第11話:【父グランツ視点】辺境伯グランツの受難、あるいは幸せな絶望
私、グランツ・ルーフェウスは、かつて王都の若手騎士たちの間で『鉄血の辺境伯』と恐れられた男だ。
北方から押し寄せる魔物の軍勢を幾度も退け、剣一筋に生きてきた。私の人生に「予測不能」という言葉は存在しないはずだった――あの日、最愛の息子アルスが『ギフト』を授かるまでは。
「……はぁ。アスタロト殿。今日の朝食も、随分と……その、神々しいな」
私は、執務室に届けられたトレイを前に、思わずこめかみを押さえた。
そこには、一点の曇りもないクリスタルの器に盛られた、虹色に輝くジャムを添えたパンが置かれていた。
「左様でございますか、辺境伯閣下。これはアルス様が今朝、『パンの耳がもっとキラキラしてたら、お父様も元気になるかな?』と仰いまして……。私がその概念を固定化いたしました」
燕尾服を完璧に着こなした執事――元魔神アスタロトが、慇懃に一礼する。
一口食べれば、魔力が全回復し、寿命が数十年延びるのが分かる。王都ならこれ一切れで城が建つだろう。
そんなものを「お父様へのプレゼント」として毎朝出される私の胃の身にもなってほしい。
「……美味しいな。死ぬのが馬鹿らしくなるほどに」
「それは重畳。アルス様も喜ばれます」
私はパンを咀嚼しながら、窓の外に目をやった。
そこには、庭で無邪気に駆け回る五歳のアルスと、それを追いかける白銀の古龍シロ、そして頭の上でハムスターのように丸まっている星神竜キラの姿があった。
「あはは! シロちゃん、待ってよー! キラくん、落っこちないでね!」
……あの中には、世界を三回は滅ぼせる戦力が詰まっている。
だが、当のアルスにはその自覚が微塵もない。彼にとって、古龍は大きな犬であり、星神は光るハムスターなのだ。
かつての私は、息子を『普通の幸せな貴族』として育てたいと願っていた。
剣の才能がなくてもいい、魔力が凡庸でもいい。私が命懸けで守り抜くから、せめて笑顔の絶えない人生を、と。
――だが、今の状況はどうだ。
私が守るどころか、息子が指をパチンと鳴らすだけで、隣国の侵略艦隊がお風呂のアヒルに変わり、干ばつが黄金の雨で解消され、神話の化け物たちが庭で喉を鳴らしている。
「……閣下、お顔の色が優れませんな。またアルス様が何か『やらかし』ましたか?」
老騎士バルドが、執務室に入ってきた。彼は最近、アルスの御業を見るたびに拝む癖がついてしまい、心なしか後光が差している。
「バルドか。……いや、アルスが『お月様にお団子を食べに行きたい』と言い出したのだ。昨晩の夕食時に」
「……お月様に、でございますか」
バルドの表情が引き攣る。
「ああ。私は笑って『そうだな、いつか行けるといいな』と返した。親子の微笑ましい会話のつもりだったのだ。……だが、アルスは『じゃあ、明日までに階段を作っておくね!』と言って、眠りについたのだよ」
私は恐る恐る、窓の外のさらに先、空を見上げた。
そこには、王都のど真ん中から垂直に空へ向かって伸びる、透き通るような『光の階段』が、雲を突き抜けて宇宙へと続いていた。
「……バルド。あれは、私の幻覚か?」
「いえ、閣下。私も今朝、あれを登ろうとしていた学院の生徒数名を引き摺り下ろしてきたところです。『月面での魔法実験は革新的だ!』と狂喜乱舞しておりました」
イザベラだ。あの宮廷魔導師長が、アルスの無自覚な創造をいち早く「最先端の魔法理論」として利用しようと暗躍している。
「……私の息子は、ただの心優しい子供なのだ。お花を愛で、お菓子を喜び、両親を慕ってくれる……。ただ、その『規模』が少しばかり、銀河系を包み込むほど大きいだけなんだ……」
私は椅子に深く沈み込んだ。
昨日のうちに、国王陛下から「月面の領有権について相談したい」という、正気を疑うような親書が届いている。
私の管轄は辺境伯領であって、天体ではない。
「お父様! バルドさん! おはよー!」
パタパタと足音を立てて、アルスが執務室に飛び込んできた。
その後ろからは、燕尾服の裾を翻したアスタロトが、月面探査用(アルス曰く『お散歩用』)の特製お弁当を持って続いている。
「アルス、おはよう。……階段、作ったのかい?」
「うん! アスタくんに手伝ってもらって、キラくんにお空の道を教えてもらったんだ。……ねえ、父上も一緒に行こうよ! お月様って、きっとすっごく大きいチーズでできてると思うんだ!」
アルスはキラキラとした瞳で私を見上げてくる。
……この瞳に、私は勝てない。
「……ああ。……お月様がチーズかどうか、確かめに行かないとな」
私は剣を帯び、重い腰を上げた。
これから私は、人類史上初めて「月面へピクニックに行く辺境伯」として歴史に名を刻むことになるだろう。
アルス、我が愛しの息子よ。
お前の無邪気さが世界を変えていくのを、父さんは全力で……いや、胃を壊しながら、見守り続けるよ。
たとえ明日、お前が「太陽を冷やしてかき氷にしたい」と言い出したとしても、私はそれを止める術を持っていないのだから。
「アスタロト殿。……月面は寒いだろうか?」
「ご安心を、閣下。アルス様がすでに、月全体の『気温設定』を常春に変更なさいました。……お供いたします」
私は、自分の常識が完全に死滅したことを悟り、柔らかな息子の手を引いて、空へと続く階段に最初の一歩を刻んだ。




