金曜日 入稿当日
草木も眠る丑三つ時。広の目の前には幽霊ではなくパセリが現れた。パソコンの液晶画面に大写しになったパセリは艶のある濃い緑色で、葉の一枚一枚は細かく縮れ、見るからに鮮度がいい。これならば一色刷りのチラシでも購買意欲をそそるに違いない。
静まり返った部屋にマウスのクリック音が響く。カチカチ。葉の凹凸に点を打ち、点と点で結ばれた曲線を輪郭に沿うよう変形させる。カチカチカチ。単調な作業が延々と続く、終わりが見えない。カチカチカチカチ……。
「ぎゃ」
突如、激しい痛みが右手を襲った。マウスの左ボタンに添えた人差し指は歪な方向へと反り返り、手の甲に太い筋が浮き上がる。
痙攣する人差し指の付け根を揉みほぐしながら、広は、見栄えのするパセリを選んだ数時間前の自分を呪った。貴婦人のドレスのごとくゴージャスなパセリが、レースのように緻密で繊細な縮葉がただただ憎かった。
いっそのことその華美な葉を毟り取り、茎だけの惨めな姿を白日の下に晒してやりたい……。そんな、自分の首を絞めるだけの不毛な妄想が脳裏をよぎった。
表からオートバイのエンジン音が聞こえる。そろそろ街も目覚めるころ。パセリ地獄は脱したものの、徹夜明けに付き物の頭痛と胃痛がピークを迎える。
割れるように痛む頭部を指圧しながら、広は液晶画面を睨んだ。
「……ったく、まだかよ」
【保存】のアイコンをクリックしてからすでに二分が経過していた。進捗状況を表示するプログレスバーは三分の二の位置で止まっている。ただでさえ容量を食うレイアウトソフトに数十点におよぶ商品写真やデータを配置しているのだから無理もないのだが、こうも動作が遅いとさすがに苛々する。
遅々として進まない画面を睨んでいても精神衛生上よろしくないので、広は気分転換に台所に立った。ホットミルクを飲んで精神と胃痛を鎮める。
いくら時間がかかるからとはいえ、完成するまでファイルの保存を行わないというのは自殺行為だ。ファイルの保存を怠って過去に何度か泣きをみたので、どんなに苛立ちがつのっても保存だけは欠かさないようにしなくてはならない。
一息ついて部屋へ戻るとプログレスバーは消えていた。心機一転、作業を再開する。
午前七時。日用雑貨を除く八部門の印刷原稿を完成させ、広は一睡もせぬままスーパーへ出向いた。必要最小限の照明のともる店内に客はおらず、通路のそこここには台車や段ボール箱が乱雑に置かれている。スーパーの開店時間は午前九時だが、従業員は開店準備のためこの時間には出勤している。
忙しなく働く従業員の中に目当ての小池の姿もあった。彼は正面玄関脇で特売品のトイレットペーパーをうずたかく積み上げている最中だった。
「お疲れさまです。来週のチラシの原稿を貰いに来ました」
広は、エプロンを着けた小さな背中に声をかけた。小池は振り返ることなく、
「忙しいから後で」
「すみません。急いでいるので、できれば今すぐ欲しいんですけど」
「へぇ、急いでるんだ」
小池はそこで初めて広を顧みると、悪事をたくらむ悪代官ばりにニヒルな笑みを浮かべた。右の口角だけをくいっと持ち上げる嫌らしい表情は、彼が他人に嫌がらせじみたことをする時に見せる顔だ。ストレス発散だかなんだか知らないが勘弁してほしい。
これまでの経験からいって弱みを見せれば付け込まれるのは承知しているが、切羽詰まったこの状況では正直に打ち明けるほかなかった。
「はい。入稿が今日の十時なので」
「それは大変だねぇ。でもさぁ、だったらどうしてもっと早くに原稿を取りに来なかったの?」
「小池さん、出張だったじゃないですか」
「あぁ、そうだった」
そうだった、そうだった、と繰り返して、小池は何事もなかったかのように作業に戻った。広は目が点になった。
「あの……原稿を」
「俺がいつも持ってるバインダー知ってるだろ。食品事務所に置いてあるから勝手にコピーしていってよ」
小池は振り向きもせずにそう言い放った。
広は食品事務所へ赴くと、作り付けの棚からバインダーを探した。だが『日用雑貨』とシールの貼られた区画には小池のバインダーは見当たらなかった。
「すみません、小池さんのバインダー知りませんか?」
広は、パソコンに向かい発注作業を行っている従業員に尋ねた。作業を中断された従業員は煩わしそうに棚を指差した。
「そこにない?」
「はい。一応探してはみたのですが、ここには……」
「ごめん。そこにないなら私にはわかんないわ。小池さんに聞いてくれる」
「そうですか、すみません」
落胆して事務所を出ると、通用口をこちらへ向かってやって来る小池の姿があった。彼は広と目が合うと手にしたバインダーをブンブンと振り、大声で、
「悪い、悪い。バインダー、俺が持ってた」
──なんて白々しい……。
忌々しく思う気持ちを精一杯の作り笑顔で隠し、広はバインダーを受け取った。
不幸中の幸いで、日用雑貨のチラシ掲載商品は三日間で六品と他の部門に比べて少ない。さらに、原稿に目を通すと、ボックスティッシュやフリーザーバッグなどすでに手元に写真のある物がいくつかあった。
若干気持ちも軽くなり、小走りで売場へ向かった広は、しかし陳列棚に並ぶ商品を目の当たりにして、
「うわっ」
と、小さく悲鳴を上げた。何の因果か、撮影が必要な商品がどれもボトル入りの物ばかりだったからだ。
箱入りの商品はトレースが容易なため写真の加工が短時間ですむ。それに引き換えボルト入りは厄介だ。食器用洗剤や衣料用液体洗剤などのボトルは『持ちやすくて使いやすい、人間工学に基づいたユニバーサルデザイン』とやらのせいでやたら凸凹していて無駄に時間がかかる。
さらにボトルが透明や半透明だと容器や中の液体に自分の姿や周りの景色が写り込まないよう、撮影にも細心の注意を払わなければならない。
広がバックヤードの隅で食器用洗剤を撮影していると、
「あー、いたいた、折口君」
狭い空間に甲高い女の声が響いた。デジタルカメラの液晶画面から視線を上げて見れば、台車に高く積んだ段ボール箱の上から日配部門主任の山口が顔を覗かせていた。
「悪いんだけどさ、来週の特売の二食入りのうどん、三食入りの焼きそばに変更してくれない? ちょっと発注ミスっちゃってさー」
さして悪びれる様子もなく、あはは、と能天気に笑う。
──この段階で商品の差し替えだと? 悪い冗談はやめてくれ!
そう叫んで広は台車の積荷をなぎ倒した。もともと不安定だった五段重ねの段ボール箱は呆気なく崩れ、辺りに箱の中身が四散する。広は、足元に滑り込んだ袋入りの焼きそばを踏み付けると、コンクリートの床にめり込まんばかりににじった。……というのは妄想で、現実にはただ苦笑して、山口が手渡す焼きそばを無言で受け取ったのだった。
スーパーから戻ると、広ははやる気持ちを抑え、迅速かつ慎重に作業を進めた。期限に間に合っても内容に誤りがあっては元も子もない。
「よし、完成!」
時計と原稿とパソコンの画面とを交互に見ながら、午前九時五分、脱稿。プリントアウトした印刷原稿を三回確認してMOにデータを落とす。印刷会社までは電車と徒歩で二十三分。九時三十五分の上りに乗ればぎりぎりで間に合う。
「お疲れさまです。チラシの原稿を持って来ました」
自動ドアが開く間ももどかしく、広は息せき切って印刷会社へ飛び込んだ。カウンターの奥で書き物をしていた事務員が作業の手を止め、席を立つ。
「お疲れさま。ずいぶん息が上がってるけど、ひょっとして駅からずっと走って来たの?」
「はい。間に合わないかと思ってヒヤヒヤしました」
「大丈夫よ、あと五分あるもの」
カウンターに置かれたデジタル時計に目をやり、事務員が朗らかに笑う。チラシ制作でくさくさした気分の広にとって彼女の笑顔は一服の清涼剤だ。
MOを差し出すと事務員はそれを両手で受け取り、ついで広の顔を覗き込んだ。
「徹夜したの? 目の下の隈すごいわよ」
「なかなか終わらなくて……」
指摘された気恥ずかしさから、広は目の下を擦る素振りでそれを隠した。
「原稿が集まらなかったんでしょう。うちの田中君が困ってたわ」
「田中さん、まだ原稿揃わないんですか?」
「そうみたい。……まったく困ったものだわね、ちゃんと期限を守ってもらわないと後の人達がバタバタするっていうのに」
ねえ、と同意を求められ、広は力一杯頷いた。
「あっ、そうそう、田中君が折口君に話があるって言ってたわ。今呼ぶからちょっと待っててね」
そう言って事務員は机の上の受話器に手を伸ばした。
──嫌な予感がする。いや、嫌な予感しかしない。
ほどなくして、内線で呼ばれた田中が受付にやって来た。無機質な蛍光灯の下で見る彼はいつにも増して青白く、死んだ魚のような目をしていた。彼は壁に掛かったカレンダーに暗い視線を向けると、覇気のない声で、
「再来週の月曜日は新聞の休刊日なんですよ……」
──嫌な予感的中……。
月曜日が休刊日の場合、チラシは一日前倒しで日曜日に折り込まれることになる。しかし予定が早まるのは広や印刷会社だけで、各部門の主任達の締め切りは通常どおりだ。
「ということは、入稿が早まるんですよね。木曜日に持って来ればいいですか?」
広は内心、盛大な溜息を吐きつつも、平静を装うため自ら結論を述べた。
「そうですね。木曜日に入稿してもらえれば日曜日の新聞に折り込めますから」
「では、木曜日に持って来ます」
「すみませんけど、お願いします」
田中が力なく微笑みかける。広が田中に対し同情心を抱いたように、彼も自分に対して同様の感情を抱いているかと思うと、無性にやるせない気分になった。
「頑張ってね」
と、事務員の励ましに見送られて印刷会社を出ると、街の景色が滲んで見えた。
──泣いてなんかないさ。徹夜明けで朝日が目に沁みただけ……。