイライラしてるみたいだから……)
アルスは、絵本で読んだ「お菓子の国」を思い浮かべた。
「万物創造――『美味しいお花の種』になぁれ!」
アルスが指をパチンと鳴らす。
瞬間、空からキラキラと輝く光の粒子が降り注いだ。
それは、魔の森から溢れ出した一万のオークたちの頭上に、静かに、しかし確実に降り積もる。
その頃、最前線の砦。
グランツ辺境伯は、死を覚悟して剣を抜いていた。
眼前に迫る、汚泥のようなオークの波。
だが。
「……何だ? オークたちの様子が……」
突撃の咆哮を上げていたオークたちが、一斉に立ち止まった。
そして、地面から一瞬で芽吹いた「虹色の花」を、恍惚とした表情で見つめ始めたのだ。
オークたちは武器を捨て、その花をむしゃむしゃと食べ始める。
「ブモッ!? ブモモォォーン!!(なんだこの美味い食い物は! 戦ってる場合じゃねえ!)」
凶暴だった魔物たちは、瞬く間に「ただの食いしん坊な家畜」のような大人しさになり、中には幸せそうにその場で寝始める個体まで現れた。
「……閣下、これは……一体、何が起きたのですか?」
バルドが呆然と呟く。
一万のオークが、戦わずして無力化された。それも、お花を食べて満足しているという、お伽話のような光景で。
グランツは、ふと背後の屋敷を振り返った。
そこには、小さく手を振っている息子の姿が見えたような気がした。
「……まさか、アルスか? いや、そんなはずは……あの子はまだ、ギフトを授かったばかりだぞ」
その日の夕方。
無傷で帰還した騎士団を出迎えたのは、満面の笑顔のアルスだった。
「お帰りなさい、父上! お掃除、終わったみたいだね。お花がたくさん咲いてて綺麗だったよ」
「アルス……お前、まさかあのお花を……」
「え? あ、うん。ちょっとお庭の雑草が気になったから、お花の種をまいてみたんだ。そしたら、みんな仲良くお昼寝しちゃって。……もしかして、邪魔しちゃった?」
アルスは申し訳なさそうに眉を下げる。
騎士団一同は、その場で言葉を失い、膝をついた。
(雑草……一万のオークを雑草扱いで、お花に変えたというのか……!?)
バルドはガクガクと震えながら、アルスの前に跪いた。
「アルス様……! あなたは、人類の守護神か、あるいは世界の造物主であらせられるか! 一万の軍勢を『お掃除』の一言で片付けるなど、歴史上、神話の英雄ですら成し遂げられなかった偉業ですぞ!」
「ええー、バルドさん、また大げさだなぁ。ただの種まきだよ?」
アルスはニコニコと笑いながら、父の手を引いた。
「さあ、父上。シーツも汚れなかったし、早くポタージュを食べに行こう!」
グランツは、愛する息子の小さな手を見つめ、確信した。
自分の息子は、王国の宝どころではない。
世界をその手に収めてしまうほどの、とんでもない「怪物」……いや、「天使」なのだと。
アルスの無自覚な神童伝説は、まだ始まったばかりである。




