木曜日 入稿一日前
「折口、うちのチラシ安っぽいと思わないか」
プリントアウトした印刷原稿を眺め、店長兼食品部門主任の保井が言う。商品写真やデータに誤りがないか確認してもらっている時のことだ。
「ええ、まあ」
広は率直に頷いた。保井が青髭の目立つ顎を指で摘み、うーむ、と低く唸った。
「もっとこう……、なんとかならんのか?」
「なんとか、ですか? 僕はこの安っぽさがいかにも、安売りしてます、って感じでいいと思うんですけど。それにここみたいに地域密着型のスーパーなら、これくらい庶民的なほうが客層にも合ってるんじゃないですか」
「それはそうなんだが、どうもいまいちぱっとしないんだよな」
そう言って保井は用紙を目の高さに掲げると、紙面を凝視して不満気に顔を顰めた。
──またか……。
広は激しい脱力感に襲われた。
保井は二ヶ月に一回の割合でチラシの改善を要求してくる。確か前回は、ライバル店がチラシのレイアウトを変更したからと対抗意識剥き出しで。さらにその二ヶ月前は、出張先で見たどこぞのスーパーのチラシに感化されて。
商売をする上で、変化を恐れず果敢に挑戦することは大切なことだ。マンネリ化すれば客足も遠のく。それは広も理解している。現に売上げを伸ばすため、集客に効果的なチラシを模索していた時期もあった。その時は、書籍やインターネットでチラシ制作のノウハウを学んだり、何度も原案を練り直したりして、自分なりに真剣に取り組んでいた。微力ながらも店の売上げに貢献できればと本気で考えていた。
けれど今ではもう、当時の殊勝な心がけなど消え失せてしまった。どれだけ尽力しても、全然結果に反映されないからだ。いや、反映されないどころか、保井の場合、勢い込んで挑むものの結局は一周回って元に戻ってしまうのだから、チラシの改善さえなされていない。
やる前から結果は見えている。保井は広の原案に再三やり直しを命じたあげく「やっぱり今までのが一番いい。今までのでいこう」と、自己完結するのだ。そうしていつも判で押したように同じ台詞で、広の費やした労力を無に帰する。
これまでずっとそうだった。きっとこれからも、保井の、周囲に影響されやすいくせに変に意固地な性分が変わらないかぎり、同じことの繰り返しになるのだろう。だから最近では、彼の理不尽な要求を回避することに労力を費やすようになった。
「当店のチラシは他店に比べて文字が大きいので、どうしてももっさりしてしまうんですよね。それにこの価格表示に使用している書体自体、低価格が売りのスーパーが好んで使うものですし。まあ、文字をゴマ粒くらいにして、細身で小洒落た書体に変えれば多少垢抜けるかもしれませんが、そのぶん確実に文字は読みづらくなりますよ。ここの利用者は中高年や高齢者が多いので、文字は従来どおり太くて大きいほうがいいと思うんですけど」
「ああ、文字の大きさは変えるな。これ以上小さいと年寄りには読めんからな」
広の提案に保井が食い付いた。それもそのはず、今述べたことは過去に保井が広に対して言ったことなのだから。
そもそも現在のチラシの原案を作ったのは保井だ。紙面の構成、書体、文字の大きさ諸々を細かく指示され、広はそれをパソコン上で再現しただけにすぎない。使用する調理イメージの写真や催事のイラストなどの素材も保井から支給された物だ。
できることなら広とて、見るからに安っぽい書体など使いたくない。昭和の小学校の学級通信に使われていそうな古臭いイラストも使いたくない。バクダンと呼ばれる、本来ならば目玉商品を目立たせるために施す装飾を、必要もない商品にまで施すことなどしたくない。不本意な内容だが、それが仕事だと割り切ってやっているだけだ。
そんな広の心情などお構いなしに、保井が高圧的な態度で命じた。
「文字はそのままで、もっと見栄がするように作り変えてみろ。パソコン使えばちゃちゃっとできるだろ」
──でたよ、パソコン万能説。
どうにもパソコンに馴染みのない人間にかぎって、パソコンを過信する傾向にあるようだ。チラシ原稿と商品写真を入れてボタンを押せば、完成した印刷原稿が出て来るとでも思っているのだろうか。
「明日は午後から支店に行かなきゃならんから、午前中に原案見せてもらおうか」
さも当然のことのように保井が言う。
「明日までなんて無理です」
広は首を左右に振った。拒否されて、保井が目に見えて不機嫌になる。
「ん? なら、いつまでだったらできるんだ」
──いつまでもなにも、どうせまたタダ働きさせられるだけなんだから、レイアウトの変更なんてまっぴらごめんだ。
そうきっぱりと拒絶できたらどんなに楽だろう。広は時給制ではなく原稿料として一定額の報酬を得ているため、チラシの改善に伴う仕事に関しては賃金が発生しない。一方的に搾取されるばかりでなにも残らない。残るとしたら虚しさと疲労、それからパソコンの中の糞重いデータだけ。
とはいっても現実問題、断ることなどできるはずもなく、広は渋々口を開いた。
「来週のチラシが明日入稿なので、やるとしたらそれ以降になります」
「なんだ、明日入稿なら今晩やればいいじゃないか。明日の朝一で確認すれば来週のチラシに間に合うだろ。ああそうだ、これから事務所のパソコン使ってもいいぞ」
軽々しく発せられた言葉に、広は耳を疑った。
「え? 来週分からレイアウトを変えるつもりだったんですか? どう考えても無理ですよ。入稿は朝の十時ですし、手元の印刷原稿を見てもらえればわかると思いますけど、来週のチラシ自体、未完成なんですから」
感情的にならぬよう努めて冷静に対応しようとしたが、どうしても言葉の端々に、押さえきれない憤りが滲んでしまう。保井は紙面に視線を走らせると、落胆したといわんばかりに、ゆるゆると首を横に振った。
「どうしてもっと余裕を持って仕上げられないんだ。制作時間なら十分にやってるだろう?」
「……なかなか原稿が集まらなくて」
広が半ば投げ槍に答えると、保井は大仰に溜息を吐いた。
「お前もなぁ、原稿が出揃うのをただ待ってるんじゃなくて、どんどん催促して、主任達の尻を叩いて出させるくらいしないと。──そんなことじゃ社会人になってから苦労するぞ」
──ああ、やってられない。
相手の言うことには唯々諾々と従い、自分の言いたいことはぐっと呑み込んで、ただひたすら我慢の日々。それなのにこの言われよう。
最終的に、今週中に原案を提出するということで話はまとまり、広は保井から解放された。一連のやり取りですっかり気が滅入ってしまったが、それでもチラシの原稿を集めるため、重い足取りで店内やバックヤードを回った。
「お疲れさまです。小池さん、戻ってますか」
広は、日用雑貨売場で商品を陳列している従業員に尋ねた。主任の小池は火曜日から木曜日まで出張の予定になっていた。
「はいはい、戻ってるわよ」
てきぱきと歯磨き粉を並べていた従業員が、愛想の良い丸顔に笑みを浮かべた。
「そうですか、それは良かった。で、今どちらに?」
「あー、たぶん自宅じゃないかしら。主任、今日は昼上がりだったのよ」
「え……」
安堵したのも束の間、広は愕然とした。頬が引きつっているのが自分でもわかる。従業員が気遣わしげに問うた。
「午前中なら売場にいたんだけどね。なにか用事だった?」
「はい、原稿を貰いに。……あの、チラシの原稿とか預かってませんか?」
「いやー、預かってないわね」
最悪だ。入稿は明日だというのに、一部門、原稿を入手できなかった。それもよりによって残ったのが、広にとって最も厄介な相手だからたまらない。
広は暗澹たる気持ちでスーパーを後にした。