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 白壁王が即位して帝となり、最初の冬が終わった。

 もうすっかり春である。

 山腹から見下ろす琵琶湖は、湖水に軟らかな陽ざしを漂わせている。空は淡く青いが、対岸の山々の上では白い霞となって、そのまま大地を包んでいた。


「ようやく、世の中も収まったな」


 広名が、窓から琵琶湖を眺めて言った。うなずいた真継と若麻呂も、広名と同じで頭をまるめ、僧衣を着ていた。広名の道浄という法名は昔からだが、今では真継は沈景、若麻呂は慈昌と名乗っている。

 白壁王が即位して帝となってすぐに僧綱より申請が出て、それによって押勝の乱の直後に女帝によってすべての僧尼の山林修行を禁じた勅が廃止された。それを機に、真継と若麻呂は得度を受け、出家した。

 白壁帝の朝廷で重く用いるという配慮を断ってのことだった。そして琵琶湖を見下ろす、あの懐かしい山中寺院に入ることになった。彼らが以前ここに潜んでいたのは、押勝の乱の直後だった。あれからもう、六年半の月日が流れた。


「世の中、落ち着いた」


 と、もう一度広名が言った。


「そうだな」


 と、若麻呂もしたり顔だ。


「官人の空気が改まり、活気が出てきた。道鏡が乱任した冗官も粛清され、朝廷もずいぶん引き締まってきたという感じだ」


 真継は、ため息をついた。


「もうやめようぜ。政治の話は。それに懲りて、俺たち出家したんだものな」


「ただ、これだけは言わせてくれ」


 と広名が言う。


「そうだな。しかし俺はなんと大それたことをしてしまったんだろうか。人を殺したというだけではなく、いくら蝦夷えみし出身とはいえ一応一天万乗の帝をしいし奉ってしまったんだ。この罪業は仏道に入って仏弟子になったくらいでは消えない。まずは地獄に落ち、それから永きにわたる輪廻転生の過程で贖わなければならないだろう」


「いや、広名は命じられたままに行動しただけだ。地獄に落ちるのは左府殿の方だ」


 そう言った真継を、広名は見た。


「それが実は、どうも雄田麻呂殿のようだよ。あの命令の出所は」


「でもやはり真継の言う通り、最大の黒幕は左府殿だろう」


 若麻呂の言葉に、あとの二人は視線を若麻呂に合わせた。若麻呂は続けた。


「俺はこの国のため、皇家おうけの護持のため、護るべきものを護ろうとして白壁王様に訴えた。皇統護持のために帝をしいし奉るというのは一見矛盾したことだけど、それでも已むに已まれぬ心情だった。だが、左府殿はそれを自らの権力掌握のために逆手に取ったんだ。そもそも、帝をしいし奉るということは、最初から左府殿の頭にあったんだ。そう、俺たちが春日の大社おおやしろで白壁王様に最初に左府殿へ引き合わされたあの時から、すでにそのような腹だったのだ。そして白壁王様を即位させるための偽宣命、策士だな、あれは」


「たしかに」


 したり顔で、真継はうなずいた。


「あのお方だけは、何を考えているのか分からぬ。俺たちは、ただ利用されていただけってことか」


「だから、白壁王様のご即位に俺たちが功労があったとかなんとか言ってさらなる宮仕えを勧めてきたけれど、どうせ先は見えている。俺たちはいくら押勝の殿にお仕えしていたからといっても、それぞれの血筋は藤原一門ではない。もう今の時代、いや特にこれからは、藤原一門でないとたいした出世も望めない世の中になるだろう。だから仕官はきっぱり断って、僧になってこの寺に入ることにしたんだよな、俺たちは」


「押勝の殿か」


 真継が、ため息をついた。


「押勝の殿も、きっと護るべきものを護ろうとなさったのだな。俺たちには言わなかったけど、さきの帝が蝦夷出身だということはご存じだったのだろう。だから光明皇太后様と共に必死で牽制して、譲位に追い込んだ。だけど皇太后様崩御の後はさきの帝が再び権威を振りかざしはじめた。そのことに対する最大の抵抗としての、これまた已むに已まれぬ義の挙兵、これが押勝の殿のご真意だったのだろうな。だから広名」


「ん?」


「必要以上に自分を責めるな。俺たちはむしろ、押勝の殿のご真意を成就し申し上げたのだ。さきの帝とて、一天万乗の君を無理やり退位させて、自分が再び皇位に返り咲いた。しかもそのさきの帝が、淡路で廃帝となられた淡路公を暗殺させたらしい」


 彼らは後世でいうところの、主君の仇を見事に討ったということになる。だが彼らには、そこまでの意識はまだなかった。


「押勝の殿は、我われのこの行動を誉めてくださるだろうか」


 と、広名がつぶやいた。真継も若麻呂もゆっくりうなずいた。そして若麻呂はぽつんと、


「六年か」


 と、言った。


「押勝の殿の挙兵から六年、世の中はめまぐるしく変わったな。白壁王様が即位されて、道鏡は下野しもつけへ流された」


 それを聞いた広名が、またため息をついた。


「道鏡もかわいそうな人だった。自分の蝦夷の一族を思うあまりに、力を出しすぎて燃え尽きた。性格的にはいい人だったよ。白壁王様が立太子の時に、実は道鏡の弟の弓削浄人きよひとが道鏡に挙兵をしきりに勧めていたけど、道鏡は応じなかった。潔く身を引いた。さきの帝も本当にお優しい、母親としての温かさを持って民衆のことを常に想っておられる帝だった」


「もう、それを言うな」


 真継が口をはさんだ。


「敗者は悪者にされるのが世のならいさ。かつて道鏡の時代に、我が押勝の殿がさんざん悪人にされたようにな」


「そうなると、世の中の善と悪なんて紙一重だな。善とか悪とか二つに分けること自体が、そもそも無意味なんだ。時の流れの中で躍らされている人々は、善も悪もない。ただ、それぞれの役目があるだけだな」


 この若麻呂の言葉を最後に、三人はおし黙った。

 都だけが、世の中ではない。春霞がたちこめて水鳥が飛ぶ優しい陽ざしの中の湖こそが、三人にとっては世の中だった。

 黄昏だ。三人とも、黄昏まで湖を見ていた。最初は淡く、そして濃く紅の光が広がる。それもやがて、藍色の宵闇にのみ込まれていく。


(護るべきもの おわり)

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