◇エピソード6:約束のラリー、出産の日
春の暖かい日差しが差し込む朝。
はるかの陣痛が静かに始まった。
悠真はすぐに準備を整え、手を握りしめながら病院へ向かう。
「大丈夫、はるか。僕がいるから」
その言葉に、はるかは微笑んで力を振り絞った。
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分娩室では、助産師さんや医師が慌ただしく動く。
悠真はずっとはるかの隣で、励まし続けた。
「もう少しだよ。君の強さ、みんな知ってる」
はるかはラケットを握るときの集中力を思い出し、呼吸を整えた。
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長い時間が過ぎ、ついに新しい命の産声が病室に響いた。
小さな手、小さな足、そして愛おしい瞳。
悠真は涙をこらえきれず、はるかに向かって囁いた。
「約束する。君とこの子をずっと守る」
はるかもまた、その言葉に応えるように微笑んだ。
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その夜、病室の窓から見える星空を眺めながら、三人は静かに未来を誓った。
テニスのラリーのように、
何度でもボールを返し合い、支え合いながら。
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新しい家族の物語が、今、ここから始まった。
出産予定日を3日後に控えた夜。
窓の外には柔らかい春雨が降っていた。
はるかは、ソファに座りながら、手編みの小さなベビー服を膝の上に広げていた。
お腹の中で静かに動く新しい命に、どこか語りかけるように、優しく手を当てる。
そのとき――ふいにお腹の奥がずしんと重くなり、鈍い痛みが走った。
「…来たかもしれない」
寝室から飛び出してきた悠真が、はるかの顔を見てすぐに察する。
「陣痛?」
「うん…でも、まだ大丈夫。病院に電話してみるね」
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深夜2時、病院に到着。
はるかは病室のベッドに横たわり、波のように押し寄せてくる痛みに歯を食いしばる。
悠真はその手を握りしめ、呼吸を合わせながら声をかけ続けた。
「はるか、君は何度も試合を乗り越えてきた。今だってきっと大丈夫。君ならできるよ」
「これは…テニスより…ずっと長いラリーだよ…っ」
はるかの額から汗が流れ落ちる。
10代の頃、汗を流した夏の大会。あの時の試合と、今のこれはまったく違う――
でも、どこか似ている「越えるべき山」だと思えた。
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朝が来る頃、陣痛はさらに強まり、分娩室へ移動する。
悠真は、震える手ではるかの髪を撫でながら、必死で祈っていた。
「大丈夫、もうすぐ会えるよ」
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「あとひといき! 頑張って、はるかさん!」
助産師の声が響く中、はるかは最後の力を振り絞った。
悠真の手を強く握りしめ、瞼の奥に浮かんだのは――
結婚式の日、テニスの決勝戦の日、最初に「好き」と伝えた日。
たくさんの「ふたりの瞬間」が、支えとなってよみがえった。
そして――
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
小さな産声が、病室の空気を切り裂いた瞬間、世界がまったく違って見えた。
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「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
はるかの胸に抱かれた赤ん坊は、ほんのり赤くて、しっとりとあたたかくて、
この世でいちばん、尊い命だった。
「……こんにちは。会いたかったよ」
はるかの目から、静かに涙が流れた。
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その夜、窓の外には雨が上がり、満天の星が広がっていた。
病室の小さなベッドには、寄り添うように眠る母子の姿。
そのそばで、悠真は日記を開き、こう綴った。
「202X年 ○月○日
世界でいちばん大切な人たちが、今日、出会った。
はるか、本当にありがとう。
このラリーは、まだ始まったばかり。
3人で返し合いながら、きっと最後まで続けていこう。」
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テニスでつながったふたりが、家族になり、命を迎えた日。
それは、人生という試合でいちばん長く、いちばん尊い――
**“約束のラリー”**の始まりだった。