第5話「はじめの一歩、ステージとベンチの狭間で」
春の陽が差し込むダンススタジオ。
鏡張りの壁の前で、ひかりは額に汗を滲ませながら動きを止めた。
「……はぁ、はぁ……っ」
かつて体が覚えていた振り付け。
かつては余裕で歌えたキー。
それが今は、足がもつれ、声も息も苦しくなる。
胸の奥で、自分の限界を突きつけられるような感覚があった。
「……やっぱり、簡単じゃないよね」
ブランクは、想像以上に重たかった。
でも、それでも――
(ここで諦めたら、今までの私と何も変わらない)
スタジオの隅に置いたスマホを手に取ると、画面には悠翔の笑顔の待ち受け。
(ママ、かっこよかった、って……もう一度、そう言ってもらいたいから)
そう心に誓って、彼女はもう一度、音楽をかけた。
* * *
一方、大阪・鳴尾浜の球場では、侍ジャパン候補合宿の真っ最中だった。
「――はいっ!」
カキン、と乾いた音。
打球は鈍く三塁ゴロ。
ティー打撃でもフリーバッティングでも、手応えがない。
(ちがう、もっと振り切れ……!)
「相馬、力入りすぎてるぞ。軸がブレてる。そんな打ち方じゃ、世界じゃ通じん」
代表打撃コーチの言葉が突き刺さる。
悠真は、歯を食いしばってバットを握り直した。
(……ステージに戻ったひかりに、俺が負けてどうする)
シーズン開幕まであとわずか。
代表としても、阪神の4番としても、結果を出せなければ――。
だが焦りばかりが先走り、結果は出ない。
プレッシャーに押しつぶされそうな自分を、彼ははじめて意識していた。
* * *
夜。
静かな食卓。
悠翔は食べ終わったあと、リビングのぬいぐるみで遊んでいる。
ひかりも悠真も、どこか言葉少なだった。
「……今日、全然打てなかった」
ぽつりと、悠真が呟く。
「ボールが見えてるのに、振れない。チャンスをもらったのに、答えられてない気がして」
「……そっか」
「でも、ひかりもきっと、同じように頑張ってるんだろうなって思うと、逃げたくないって思える」
ひかりは、ほんの少し驚いたように悠真を見つめた。
「……私も、実は今日、ダンスの途中で倒れそうになった」
「えっ?」
「でもね……私たちが夢を追うって、子どもが見てる。だから、負けられないよね」
ふたりは同時に、小さく笑った。
そうだ――
自分たちはもう、“自分のため”だけに夢を見る存在じゃない。
背中を、声を、想いを、小さな命がずっと見つめている。
* * *
寝かしつけを終えたあと、ふたりはリビングで肩を並べた。
「もし、どちらかが倒れそうになったら――」
「そのときは、絶対に支え合おう。夢を諦めないために、家族を諦めないために」
握った手は、震えていなかった。
それがきっと、ふたりが“はじめの一歩”を踏み出せた証だった。