3. 森の魔女の正体は…
「これ、お菓子でできてるよね…?」
ヘンゼルが好奇心いっぱいの瞳で目の前のお菓子の家を見つめている。
「いい匂いだよね。」
笑って暗に同意する。
「でも、食べちゃダメだと思うよ。」
慌てて一言付け加えた。正直、わたしたちは二人ともお腹がすいていると思う。ついさっき分け合った数個のクッキーは、森の中を歩いてきれいにエネルギー還元されているから、目の前のプレッツェルやマカロン、パンケーキにチョコレートでできた家は、もはやおいしそうなおやつにしか見えない。
「たぶん、誰かの家だもんな。食べるのはやっぱりダメだよな。」
ヘンゼルもお腹がすいているんだろう。彼の爽やかな微笑みでさえ苦笑いに見える。
「きっと、中に誰かいるわ。まずはたずねてみましょ。」
正面と思われる扉の前まで行って、ノックをしようと手をあげる。
「グレーテル、ちょっと待って。」
わたしの手を止めて、ヘンゼルがドア近くにあった飴細工のベルを鳴らす。
カランカラン...と澄んだ軽やかな音がする。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
ベルの音を追いかけるように、少しだけ声を張って問いかけてみる。
少しだけ間があって、扉が自然と開いた。
ヘンゼルと顔を見合わせて、ゆっくりと扉の中を覗いてみる。
「あの…」
いくら扉が目の前で開いたからといって勝手に入るのはやっぱり気がひける。変に遠慮がちな声になってしまったが、部屋の中へとりあえず呼びかけてみる。
「遠慮しないで入っておいで。」
ようやく中から女性の声がした。姿は見えなかったけれど、家主の許可が下りたことに安堵して、ヘンゼルと二人で家の中に入る。
「お邪魔します。」
お菓子のおうちのインテリアは、やっぱりお菓子みたい。一歩足を踏み入れると、さらに甘いかおりが周囲を満たし、わたしたちの空腹はピークを迎えたようだ。
ぐるぅ~
お願い...わたしのお腹…いい加減ボリュームコントロールを覚えてほしいわ。またもや隠しようのない大きな音で空腹に自己主張され、恥ずかしくなって真っ赤になってしまった。
きゅるる
さっきと同じように、ヘンゼルのお腹もわたしのそれに呼応するかのように遠慮がちになった。
“ずるいわ。ヘンゼルだって空腹なのに、彼のお腹はいつでも遠慮がちになるんだもの。しかも決まってわたしの後なんて、どう考えたってわたしの大きなお腹の音が目立っちゃうじゃない。”
頭の中でヘンゼルに言いがかりをつける。
「やっぱり、僕らは健康だ。」
ヘンゼルがうつむいた私の瞳を覗き込んでにっこり笑う。
「それ…慰めになってない。」
やりきれなくて拗ねた声が出る。
「お腹をすかせているのに、この家を食べようとしないなんて感心だね。」
奥の部屋から家主らしき女性が出てきた。真っ黒な緩いウェーブの髪を後ろでゆったりと束ね、黒いローブを纏ったその人はフードで顔を隠しているからなのかどんな人なのかはよくわからない。でも声は思った以上に若かった。
「食べてもよかったんですか?」
空腹は人の判断を鈍らせるらしい。突飛もない質問が口を突いて出た。いったん口にした言葉は取り返せない。羞恥でまたもや顔が真っ赤になる。
「ごっ、ごめんなさいっ!わたし...なんてことを…」
慌てて前言撤回といきたかったが、空腹時の思考はそう簡単には働かない。わたしの発言が女性に不快な思いをさせたんじゃないかとアタフタしてしまう。
“わたしのバカ!なんてことを言っちゃうの。食いしん坊が許される年齢はとうに超えてるわ…”
記憶がないにも関わらず、思ったことを口にしてしまう悪い癖があることを自覚する。残念なことに、その自覚があってもそれを修正する能力が少し足りないことが恨めしい。まさか初対面の人にこんな失言をしてしまうとは...記憶がないってことを言い訳にしてもいいかしら…パニックすると思考は2倍速で働くようだ...言い訳ばかりが思い浮かぶ。
「わたし、正直な子は好きよ。」
おもむろにフードをとってにっこりと笑った女性は想像よりさらに若く見える。
「自己紹介もしないで、ごめんなさい。わたしはグレーテル、こっちは兄のヘンゼルです。わたしたち、森で目を覚ましたんだけど帰る方法が分からないんです。ヘンゼルは記憶がないようで、わたしは自分の名前くらいしか思い出せなくて…持っていた数枚のクッキーを分けて森の中を歩いてここにたどり着きました。とてもいい匂いがして…」
そこまで告げて安心したのか感情があふれだすように涙になった。
「ごめんなさい。泣かれても困るだけですよね。」
ヘンゼルがそっと肩を抱き寄せてくれる。わたしは涙を拭いて女性を見つめる。
「無理に事情を話さなくてもいいのよ。私はゲルダ。一人でここに住んでるわ。森の魔女って言われてるらしいけど知ってるかしら?」
茶目っ気たっぷりに笑っているが、とんでもない言葉が聞こえてびっくりする。
“森の魔女って...えっ⁉”
ゲルダは言葉を失くしてパクパクしているわたしを見ながら笑っている。
「僕たちには記憶らしい記憶がないので、森の魔女のことは知りませんが、ゲルダさん、グレーテルが困っているので、冗談はそれくらいでいいですか?」
ヘンゼルも声を震わせて笑いをこらえながらゲルダに話しかける。
「冗談...⁉」
なんとも間抜けな声が出る。
「森の外の人たちに魔女と言われているのは本当よ。でも、わたしの正体は宮廷に勤めていた元魔導士。だから魔法は使えるけれど、魔女ではないわね。」
ゲルダさんと目が合って、軽くウインクされる。ちょっとしたしぐさで妖艶な美女にも可愛い女性にも見える。この人の属性は絶対に小悪魔だと確信する。どう頑張ってもわたしにはできない芸当だ。
“女のわたしだってドキッとしたんだもの…さすがのヘンゼルだって動揺したんじゃない?”
こんな素敵な女性を前に平静を装っていられるものなのかという強い好奇心に駆られて、となりに立っているヘンゼルの反応をチラリと見てみる。
“あれっ?無反応??”
こっそり見上げたヘンゼルの笑顔はいたって普通に見える。顔を赤らめることもなく、ましてや動揺している様子もなく、そこには爽やかなイケメン笑顔が咲いている。これはさすがに兄のことながら少々心配になってしまった。これほどの美女に微笑まれて冷静すぎるこの兄の反応...
“まさか女性に興味がないとか言わないよね⁉”
などと余計な心配までしてしまうではないか。
「グレーテル、なにかよからぬことを考えていないかい?」
思考を読まれてしまったのだろうか…絶妙なタイミングで笑顔のままヘンゼルから変な圧がかけられてしまった。
「な…何のことでしょう?よからぬことなんて、考えてませんよ...全く...一切…」
言葉を付け加えれば加えるだけ、あやしい言い訳にしかならないというのに、ポーカーフェイスができないらしいわたしはしどろもどろに返答をする。
「僕には君の考えそうなことはわかるみたいだから、失礼なことを考えるのはやめた方がいいと思うよ。」
“お兄さま、にこやかに圧をかけないで~。わかったから、ちゃんと理解したから、その恐ろしいほどの微笑みをしまってください。”
思ったことはなに一つ言葉にできないまま、コクコクと大きく頷いて、同意の意思表示をする。イケメンの圧ってすごいのね。有無を言わさないってこういうことなんだ...と変に納得してしまった。
「あなたたち、面白いわね。」
ゲルダがクスクスと笑いながらつぶやいた。
「クッキーを食べただけで歩き回っていたのなら、ずいぶんお腹が減ってるんじゃない?なにか食べる?」
「はい!」
恥も外聞もなく即答したわたしの言葉をかき消すように、これまた恥も外聞の欠片もなく、さらに大きなお腹の音が嬉しそうにゲルダの言葉に返答を返した。
“あぁ~穴があったら入りたい…”
ヘンゼルにもゲルダにも大笑いされながら、いたたまれなくなったわたしは真っ赤になった顔を隠して座り込んだ。