さらさら水園
今年の夏は、暑かった。
だからなのか、あたしはとても疲れていて……。
それで、あの水園に迷い込んでしまったのかもしれない。
◇◇◇
書類のおつかいのはずだった。
だからあたしは午後いちで車を出して届けにいったのだが……。
男性営業マンの書いたメモの住所は、ナビでも携帯の地図アプリでも該当がない。とりあえずメモの住所まで行ってみたけれど、何度往復してもそれらしき社屋はなかった。
困ったなあ、これ、住所の書き間違いじゃないだろうか。
この人はよくそういうことをする。
おそるおそる彼の携帯に連絡をすると、かなり長い時間待たされたあとで、露骨な舌打ちを打たれた。
「ああ、急ぎだったから俺が届けた。もういいから!」
それだけ言って電話は切れて、あたしはひとり取り残される。
はぁ……。
ため息をついた運転席のガラス越しに、なにか目に鮮やかなものが横切るのが見える。
それは青いトンボだった。
顔をあげた先に見えたのは、水路のある公園。
(──こんなところに、公園あったっけ)
あたしは造園会社に勤めていることもあって、市内の公園や緑地にはかなり詳しいはずなのだが、こんなところがあるなんて知らなかった。
どうせ急ぎで帰る必要もないのだし、と車を安全なところに停め、ロックしてから道路を渡る。
入っていいのか悪いのか、絶妙なわかりにくさだった。
足を踏み入れることをためらうほどの草ぼうぼうではないけれど、すんなり入っていける感じもしない。
(──どう、しよう)
青いトンボは水路のほうへ飛んでいく。
水の流れる音がここまで聞こえてきて、あたしはそれに誘われるように一歩踏みこむ。
ごつごつした段差には雑草が伸びている。
かなり広い公園だというのに、ほかに人はいない。
そもそも公園と呼ぶには荒廃しすぎているのである。
ふと不安になって振り返ると、もといた道路を車が行きかっているのが見えた。なんとなく安心して、もう少しだけ先に進むことにする。
味気ないコンクリの石段はすぐに赤と白の大きなモザイク模様に変わった。水路に降りていく道筋は黒だ。
それにしたがってゆっくり降りていくと、音を立てて流れる水路があった。
今日も最高気温は35度を超えている。
しゃがみこんでそっと指先を入れてみると、水は想像よりも冷たかった。
水は澄んでいて、水路の底に生えている水草の一本一本まではっきり見える。
(この水路、どこに続いているんだろう)
好奇心から流れの先に目を向けると、少しひらけたところに水園があるのが目に入った。
水路の水が流れ込んで、またどこかに流れていく、ひと休みのような場所だ。
造園的には目に涼しげな蓮を仕込むこともあるし、小型の噴水や水盆をつくることもある。そうやって憩いの場をつくりだすのだ。
(どんな感じか、見てみたいな)
あたしは思った。
明らかに人工的に作られた場所であることは疑いがないし、立ち入り禁止の看板もない。ちょっとくらい、覗いたところでとがめられることもないだろう。
あたしは立ち上がると、ゆっくりと水園に近づいていった。
──そして、女神を見つけたのだ。
◇◇◇
(女神がいる)
あたしがそう思ってしまったのも無理はない。
その人は、それくらい現実離れしたオーラを身にまとっていた。
ほっそりと姿勢のいい後ろ姿。彼女はお茶の支度をしているらしく、かごからなにかを取り出しているのだが、そのたびに白い二の腕がまぶしく動く。艶びかりする黒髪は耳の上できれいに編まれて、残りは背中に垂らしてあった。
(うわぁ……)
彼女はレモネード色のドレスを着ていた。透ける薄い布を幾枚か重ねたロング丈のワンピースなのだけれど、彼女が着ているとドレスと呼ぶのがふさわしく思える。
(きれいだなあ)
ほんとにきれいだと思った。
あんな服を着て、しかもそれが似合うような女の人に、一度でいいからなってみたい。
紺の事務服を着ている自分がいかにも場違いに思えて、あたしはちょっと後じさりをした。
「──あら」
その時だ。
あたしの靴が音をたてて、その人が顔をあげる。
あたしはどきっとした。
ほんの一瞬こちらを向いただけなのに、その人がものすごい美女だとわかったからだ。
「あ、あの、ごめんなさい、あたし」
「あらあら」
女の人はやさしく微笑んだ。切れ長の目が細められる。
「珍しいお客様は歓迎だわ。嬉しいわね」
その人は手を止めて、そう言った。
しっとりとうるおいのある声も耳に心地よかった。
「勝手に入るつもりじゃなかったんです。その、公園だと思ったものですから」
「公園ですわ。ですからどなたでも入っていらしてかまわないの。おかけになりません?」
「あいえ、そんな……」
「おやつがありますよ。お茶も」
「いえ、そんな……」
「紅茶はお好き?」
「す、好きです」
「よかったわ。お座りになって、どうぞ」
その人の白い手のひらで促されると、あたしはもう逆らえなかった。手前の椅子におずおずと腰掛ける。
ほどなくして、目の前にガラスの器が差し出される。
四角く切った寒天のうえに、つるりと丸い白玉が乗っていた。甘酸っぱく煮たあんずとくし形の黄桃も。
柄の細いスプーンですくって口に入れる。
水の味をした寒天はするすると喉をすすんだ。見た目よりやわらかい寒天で、口の中でとけるようだった。甘いシロップの中にはクラッシュアイスが入っている。氷の粒を口の中でシャリシャリとかみ砕く。
(ああ──おいしい)
気がつくと、あっという間に器をからにしていた。
ここ最近、暑さのあまり義務的に食事をとっていたのが嘘みたいだった。
(久しぶりに、なにかを味わって食べたって感じがする)
満足の吐息をつくあたしに、女の人はやさしく笑った。
「おいしい?」
「はい、とっても」
「嬉しいわ、お茶も口に合うといいのだけど」
「いただきます」
今度は素直に口に出せた。
彼女が出してくれたのは、深いあめ色の紅茶だった。
アイスではなくホット。しかもカップとソーサーでだ。
飲んでみると、あつすぎず、ぬるすぎずのちょうどよい温度だった。
ひとくち、またひとくち、夢中で飲む。
ひとくち飲むごとに、単なるお茶ではない、他のなにかが体に染み込んでいく気がして、お茶を飲む手がとめられない。
最後まで飲みきって、ようやく落ち着いて息をつく。まるで、砂漠を歩いてきた旅人みたいな飲みっぷりだった。
そんなあたしを彼女はそっとしておいてくれた。
水の流れる音だけがさらさら響く。
沈黙が苦にならないなんて、いつぶりだろうとあたしは思った。
「わたくしも飲みたいから、もう少しお茶を入れますわね」
「はい」
彼女は余計なことは言わない。とりあえずの場つなぎのような会話もしない。
必要なことを、必要なだけ言うと、また粛々とお茶を入れる作業に集中している。
あたしはからのカップを両手で包むように持ったまま、そのしぐさに見とれていた。
派手な動きはなにひとつしないのに、なぜか目が彼女に吸い寄せられる。
彼女をずっと見ていたかった。
(目が心地よいって、こういうことかな……)
そんなことを考えた時。
「またこの場所か!」
「こっちの台詞だ!」
「何回目だよここ呼び出されんの!」
「貴様のせいだろうがっ」
わあわあと騒ぎ立てる声がして、振り向くと一組の男女がこちらに大股で近づいてくるところだった。
「問題を起こしたのはお前なんだから、来るのはお前だけでいいというのに」
「俺は今回悪くないぜ?」
「どの口が言うのだ」
あたしが来たのとはちょうど逆方向から口げんかしながらやってくる男女は、一見してただの人とは思われなかった。
女性は肩幅が広く、服の上からでも筋肉がしっかりついているのがわかる。身長も高い。日焼けした顔立ちは端正なのに、その顔にはいくつも傷跡がついていた。
男の方も、こちらはこちらで異様だった。
ぱっと見はほっそりした優男風なのに、身のこなしに野生動物じみた気配がある。
「「ん?」」
あたしに気がついたのは、ふたりほぼ同時だった。
気づくと同時に、男は人間離れした足のバネでもって一気に距離を詰めてくる。
「あっこら!」
連れの女性が止めるひまもなかった。
捕獲という言葉が頭の中でちらつく。
男はあたしに身構える隙を与えなかった。指二本であごをくいっとあおむかせると、無遠慮なほど顔を近づけ、眉をしかめる。
「誰だ、お前」
「え、えぇと……」
「どこから来た。──匂いが違う」
あたしは猛獣ににらまれたみたいに動くこともできない。男はぞくっとするほど低い声で続けた。
「名前は」
「り、律です……」
「へぇえ」
あたしが素直に名前を告げると、男は、にっと、からかうように口の端を持ち上げる。
それから片手をゆっくりとあたしの座っている椅子の背もたれに置く。
みしっと、椅子がきしむ音を立てる。
じわりじわり包囲網が完成している、そんな警戒信号が頭の中にともるけれど、あたしは魅入られたみたいに動けないでいる。
「あ、あの」
「んー?」
男は愉快そうに笑うだけだ。あたしはその瞳から目をそらすことすらできない。
笑っているのに、なぜか、怖い。
「いい加減にしろ、五代目」
そこに、傷だらけの女の人が割って入ってくれた。
「常日頃から、そういうのをやめろと言っているんだ」
骨太の手を差し入れて、彼をあたしのそばからはがしてくれる。
その時ちらりと見えたのだが、彼女は顔だけでなく腕にも古傷をたくさんつけていた。
「誰彼かまわず手を出しおって」
「いやいや、俺だってさすがにね」
ちら、と男はあたしを見て、傷だらけの女の人を見て、なにか考えたみたいだった。
「なんつーの? ここまで色気がないというか、うるおいのない女に手は出さねえよ」
ガンッと頭を叩かれたような衝撃だった。美人じゃないのも色気がないのもわかっているけれど、正面切ってそう言われてしまうとそこそこ傷つくものである。
(この人……言葉を選ぼうとした割に選びきれてない……)
色気がない。愛想がない。こんな女にセクハラなんて誰がするか。色気もないのに仕事もできない。要領が悪い。
これまで言われてきた言葉がつられてよみがえってきて、あたしが密かにしょんぼりしていると、女の人はげんこつを彼の頭にふりおろした。
「無礼者っ!」
ゴッ、となかなかいい音がした。
「いっ……、暴力反対!」
「お前が先にお嬢さんを傷つけるようなことを言ったんだろうが!」
「代理戦争はんたーい」
男は後頭部をさすりながらぶつぶつ言っている。いくらここに武器の持ち込みができないってゆーてもさ、こいつの場合は体がもう武器じゃん、意味ねえ。
「大体お前は、理を乱しすぎるのだ。自由奔放と好き勝手は違う。今回のことにしてもそうだ」
女の人があれこれ言うのを、男の人は右から左へ聞き流している。
首の骨折れるかと思ったわ、と言いながら細い首を左右に倒したかと思うと、再びあたしの前に来て、体温がわかるくらい間近にしゃがみ込む。彼の膝とあたしのすねがもう少しでさわりそうで、どきっとする。
「りっちゃん」
「は、はいっ」
「さっきはごめんね、色気ないなんて言って」
「いえ……本当のことなので」
「気にしてた?」
「大丈夫です、言われ慣れてます」
手の平を立ててあたしが言うと、彼はくすっと笑った。
「俺、謝るからさ。仲直りしてもらえる?」
「いえもう、全然。いえもう、全然」
あたしがわけもなく頭を下げたり上げたりぺこぺこしていると、あたしの足元に膝を大きく広げる格好でしゃがんでいる彼の手が目に入った。
大きな手と長い指、それに固そうな尖った爪が。
「俺のこと怒ってない? 嫌いになってない?」
「そんな、全然。なってないですよ、全然」
男はひな鳥をあやすようなやんわりとした声を出している。低い声が耳にやさしいのに、膝の間でゆらゆらしている爪がやけに長い。
そしてあたしはその爪から目を離せないでいる。
「いいか、五代目」
後ろでは女の人がしゃべり続けている。
「年間二百人までは約定通り見逃そう。だが、よりにもよって貴族の娘をおもちゃのように使い捨てるとは。あれではいくらなんでも苦情が出る」
男は聞いてるようで聞いていない。
「りっちゃんはさー」
しかも、いつの間にかりっちゃん呼びである。
だが男には絶妙に人のふところに入り込んでくる人懐こさがあった。ちょっとそれはやめてください、という気になぜかならない。
「色気、欲しい?」
「ええっ」
ぎょっとして顔をあげると、男は待ってましたというように目を合わせて、にっと笑った。
「そんなの簡単だよ、欲しい?」
「あのう、そのう、ですね。欲しいと思ってどうにかなる類のものではないんじゃないでしょうか」
「そんなことないよ。色気なんて、俺としばらく一緒にいたら勝手に出てくるよ」
「……そ、それは、どういう意味なのでしょうか」
いやいやいやー、と男はやんちゃ坊主のように笑った。
「さっきひどいこと言ったからお詫びになんかあげようかと思ってね。簡単簡単、おいでー」
言いながら両手を大きく広げる。魅力をたたえた満面の笑み。
「全部俺にまかせておけばいいんだよ」
「あのっ……」
怖かった。
一瞬ふわりとその腕の中に飛び込んでいきそうになってしまった自分が、怖かった。
ぐっと奥歯をかみしめてあたしが両肩に力を入れたその時だ。
ゴッ。ふたたびいい音が響いて、男の後頭部に拳が振り下ろされる。
「だから俺じゃなきゃ首の骨折れてるってよ!」
「今この場で狩られたいようだな貴様っ!」
彼の背後には、仁王立ちで闘気をゆらめかせた女が立っていた。
「なぜ大人しくしていられないのだ……ここをどこだと思っている、調停の場だぞ」
「お前が俺のものになればいい。そうすりゃ大人しくしてるのもやぶさかでは」
「戯言をほざくな」
「わりと本気で言ってんのに」
「余計うっとうしい」
ふたりが再び口げんかを勃発させかけた、その時。
──カンッ。
と、鋭い音が響いた。
目をやると、レモネード色のドレスを着た女性が柄の長い茶道具を、テーブルに打ちつけたところだった。
「おしずかに」
決して大きな声ではなかったはずなのに、ふたりは一気に静かになり、それぞれ椅子に腰を下ろす。
なんだか、あれみたいだ。海外ドラマの裁判のシーンで、裁判長が手に持っている木槌。静粛にとか言いながら使うあれ。
出された白玉を口に運びながら、男がひそひそ声で言ってくる。
「夏の君はおっかねえな」
あたしはつられて小さな声で聞き返す。
「夏の君とは?」
「調停者さ」
「ちょうていしゃ……」
よくわからない。
だけど男は白玉をさっさと食べ、紅茶のカップを豪快に片手でつかむと酒でも飲むみたいに飲み干してしまい、組んだ足をぶらぶらさせている。
もう話は終わったしやることも終わったぜ、とでもいうみたいに。
「すまないな」
やけに改まった口調で言ってきたのは、傷痕の彼女だ。
「律どの。客人に見苦しいところをお見せした。お詫び申し上げる」
「いえいえ、そんな」
「わたくしはキーラと申す。騒がせたせめてもの侘びに、律どののお話でも伺おうか」
「あたしの話、ですか」
きょとんとすると、キーラさんは日焼けした顔を少し和らげた。
「先ほどおっしゃっていただろう。そう言われるのは慣れている、と」
「ああ、その話……」
「この男ほど不躾な発言をする人間が他にもいるのかと思ってな」
その言い方が少しおかしくて、あたしは笑った。
そしていつの間にか、会社での出来事をぽつぽつと話していたのだった。
特定の男性から嫌味をしばしば言われること。その男性の誘いを断った時からそれは始まったこと。他の事務員もいる前でことさらに色気がないとか愛想がないとか言われること。そして、偶然か意図的にかわからないけれど、仕事の指示が間違っていることが多いことなどを。
「で、仕事ができないとか気がきかないとか言われるのか」
「そうです」
なんだか不思議な感じがした。
これまで誰にもそんな話をしたことはない。
同僚が、大丈夫? と言ってきても愛想笑いでごまかしていたというのに。
どうしてこの人にはなんでも話してしまうんだろう。
ひととおり話を聞いてから、キーラさんは口をひらいた。
「その男、明らかに律どのに悪意があるね」
「悪意なんでしょうか。多分あたしがうまくやれないのがよくないんですけど」
「いや、律どのが聡明なのは、こうして少し話しているだけでわかる」
「そ、聡明だなんて、そんな」
「要点をかいつまんで初対面の人間に話すことができるところや、感情と事実を分けて語ることができるところ、まぁ他にもあるが……話を聞いている限り、律どのに瑕疵があるようには思われない。きっとなにをやらせてもそつなくできる人なんだろう」
ただなあ、仕事というのは人間関係が一番難しいからな、と彼女は透明な寒天を口に運びながら言う。
「そうなんです。わかりますか」
「わかるとも。どんな仕事でも難しいのはそこだ。仕事自体は習得すれば誰にでもできるもだが、消耗するのは人間関係のほうだ」
「ほんとに、そう思います」
「仕事相手は選べないし、まともに話のできない人間と組まなくてはならない時もある。そんな時はなにをやっても空回ってしまう。──律どのがおっしゃっているのは、そういうことだと思うのだが、違うかな」
「そうです、ほんとにそう」
あたしは前のめりになって幾度もうなずいた。
彼女の口調は女同士と思えないほど武骨なのに、不思議といつまでも話していたくなるような包容力があった。
初めて会った人なのに、真剣にあたしの気持ちを考えながら話してくれている、そんな気がして。
それに、向かい合って話しているうちに気づいたことがあった。
彼女は傷だらけだし、化粧っけだってないのに、とても美しく見えるということだ。
なんというか、傷を恥じていないように見える。
「わたくし自身、人間関係については悩ましいところなので実のある助言ができずに申し訳ないが……」
「そんなこと!」
「ただ、律どのの聡明さを見るに、きっと今にいい手段を思いつくのではないかと思うのだよ」
「まわりくどいこと言ってんなー」
キーラさんの寄り添うような対話に対し、五代目と呼ばれた男は真逆のことを言った。
「りっちゃん、りっちゃん」
「なんですか」
「簡単だろ。俺を呼べよ。夜闇にまぎれて俺がそいつを食い散らかしてやる」
さも気楽そうに彼が言うので、あたしはなんだか笑ってしまった。
「さっき言ったろ? 埋め合わせするって。そいつが消えてりっちゃんが楽になるならやってやるよ。──ただし、まずそうなやつは勘弁だぜ」
「多分、おいしくないと思います」
「じゃーだめだ!」
彼は白い歯を見せて大笑いした。牙のような尖った歯だった。
「律さん、おかわりは?」
久しぶりに笑って、笑って、あたしの笑いがおさまったころを見計らって、レモネード色のドレスを着た彼女がお茶のポットを手に尋ねてくる。
「いえ、そろそろ会社に帰らないと」
あたしはなんだか清々しい気持ちで椅子から腰をあげた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「それはなにより」
お礼を言って、ふたりに手を振ってその場をあとにする。
来た時とは逆に、黒い階段を一段ずつゆっくりあがる。
楽しかったなあ、それに気持ちよかった。水のそばだったせいか、暑さもほとんど感じなかったし。
背後ではまだ水音がさらさら聞こえている。
(ひとつひとつ、かたづけていこう)
そんなことを思った。
まずは会社に帰って、預かっていた書類と書置きのメモを返して。……そうだ、返す前にメモの写真でも撮っておこうかな。使うか使わないかは別として、言った言わないになっても困るし。
(安心材料は、どんな小さくてもあったほうがいいもの)
そう考えると、どうしていいかわからずごちゃついていた頭の中が、少しだけ楽になったような気がした。
ひとつひとつ。
そうだ、順番に。
できる範囲の自衛をして、あとは自分のやるべきことをやるのだ。
どのみち、そういうふうにしかできないのだし。
(そう、やるべきことをやる──あの人みたいに)
ふと、あの人の手つきを思い出した。
急いだ感じはまるでないのに、流れるような手つきを。
──カンッ。
あの時のあの人は見とれるくらいかっこよかった。
そう思って、階段をあがりきってもう一度振り向いたら、
(──あれ?)
もう、あたしの記憶はなかったのである。
もう一度、なにを見ようとしていたんだっけ。
どうしても思い出せなかった。セミの声がやけにうるさい。
(えぇっ……と)
手繰ろうとするほどそのなにかは遠のいていく。
眉間にしわを寄せ、集中して考えこんだ時。目の前を青いトンボが横切った。
(あ、シオカラトンボ)
そこまで考えた瞬間、ポケットに入れていた携帯が振動する。見ると、会社からである。
「はい」
「蒼井さん今どこ、大丈夫?」
焦ったような声は職場の同僚からだった。
「松村さんのバカが今いないから電話かけてるんだよ、みんな蒼井さんのこと心配してる」
「ごめんなさい、ちょっと……メモの住所を探していたら、変な道に入ってしまったみたいで」
だと思った! と同僚は憤慨した声を出す。
「ほんとにひどいよね、早く帰っておいでよ。今は松村さんいないからね」
すみません、といつものくせで言いかけて、あたしはちょっと言い直した。
「ありがとう、すぐ戻ります」
あたしは通話を終えると、スマホをスカートのポケットに滑り込ませた。
それから軽い足どりで、停めておいた車に駆けていった。